想えば、母は大層不憫な人生を送った様に感じる。母は子供の私から見ても、大層美しく、才智ある女性であった。また女性としてだけでなく、幼い私に勉学を教え、道徳を教え、母としても申し分なかった。私の自慢の母であった。 母は幼い頃は呉葉と名乗り、貧しい生活ながらも、父母の寵愛を受け育った。年頃になると、その美貌から多くの男から求愛された。上京した後、名を紅葉と改め、四条通で小さな店を開き大層繁盛した。店の合間には近隣の子等に琴を教え、そちらも大層繁盛した。 そうするうちに、母の美貌と琴の音色に誘われる様に現れた、男に遣える事となった。男の名は源経基といい、大層高貴な身分であった。 経基公に遣えて幾年、母は懐妊した。身篭り、経基公から更なる寵愛を受けた母は、御台を疎ましく思う様になった。御台への憎悪を募らせた母は、御台を亡き者としようと呪詛を行った。次第に御台は痩せ衰え、目は虚空を彷徨い、遂には病床に伏せた。経基公は御台の異常を悪鬼魍魎の仕業と考え、高僧へ祈祷を申し入れた。高僧の祈祷は、御台だけでなく屋敷の全ての者へ行われた。しかし、母は祈祷を受ける事を頑なに拒んだ。経基公が理由を尋ねると、母は御台への憎悪から呪詛を行った事を認めた。御台へ呪詛を行ったとあれば、死罪は確実であった。しかし、経基公の愛した妾である事、其の身に子を宿している事から、足柄山への追放に減刑された。 足柄山に着いて、幾月も経たぬ中に私は生まれた。母は私を養う為、村人の傷を祈祷と檜扇を用い癒し、読み書き、算術を教え、慎ましく暮らした。幼い私は、川魚を獲り、熊と相撲を取り、時に母を手伝い過ごした。決して裕福では無かったが、母も私も共に大変満たされた時を過ごした。 私は十五で元服した。元服した私は、母を養わねばならぬと意気込んでいた。しかし母はそれを断固として拒否し、戸隠山へ住むと言った。余りに頑なな母の姿勢から、何か思う所があるのだと感じ、其の小さな背中を見送った。それは最後の母の姿であり、親子の満たされた日々の終焉であった。 戸隠山へ移り住んだ母は、暫くの間、里人の傷を癒し、勉学を教え生活していた。しかし長い山村生活は、経基公との都での生活を思い出させ、母の心を苦しめた。都を想う充たされぬ想いは、人としての母の心を蝕み、母を鬼へと変貌させた。鬼と成った母は、近隣の村々を襲い始め、金品の略奪を行う様になった。母の略奪は日を追うごとに激化し、近隣の村々だけに留まらず、遠方にまで及んだ。 母の悪事を見かねた朝廷は、平維茂に討伐命令を出した。母は、妖術を用い維茂を苦しめたが、降魔の剣を手にした維茂により、其の首を刎ねられた。 頼光公から聞いた母の最後は、余りにも不憫であり、余りにも救いがたいものであった。 私を除き、母が人であった頃を知る者はもう居ない。私が死んだ後、女として、母として幸せであった彼女を語る者は居なくなる。私にはそれが大層不憫に想える。
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