猪牙舟に乗って、隅田川を上る。 「おおう、こりゃ、絶景」 ちゃば、ちゃばと川面をこぐ櫓が、風流にゆらめく三日月を台無しにする。しかしその場には、誰一人としてそのことを気にとめる者はいない。 「おうおう、浮き世に立ち昇った桃源郷だねえ……」 皆、手のひらを軒にして、遠くの闇夜に浮かび上がる紅色の――大きな灯火のような街を見つめている。 「何をいうかね……」 船頭の爺さまが誰に言うともなしにぽつりとつぶやく。 「地獄だよ……」
【壱】
「おおう……ここが噂に聞きし、吉原の大門かい」 猪牙を山谷堀で降りて、のらくら歩きながら軒並ぶ水茶屋の間を抜けて、左に曲がると、 「ああ、そうだよ。ここを抜けりゃあ、待ちに待った吉原だよ」 「いやっほーう! ついに俺も、男の夢、吉原初登楼だぜえ!」 明珍が無駄にいきがる。 こっから先は、まさに異界。ぐるりを取り囲んだ壁の外の世界とは、まるでがかけ離れたこの世の別天地だ。 (待ってねえよ……) 心太朗は一人苦々しい顔をしている。半ば無理矢理のかたちで、いつもの放蕩仲間の宝蝉寺坊主、明珍と瓦版屋の烏辺の条に連れてこられたのだ。 門をくぐると、しょっぱなから派手な引手茶屋が右左に立ち並ぶ。何が派手かって、幾人もの昼三花魁らが店先で優雅に煙草の煙をくゆらせながら、今夜の客を待っているからである。この雰囲気に、どうにも気が進まなかった。なんせ人が多い。
「見ろ! 心太朗」 「これぞ花魁だぁ……」 門からまっすぐ奥まで伸びる大通りを、二人の禿を先頭にし、極上の花魁が、その後ろに新造二人、若い衆を引き連れて八文字でやって来る。 いわゆる現在の遊女の最高級は“散茶”というやつだ。宝暦まではそれこそ太夫というそれはそれは大層なのがいたのだが、あまりにも莫大な金がかかり過ぎて、階級が上がったはいいが、客足がかえって遠のいてしまった。それじゃあ、どうにも体裁がよろしくない、ってんで、以降、散茶(抹茶)のように特に振らなくてもいい。つまりはどんな客も振らない。つまり散茶花魁てなわけである。 武家も絵師も遊女も、名ばかりではやっていけないということだろう。 まあそれでも、たいがいの町人にはとても買える額じゃあない。どう考えても、我々のような下々の者には手が届こうはずもないのである。 「…………」 見るからに、というよりも直視できぬほどにまばゆく輝いて見える。 「うりゃ……うりゃ……」 横で這うような苦しい姿勢で花魁の裾をつかもうとする仕草をしている明珍。 「…………」 ま、こういうのも下賎の者どもにできる、せめてもの愉しみであろう。
「おっ、いい女だぜ!」 唐突に叫ぶと、一言の断りもなしに、人ごみの中に走り去る明珍。 「しょうがねえな……珍公も。ははは」 余裕の条。彼だけが、この吉原に何度も出入りしている。 「あぶねえ目にあっても、知らねえぞ……」 それとは対照的に、絶え間なく周囲を警戒している心太朗。 「ちょいと、そこのお兄さん」 「おっ、そいじゃあおれっちも……」 小格子の張見世の向こうから手招きする女に引かれて、条もふらふら人ごみの中に消えていく。 「じゃあ、心さんも適当にやってくれ」とだけ残して。 「ぬぐう……」 明珍、条とはぐれた心太朗は、早速先導をなくし、しばらくその場に立ち尽くしていた。 (奴ら……)
【弐】
(うぬぅ……) 迷った。 齢二十五にして、迷子になった。 (ううう……――) 迷宮だった。紅い影の迷宮。壁は、赤地に金刺繍のものや抹茶緑、紫、藍、白、見事に乱れる花吹雪、今まさにその下をくぐり丹頂鶴が飛び立つ。出目、蘭虫等々金魚軍、分けて泰然と泳ぐ錦鯉、やがて行き着き、昇る漆黒の滝。そのような洋々たる夢から夢へと移ろい渡る極彩色の蝶。蝶。蝶。 そこかしこから、強烈な女の色香が匂い立つ。それが、くらくらと眩暈を起こさせる。 煙草の煙が漏れる籬の向こうから、豪奢な衣の上に雲海を纏った女たちが――いつか夜の海で見た、満月を慕い呼び寄せようとする無数の潮招きのように――手招きしている。 (…………)
