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作品名:鍛冶屋のせがれ 少年多一 作者:羅々見 朴情

第10回   10
多一は四年生になった。 

三年生の夏休みに扁桃腺の手術をしてから多一は熱を出

すことがなくなった。

それまで毎月一回、必ずと言っていいほど原医院に通っ

ていたのが嘘のようであった。

そして、その年の冬を一度も熱を出すことなく無事に

乗り切った。

それで多一も自分の健康に少しは自信がついた。

元村家では家族全員がこのことを喜んだ。

とりわけ祖父の藤蔵が喜んだ。

ある暖かな春の日、藤蔵は学校から帰ってきた多一に

こう言った。

「多一は扁桃腺を取ってから、すっかり丈夫になったな。

前みたいに、しょっちゅう病院に行っていたときに比べ

たら、今のほうがよっぽどいいだろう。」

「うん。」

「そうだろう。 やっぱり扁桃腺は取っておいて良かっ

たんだよ、分かるよな、多一。」

「うん。」

多一もそれについて異論はなかった。

藤蔵はさらにこう続けた。

「なあ多一、おじいちゃんは多一にもっと体力がつくよう

に何か運動をさせようと思っているんだ。 何かやってみ

たいと思う運動はないか?」

「ウーン、急に言われても分かんないよ。」

藤蔵もそれはそうだと思ったので

「じゃ、二三日考えてごらん。 何でもいいからな。」

と多一に言った。

もし当時、リトルリーグがあれば野球が大好きな藤蔵のこと

であるから、迷うことなく多一をリトルリーグに入れていた

であろう。



しかし、この頃は組織立って専門的に子供にスポーツを教え

てくれるチームやクラブというものがなかった。

多一はいろいろと考えたのだが藤蔵が考えているような運動

といえば柔道と剣道ぐらいしかなかった。

そこで多一は柔道を選んだ。
 
「おお、柔道か。 そうか、なるほどな、良いだろう。 

やってごらん。」

と藤蔵は多一の申し出を受けた。

「うん。」

と多一は答えたが、はたして自分にできるだろうかという不安

があった。

しかし多一はまずやってみようと考えた。

「じゃあ、明日おじいちゃんと一緒に入門の手続きに行こう。」

と藤蔵は多一に言った。

家からは少し遠いのだが東長崎駅と椎名町駅の間の目白通り沿

いに修讃館という柔道場がある。

藤蔵はその修讃館道場に多一を入門させようと考えた。

藤蔵は多一が柔道を選択したことに大いに満足していた。

そして、なにより体力を強化させたいという藤蔵の考えを多一は

受け入れたのである。

そうと決まったら、多一の気が変わらぬうちに早いとこ入門させ

てしまおうと藤蔵は思ったのであった。

善は急げである。





翌日、学校から帰った多一と藤蔵はそれぞれの自転車で修讃館

道場に入門の申し込みに行った。

修讃館道場は広い庭に三方を囲まれた百坪ほどの道場で目白通

りに面していた。

道場の玄関は目白通りに面しているのだが、普段は使われてい

ないようであった。

入り口はどこだろうと迷っていると柔道着を手にした小学生の

男の子たちが裏に向かって行く。

藤蔵と多一もその子たちの後について裏にまわってみた。

すると道場の裏の入り口が開いていて、そこから道場の中を見

ることができた。

そこには何人かの小学生たちに混じって二十歳ぐらいの男の人

が一人いた。

そこで藤蔵は明治生まれの職人らしい口調でこう挨拶をした。

「ごめんなさい。」

その声に気づいた男の人は藤蔵と多一を見て

「あっ、はい。」

と返事をした。

その人はその道場でアルバイトとして子供たちに柔道を教えて

いる大学生で名前を岡村といった。

岡村先生は藤蔵と多一を見て軽く一礼をした。

岡村先生はもうそのときには、二人の来意が分かったようで足

早に藤蔵と多一のところにやって来た。

岡村先生は柔道家らしくきちんと姿勢を正して

「いらっしゃいませ。」

