お笑い番組が終了しテレビがコマーシャルを流し始めたのを見透かしていたように、携帯のメール受信の曲が、信二のズボンのポケットで、ユリアから澄江への宣戦布告のゴングとなり、コマーシャルの上に高らかに鳴り響き、消えた。 携帯を取り出すしぐさを見せない信二が、わざとらしくトレーナーの袖口を少しめくり時計を目にしながら立ちあがる。時間は六時五十五分過ぎである。 にゅるにゅるジェル状となり変化してゆく自分の表情を感じながら、澄江は居間から玄関に続くドアノブの信二の手を見つめていた。 「しん、ちょっと待って、ちゃんと話そう。わたしが黙っているからこの状態が続いているんでしょ?」 発した澄江自身が驚いた強い声が、テレビの音と競い合っている。 「ごめん、もうすぐ終わる。悪いけど3月まで続けさせてくれ。本当にごめん」 背中を見せたままで信二が答える。 「分かってるよ、長野ユリアさん高看の資格取るためにS市に行くんだよね、座って」 反射的に驚愕の表情となった信二が、茫然としている。 「この場で話をつけなきゃ、彼女のとこには行けないよ。連絡したら?今、決着つけるから、今夜からは住み込みでそっちに行けるって」 「待てよ、そんなんじゃないって。浮気だよ、悪いけど道草だ.・・・彼女にも最初から言ってある、俺は結婚しているから他の人とは結婚はできないって」 「それで納得している二人はいいかも知れないけれど、女と寝ている夫と知りながら、わたしは、しんの帰りを待っていた・・・しんがそーっとシャワーを使っている音が聞きたくなくて、耳を塞いでいた。 最初の夜『おかえりなさい』ってわたしが声をかけたら、しん、驚いて身体を硬直させたよね、伝わってきたわ、固まっていくのが」 信二が女の部屋に行った夜、寝つかれない澄江はベッドから飛び出て、キッチンで包丁を取り出す。 砥石の解けた石に染まった専用のタオルを取り出し濡らして敷き、その上に水で湿らした砥石を置く、包丁を滑らせる、押して、引く、押して、引く、髪の長い小太りの女が笑う、信二が応えて笑う、女が信二を見上げて意味ありげな眼をおくる。信二が了解したサインを眼で返す。その姿を砥石と包丁の摩擦で消去するように、押して引く、押して引く、押す、引く、押す、引く、リズムが速くなって行く。 嫉妬と闘いながら包丁を砥ぐ。嫉妬を封印すらためだけにひたすらに包丁を砥いだ。 「すーには、本当に済まないと思っていた。すーの感情が日ごとに干からびて、俺の好きなすーの笑顔が消えて行った、だけど、すがりついてくる彼女を振りきれないんだよ、だってあいつ、俺が別れるって言うんなら死ぬ!そう言うんだ。3月になれば彼女は高看の学校に入るためにこの町を離れる、だから、あと2か月続けさせてくれ、頼むよー」 信二を凝視していた澄江が顔をゆがめるとキッチンに向かい、立ちつくす澄江の両肩が大きく揺れている。 「すー、ごめん、本当にごめん」 声をかけながら澄江に近ずく信二に 「こないでぇー」澄江の絶叫が部屋を震撼させた。 信二があわててテレビのボリュームを上げる。 シンク下の扉を開け包丁立てから1本の包丁を取り出し、身体の後ろに両手を回した澄江が近づいてくる。 「しん、座って」 オドオドとソフアに腰を下ろす信二に、威嚇する口調の澄江の言葉が弾き出される。 「しん、これ見てごらん。嫉妬と闘いながら砥いだ包丁、切れ味良さそうでしょ、何回も、何回も、頭の中でしんを切り刻んだわ。いよいよ、実行するときが来たみたい。スパッと切れるからそう痛くないと思うよ、いいかい」 いきなり澄江の手が信二の頭を自分の腹のあたりに抱え込むと、包丁を信二の首に突きつけた。 恐怖に硬直してゆく信二の表情。包丁が首にピッタリとくっついている。信二が口の動きを抑制しながら言葉を出す。 「別れる、今、ここから電話する。絶対にもう会わない、やめてくれー」 喘ぐかすれ声だ。 「動いたらダメ〜。刃が食い込むでしょ。お父さんも、お母さんが家を出てから包丁を砥いでいた、魚屋だから当然と思っていたけど、自分が包丁を砥ぎ始めてから分かった。お父さんは突然湧き上がってくる嫉妬を封印する為だけに包丁を砥いでいたって・・・わたしもそうだったから」 刃との摩擦を少しでも避けようと、信二の身体が後ろに倒れていく、包丁の刃が皮膚にくっついたまま追っていく。 「すー、ごめん。本当にごめん。もう絶対に浮気はしない、約束するから、包丁離してくれ」 信二の恐怖に見開かれた眼を自分の目の中に写し込みながら、この眼を好きであった自分が浮かび上がる。そして、今もこの眼が、この首が、少し硬い髪の毛が、いや、信二の全てが好きな自分が信二に包丁を突き付けていた。 突然澄江の頬に涙が流れ始めた。 「わたしのお父さんも、じいちゃんも、魚屋だった。二人が魚屋の誇りと魂を込めて使い、砥いだ包丁で私が人を殺すなんて・・・そんなこと出来ない。しん、ごめんね。行って、もう、行っていいよ」 信二の首から包丁が離れた。 「ふあ〜ぁー」信二の安堵のため息が大きく口から洩れ肩が落ち、ソファの上にグレイのトレーナーが転がった。 澄江が包丁を横に置き正座して泣いている。指の間からあふれてくる涙、呆けた表情で何も視認していない眼を天井に向けていた信二が、 「ホラっ」。テーブルの上のティッシュの箱を掴み床の上を滑らせると、ティッシュの箱は澄江の膝にぶつかって止まった。 信二の右手の親指が携帯の電源の上に長く留まり、電源オフとなった。
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