(んなこと云ったってなあ……)
(こっちゃあ、金がねえ)
連なる小見世の前を通る度に、若い衆の妓夫に「ちょいと、旦那、旦那」と声をかけられ、時には袖を引っ張られ、それを振り払いながら歩く。 真ん中の大通りからだいぶ離れて、明かりの少ないところに出た。 「ふぅ……これっくらいの方が、俺にゃあ落ち着くぜ……」 しゃがんで、土壁に手をついて一息つく。 「あッ――」 突然、影にひっぱり込まれる。 (な、なんだ……!?) 袖を、手ががっちりとつかんでいた。 「……旦那ぁ、ここの通りを歩いて、ただで抜けられるとお思いかえ……」 「くっ、離せ!」 聞いてはいた最下層の遊女だ。 「離すもんかね!」 その細腕からは、信じられない力だ。近くにあった小屋に連れ込まれて、押し倒される。 「ぐあっ――」 女がくたびれた裾をいっきに開く、 「さあ、さあ、お前のお足、ついでにイチモツ、頂くよぉ……」 (くッ――) 一点、めがけて降下する。 「……離しな」 ぱぁあん、と頬を引っぱたかれた遊女が横に倒れる。 「ぎゃあっ!」 「お、おまえは……」 「このお方は、お前のような下種な女が扱っていい人じゃないんだよ」 別の遊女だ。しかし、今度のはだいぶ身なりがちゃんとしている。 「な、何を言うか! ここの通りにゃあここの“きまり”があんだ、ちょっとくらい顔が売れてるからって、あんたにでしゃばられる道理はないよ!」 「…………」 「ええ! どうした!」 「……やろうってのかい?」 「え……」 「うちとさあ……」 「う……」 鋭い睨みが、遊女を射抜く。 「ううっ……行きな! 二度とここを通るんじゃないよ」 すんでの所で解放された心太朗、そして解放した遊女が横に並んで歩く。 「すまねえ……助かった」 「いえ、たまたま通りで見かけたものですから。しかしどうして、心さんのようなお方が、吉原へ?」 「む……まぁ、知り合いに連れられて、な」 「あのような、切見世の連中にはご用心くださいな。もっとも、心さんなら、通らぬにこしたことはありやせん」
この女の名は、紅葉。つるりとした額。二重の大きなつくりの目。きりとした眉。うっすら引かれた紅。総じて、たいへんに――容貌の美しい女。身なりこそ今は無き太夫の、ほとんど甲冑のような豪壮な衣装ではないが――、簡素な色彩と柄ではあるが、洗練された小粋な小袖。それを広帯で長屋のお内儀と同じように後ろに結ぶ。動きやすさを重視したためであろう、袖も裾も周囲のようにやたらと長くはない。根を元結でくくった(ほぼ後ろで軽く縛った)だけの髪には、それでも黒地に朱色の紅葉柄蒔絵の簪(かんざし)が二本ささっている。心太朗にとっては、かえってその洒脱さが艶っぽく思える。そして、現在半籬の中見世、“一色屋”の遊女である。
心太朗は商売がら、深川の岡場所“艶海”によく出入りする。その艶海に、心太朗が仕事をする際、世話になっているお柳という中年増の遊女がいる。お柳は、紅葉太夫の元姉さんである。つまり、そういうことである。
仲の町通りに抜ける途中、 「ううっ……ううぅ」 泥酔したような女が、うめきながら身を縮こめてうずくまっていた。 「……おい、おめえさん。大丈夫かい?」 「…………」 だらしなく乱れた小袖。やせ細りこけた頬。それにしても返事がない。 「うッ――」 よくよく目をこらせば、所々瘡になった皮膚。充血した目が恨めしそうに睨みつける。 「あああ……ぅぅ」 足早にその場を立ち去る。 「梅毒患いか……」 「そういう者たちがここにはいっぱいいます……」