と挨拶をした。

藤蔵も一礼をして

「じつはこの子に柔道をやらせたくてお邪魔にあがったので

すが。」

と丁寧に岡村先生に来意を告げた。

岡村先生は

「そうですか。 それではどうぞお上がりください。」

と藤蔵と多一に告げた。

岡村先生に促がされ二人は道場に入った。

柔道場の畳はひんやりとしていて、その感触は一般の家にあるもの

とは少々違うものであった。

岡村先生は玄関から続く座敷へ二人を案内した。

藤蔵と多一は、これが柔道場というものなのかと思いながら岡村

先生の後に続いた。





修讃館道場の清掃は行き届いていた。


座敷に向かう途中で一人のおばさんが台所のようなところから出

てきて二人に

「いらっしゃいませ。」

と言って頭を下げた。

藤蔵はここでも職人らしい口調で

「ごめんなさい。」

と言って頭を下げた。

多一も黙って頭を下げた。

どうやらこの道場の主の奥さんのようだ。

座敷に来て見ると、そこには座卓があり玄関のガラス戸の反対側の

壁の前には小さな木製の書類入れのようなものがあった。 

岡村先生は上座に座布団を二つ敷いた後で

「どうぞ。」

と言って二人を上座に案内した。

藤蔵は

「有難うございます。」

と言ってそこに腰を下ろした。

多一もそれに倣って座布団に正座をして座った。

そして藤蔵は

「私は元村と申します。 これは孫の多一です。 おい、多一、

ご挨拶をしなさい。」

と多一にも挨拶をするように促した。

藤蔵に言われて

「こんにちは。」

多一は言われたとおりに挨拶をした。

「はい、こんにちは。 僕はここの道場で子供たちに柔道を教え

ているN大学の岡村五郎です。 どうぞよろしくお願いします。 

ところで元村君はどこの小学校?」

「はい、長早小学校の四年生です。」

「長早小学校の四年生か。 四年生にしてはずいぶん大きいね。

柔道は初めて?」

「はい。」

岡村先生の問いに多一はそう答えた。

四年生になっても多一の返事は家の中では相変わらず「うん」で

あったが、このように改まったときには「はい」となっていた。





多一が柔道は初めてやることを告げたとき先ほどのおばさんが、

お盆にお茶とコップに入ったジュースを載せて座敷にやってきた。

おばさんは

「先ほどは失礼いたしました。」

と言って藤蔵にお茶を出し、多一にはコップに入ったジュースを

出した。

「恐れ入ります。」

と言って藤蔵は軽く頭を下げ、多一も

「有難うございます。」

と言って頭を下げた。

岡村先生は

「元村さん、こちらは当道場の川野師範の奥様です。」

とそのおばさんを藤蔵に紹介した。

「はじめまして、川野の妻でございます。  どうぞよろしくお願い

いたします。 生憎本日、川野は外出しておりますので私が代わりに

お話を承ります。」

と師範夫人は藤蔵に丁寧な挨拶をした。

「ああ、それはどうも。 はじめまして。 元村と申します。 今日

は孫のことをお願いに参りました。 ひとつ、よろしくお願いいたし

ます。」

と藤蔵は挨拶をした。

続いて岡村先生は師範夫人に

「元村君は長早小学校の四年生で、柔道を習うのは初めてだそうです。」

と奥さんに伝えた。

奥さんは

「そうですか。 元村君は背が高いわね。 柔道は好き?」

とやさしく多一に話しかけてきた。

多一は

「はい、好きです。」

と答えた。

奥さんは

「そう、じゃ一生懸命頑張ってね。」

と多一を励ました。

そして書類入れの引き出しから数枚の書類を出して藤蔵の前に置き

「こちらは入門する際に必要な書類ですのでご記入をお願いいたし

ます。」

と言って軽く頭を下げた。

師範夫人の仕草はどこまでも丁寧である。
 
藤蔵は

「はい。」

と言ってじっくりと書類に目を通し、必要事項を記入し最後に判

をついた。

そして藤蔵は書類をきれいに揃えて師範夫人の前に差し出した。

「これでよろしいでしょうか。」

