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作品名:鍛冶屋のせがれ 少年多一 作者:羅々見 朴情

第2回   最初の記憶

多一はこの世に生を受けて、まだ一年にも満たないある日の

午前のことを今も鮮明に覚えている。




そのときの空はどこまでも青く澄み渡り、真綿のように

白くて小さな雲が一つポッカリと浮かんでいた。
 
そして、その雲はゆっくりと流れていた。

そこは明るい陽光が降り注ぐ多一の生家の庭である。

  
多一は幸せそのものといった表情の若い女性に抱かれていた。

そしてその若い女性は、にこやかに多一を見つめ、優しく

あやしてくれていた。 

乳飲み子の多一もただただ嬉しくて、無心にその若い女性の

瞳を見つめていた。
 
二人はこの上なく幸せで満ち足りていた。
 
喜びに溢れている女性の横には隣家の佐倉さんのおばさんが

いた。
 
佐倉さんのおばさんはその女性と何か話しながら、やはり

にこやかに多一の顔を見つめていた。
 
佐倉さんのおばさんの後ろには佐倉さんの家の物干し竿を

引っ掛ける古い茶色の丸太ん棒が二本、青い空に向かって

まっすぐに立っていた。


そのてっぺんには丸太ん棒が腐るのを防ぐ為の空き缶が

さかさまに乗っかっていたが、その空き缶は赤く錆びていた。

そして、太陽は佐倉さんの隣の森山さんの家の屋根の上で

まぶしく輝いていた。

その森山さんの家は多一の生家から見ると南東の方角にある。

だから、そのときとは、その日の午前のことになる。




 
そのときの多一の記憶はここで終わっているが、これは多一の

この世における最初の記憶である。

多一は永い間、あの時自分を抱いていた若い女性は一体誰だっ

たんだろう、と不思議に思っていた。

多一はいつか,何かの機会に、その女性にきっと再会できる

ものと思っていた。

でも、多一は自分の周囲や親類縁者の中にそれらしき女性を

見出すことはできなかった。

幸福だったけれど不思議なことでもあった、あの若い女性との

束の間の想い出は、やがて多一にとっては深い謎へと変化して

いった。

幼い多一はあの想い出は夢だったんだろうか、と何度も思った

けれど夢にしては記憶が現実的でありすぎた。




しかし、成人して間もないある日、多一は今の母の他に自分

には実の母がいることを知った。

その実の母の葉子は多一を産んで半年後に元村の家を去って

行ったのだった。

多一の永い間の謎がこれで解けた。



そのとき、澄み渡った青空の下で実の母の葉子に抱かれていた

多一は乳飲み子なるが故に、本能的に実の母との別離を察知

できたのかもしれない。

それゆえ、多一はそのときの実の母の優しい笑顔と温もりを、

自分の心の中にいつまでも消えることのないように焼き付けた

のではないだろうか。


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