【弐】
「何処行くんだい……?」 「…………」 女は返さない。 裏口に回り、中見世くらいの屋に上がってゆく。 「姉さま!」 十くらいの禿が紅葉の顔を見るなり、走り寄ってきた。 「探しました」 「うん、ごめんね」 心太朗に気づいた禿が、煙草盆を持って同行に加わる。 「何処行くんだい……?」 「…………」 とんとんとんと、二階に上がり、遣り手らがいないのを確認して、左右に並ぶ襖の内の右の一番奥に入る。 「おまえ、あっち行ってな」 「え……」 「いいから。上には言うんじゃないよ」 「……はい」 「独りでも、踊りの稽古、か――もしくは昨日やった草紙を読んでおくんだよ」 紅葉がうなずく禿を払い、八畳ほどの場に二人きりになると、 「ふぅ……」 と一つ長いため息をついた。ため息ついでに、行灯の灯を消した。 「…………」 部屋の中がいっきに暗くなる。 「おい……何も見えねえ」 ザサッ――という木が擦れる音がする。 「……ほお」 窓べりに腰かけ、身を乗り出す心太朗。 隣りに立つ紅葉。
二階から望む吉原の景色。 丁度街の中央から、ちょいと外れたあたりに位置するのだろう。首を左右に見える半景は、遠くにゆくにつれて暗くなってゆく。 三味線の音。もめごとか、喧嘩ごしに声を張り上げる若い衆。比して能天気な幇間の声。それに続く女たちの笑い声。仲の町を行く人々。
「みんな、いい気なもんさ……」 云いながら、帯から紅羅宇の煙管を取り出す。無意識の一連の動作のように、小巾着を懐から取り出し、刻み煙草を詰め、禿が置いていった煙草盆の炭火から火をもらい、つうと吸う。 「……あ、心さん。煙草やりませんでしたっけ?」 「ああ」 燃え始めたばかりの煙草を押し潰して灰吹きに落とし、煙管をひょいと外気に晒しとんとんとんと、三度降ると再び帯へと挿し戻した。 「ふうん、この街ゃあ、桃源郷。そこで生きる女たちは、天女さまらかと思ったが――」 先ほどの事を思い返す。女こそ買いはしないが、深川の岡場所にはよく出入りする。しかし、この世の桃源郷とうたわれる吉原でも、やはり光があれば、影があった。その落差が極端なものだから、余計に這いつくばる者たちがはなはだ酷く目に映る。 (ここには天女から――三途の川の奪衣婆、亡者までいる) 「桃源郷か……うちにとっちゃあ、出たくても出られない、牢獄だね」 来るときの船頭の言葉を思い出した。 “地獄だよ……”
「欲の望を、さらに研ぎ澄ました、憂き世の夢ん中……撒けども撒けども、その実は生らじ」
「やっと生ったか、喜びながら殻剥けば――あら哀しや、中身は空っぽ。落胆したまま、枯れゆくしいなが」
心太朗がつぶやく。
“騙す女たち。 騙されにいく男たち。 本気になる女。 その本気に怖気づいて、および腰になる男。 男女の仲は満ち潮、引き潮。 潮目を見分ける術を知りたきゃ、 下ばかりを見ているより、空のお月さんを見上げな――”
紅葉もつぶやく。
“それらを、後ろから糸引く老獪な妓楼の主人たち。 絡繰れば、空回り。 所詮は、男女の仲だもの。 くんずほぐれつ絡まって、身動き取れず、溺れて果てるが―― まあ、オチさね”
「番傘の絵柄んなってぐるぐる回されている 男と女。 いつまで経っても、交わることのできねえ心と心。 面白がっていつまでも廻している、稚児かな」
「愛憎渦巻く、鳴門の渦潮。 “と”に成る前は、貴方に“ほ”の字。 まごうことなき、人間の性。 遠い目で見ながら、懐かしむ老い人かな」