「はい、拝見いたします。」

師範夫人は一枚一枚書類に目を通し

「はい、結構でございます。 有難うございます。 ところで、

柔道着はお持ちでしょうか。」

と尋ねてきた。

「いいえ。」

と藤蔵が答えたので師範夫人は

「それでは当道場で用意してある柔道着をご購入願えますか。」

と聞いてきた。

「はい、お願いします。」

と藤蔵は答えた。

「かしこまりました。 では、岡村先生お願いします。」

と師範夫人は岡村先生に新しい柔道着を用意するように指示をした。

「はい。」

と答えた岡村先生は倉庫から新しい子供用の柔道着を持ってきて

「元村君の身長だったら、これで合うはずだけどな。」

と言いながら試着の用意をしている。


柔道着を試着する為、パンツ一枚になった多一は、いよいよ柔道着

を着るのかと思うと嬉しいような怖いような気持ちになった。

新しい柔道着は生地が硬くゴワゴワとしていて、とても人間が身に

まとうものには思えなかった。

それでも多一は新しい柔道着に腕を通し、最後に白い帯を岡村先生

にぎゅっと締めてもらった。 

そのとき多一の身体は前後に一回小さく揺れた。

「はい、できた。 ウーン、なかなか似合っているよ。」

と岡村先生は言ってくれたのだが、どう見てもその新しい柔道着は

多一には少し大きいようにみえる。

「うわっ、ブカブカだ。」

多一はブカブカでゴワゴワの新しい柔道着に

いささか驚いた。

しかし岡村先生は

「ちょっと大きいけれど、これぐらいで丁度いいんだよ。」

と言った。

師範夫人も

「そう。 四年生ぐらいの子はすぐに大きくなってしまうから初め

て柔道をやる子には、皆少し大きめの柔道着を買ってもらっている

のよ。」

と岡村先生の言ったことが正しいことを多一に説明した。

そして、師範夫人は多一にこう促した。

「元村君、おじいさんのほうを向いてごらんなさい。」

「はい。」

そう返事をして藤蔵の方を向いたとき多一はニコッとした。

はじめて柔道着を着た多一を見て

「うん、うん。」

と言いながら藤蔵も満足気にニコニコとしていた。

師範夫人と岡村先生もニコニコとしていた。 




 

入門に必要な書類と柔道着も揃った。

「それでは恐れ入りますが、入門料と今月の月謝、それと柔道着の

代金をお願いできますか。」

「はい。」

と答えて藤蔵はお金を払い、その後におつりと領収書を受け取った。

これで多一は晴れて修讃館道場の少年部の門弟となったのである。




その後、藤蔵は師範夫人と岡村先生に、多一は生まれつき扁桃

腺が弱く、その為小さい頃からよく熱を出していたことや、そ

の扁桃腺を去年の夏に手術してからは、熱を出さなくなったこ

となどを話した。


その藤蔵の話を聞いて師範夫人は、柔道を始めてから体力がつ

き健康になった子供がたくさんいたことを、二三の例をあげて

藤蔵と多一に丁寧に説明をしたのであった。

藤蔵もそのような事例を耳にしたことは過去に何度もあったが、

今こうしてそのような事例を実際に体験した人から直接聞いて

認識を新たにした。

多一に体力をつけさせるために何か運動をさせようと考えてい

た藤蔵は安心したようで

「奥様、岡村先生、なにとぞ孫のことをよろしくお願いいたし

ます。」

と深々と頭を下げた。

それを受けて師範夫人と岡村先生も頭を下げた。




師範夫人や岡村先生の立ち居振る舞いその他から察するに、

この修讃館道場は躾に厳しそうだ。

これから多感な時期を迎えようとしている多一にきちんと

した礼儀作法を身に付けさせたい、と以前から考えていた

藤蔵は孫を修讃館道場に通わせることを喜んだ。

多一も藤蔵の満足げな表情を見て、柔道を選んでよかったな、

と思った。

こうして多一は翌日から少年部の稽古に通うことになるのであった。




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