「心さん……」 しなだれかかる紅葉。 「妓牢の生活は……もう、こりごり」 「…………」 「七つで実の親に売られ、女衒と旅をし、吉原の門をくぐり、禿として九年。ようやく人並みになって三年。得たものは――」 紅葉が喧騒の燈の輪に向かって手を伸ばす――さながら張り見世の中の遊女らのように。 「この枠に切り取られた、景色だけよ……」 「……」 「ああ、届かない……」 空をつかんでは、すりぬけてゆく光たち。 「男も、女も……この街に染まったやつらは、皆哀しい色のやつらよ」 紅葉の頬を、一筋の涙が零れる。映った街の紅燈が、一瞬きらりと光って墜ちた。 「…………」 「……ごめん」 「……言い寄るんなら、もうちいとばかし羽振りのいい旦那にしな」 「……だから、そんな野郎たちはもう見飽きたって云ってんの」 じれったいように、語尾を荒げる紅葉。 「何をいうか、それ――そこの帯から見えるのは、誰かさんに渡すための起請文じゃねえか」 紅葉の山吹色の広帯から、折りたたまれた白い書状がくてと垂れ下がっていた。先ほどの煙管の出し入れの際にずり上がって飛び出したのを、心太朗は見逃さなかった。熊野神社発の熊の牛王紙裏面を使い、“年季が明けたなら、きっと夫婦になりませう”という、遊女の相手の男への誓いをしたためたものである。これにさらに血判を押してあれば完璧だ。まあ、正直遊女のよく使う手口(序の口)である。これを貰った男は、喜んでまた金をつぎ込んでくれるって寸法なわけである。 「……ばれたか」 「ふん……」 ようするに、まだまだやれやれしたたかな女だぜ、ってことである。 「もう、心さんは手強いなぁ……」 「伊達にこの歳まで、男の操守ってねえよ。ははは」 「ぷっ……あははは、くだらない。男のくせに、操だって」 「だろ? くっだらねえの、おれ」 「はぁ〜あ、やっぱ……好きだわ。心さん」 「ははは……」
角町の見世の縫い間を抜け、待合の辻に出て、仲の町をほてほて歩き、大門の前まで戻ってくる。 「ぉーぃ! ぉーぃ!」 向こうから、明珍と条がそろって手を振り振り笑顔でやってくるのが見える。 「…………」 二人とも、なぜかふんどし一丁のすっ裸だ。
「心さん」 「あん?」 「遊女での初めては、うちにしなよね」 「あいよ」 「安くしとくから」 「ははは、ありがとーよ」
終――
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※ 花魁・遊女の階級は、上から
太夫(宝暦の頃に諸事情により消滅) 以降、散茶(昼三・呼出し・付廻し)が最高級の遊女として、花魁と呼ばれるようになる。
大籬(総籬)・・・揚げ代が、金二分(二千文⇒)以上の遊女を抱える高級見世。
半籬・・・揚げ代が、金二分〜二朱(五百文⇒)の遊女を抱える中級見世。 所謂、中見世。
小格子・・・揚げ代が、金一分(一千文⇒)以下の遊女のみを抱える下級見世。
切見世・・・おはぐろどぶ沿いの浄念河岸と羅生門河岸に軒を連ねる最下級見世。
レートを、一両=10万円、一文=20円とする。(一両=五千文)とする。
八文字・・・遊女が道中歩くときの足捌き。時代劇とかで見る時の、あの優雅なやつ。
江戸時代において、年増とは・・・ 娘盛りを過ぎた女性。 年増・・・20歳前後の女性。 中年増・・・23、4歳から28、9歳頃の女。 大年増・・・30歳以上の女。 である。
遊女の手練手管として、「誓詞」「誓紙」「髪切り」「入れ墨」「爪剥ぎ」「指きり」 等がある。 最後は・・・・・・「情死」
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