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作品名:砥ぐ 作者:つらら

第1回   1

「カッチャーン」茶碗が床に落ち音を立てた。

薄めの焼き物の茶碗は、きれいな音色で部屋を覆い、まるで『あること』の始まりであり、終わりを告げる合図のように鳴り響き、残像のように耳の奥に長い余韻となった。
かけらと形を変えた茶碗は、花の模様の紅い色を見せ内側の白を覗かせ、断末魔の生き物となり、絶え絶えの息遣いで床の上にあがいていた。
この瞬間かけらのひとつひとつを指で弾いたら、全てが立ち上がり、元の茶碗に復元出来るような気がした。茶碗はまだ生きていた。
この茶碗は三年前二人が九州に旅行した際、澄江が有田で、たくさんの茶碗の中から迷い、決めあぐね、時間をかけて選んだ夫婦茶碗であった。「もう、いい加減に決めな」。焼き物屋の店内で声を寄こした信二の笑顔、声のトーン、その時の情景が浮かんできた。
澄江が信二に着せたくて買った、分不相応のバーバリーのジャンパーを着て、「おれ、はき慣れたこのジーパンがいい」。信二の意向でバーバリーには少し不似合いのくたっとしたジーパン姿の信二が、何回自分に笑顔を向けたかも、澄江は思い出すことが出来た。

どうして茶碗が手から滑り落ちたのか。
澄江には茶碗を持っている意識も無かった。全神経をひとつのことに傾注していたのだった。   
テレビを観ていた信二があわてた気配でキッチンに入って来ると、床の茶碗を眺め、澄江に視線を当てた。
(あわてて来たわ)。信二の素早い反応に安堵の心地よさを味わいながら、信二を試そうとして、わざと茶碗を床に落としたのではないか、と自分の心を疑っていた。
向かい合う信二の平熱三十六度四分の温かさが、伝わってくる。
「手が滑っちゃった」澄江はなぜか言い訳がましく、無言の信二に応えた。
「手、なんともないか? 」
「うん」
信二が掃除機を持ってきた。先に大きいかけらを拾い集め、残った小さなかけらを掃除機で吸い取る音の中から、「形あるものはいつかは壊れる」。小さいけれどクリアに信二の声が聞こえた。
(それって、私たちのことを言っているわけ?)          

その日は金曜日であったが、交代勤務の信二の休日であった。
いつもの休日のように遅く起きて、午後から澄江と一緒にスーパーに買い物に出かけ、帰りにレンタルDVDを借り居間で見ていた。
信二はこの三か月ほど金曜日は必ず帰りが午前二時過ぎであり、休日の金曜日に、どんな口実をつけて出かけるのか朝から気になり、すべてが上の空の澄江だった。
スーパーに向かう二人はこれまでのように、わざと身体を寄せ合ったり、意味もなく視線を絡ませることもなかった、店内でも偶然横に並んだ買い物客同士のような、二人であった。
一応問いかけた。
「何にする?」
「う〜ん、何でもいいけど」
「手巻きずしは? 」
「あー、手巻きずし、いいなぁ」
 それで、夕食は久しぶりの手巻きずしとなった。
わさびもそれぞれが自分の好みの量を使うので、激辛にしてムセさせて「ごめーん、辛かった? 」、腹いせをするチャンスもなかった。
これまでの澄江の毎日は、信二にくるまれ、ゆらゆら揺れている心地よさの中で過ぎていき、その暖かな安らぎの快感は、自分が猫の性を持って生まれてきたのではないか、と思うほどであった。
信二が金曜日、深夜に帰宅する日が始まるまで、澄江の毎日は平穏で幸せであった。
澄江は包丁と砥石を取り出した。砥石の解けた物質に染まって灰色になった濡らしたタオルの上に、水道の蛇口の下で水を吸わせた砥石を置く。
包丁砥ぎは砥石の上に刃を滑らせる、押すリズム、引くリズム、この滑らせるリズムに全神経を集中させるので、他のことが入り込む余地はまったく無く、忘我の境地に逃げ込むことができた。
信二は出かけるそぶりも見せずテレビを見ている。
テレビの中から若い女の聞き取りにくい、甲高い声が聞こえ、それに反応したように、前かがみになった信二のグレイのトレーナーの背中が揺れ、笑い声をたてた。
口に出せない言葉が澄江の心の中で弾けた。
「しん、笑っていられないんじゃない?私が何をやっているか見なくていいの?わたし包を砥いでいるのよ。見てごらん。すっごく切れそう」
砥ぎ終わったばかりの包丁は澄江の顔を横に幅広く映しこみ、研ぎ澄まされた鋭い刃は、如月の月のように、触ると皮膚がくっついてしまう程の冷たさで、冴えわたっている。
魚屋だった父が、ゴムの前掛けをはずすのが店じまいの合図で、父は「魚正」と書かれたガラス戸一枚だけをそのままに、他の三枚のガラス戸の前に、滑りの悪い板戸を押し上げたり、強く引いたりしながら立てた。
板戸はいつも水がかかり湿っていたので、下の部分は板がめくれていた。
父は閉店後その日使った包丁を調理台に並べると、水を張ったバケツの中から砥石を取り出し、砥石が動かないように布を敷いて、包丁を丹念に砥ぎ始める。
砥ぎ終わった包丁は人差し指の腹で、刃ざわりを皮膚で確認するのが、仕上げであった。
父は砥ぎ終わるまでにタバコを2本吸った。そんな父の姿を毎日見て育った澄江は、門前の小僧で、自己流ながら刃物砥ぎは手馴れたことであった。
澄江は自分が意識して包丁を砥ぎ始めた時に、昔、父の正俊がどのような思いで毎日包丁を砥いでいたのか、と初めて父の心に自分の心を重ねた。
母の和江が家を出たあとも、父は一人で魚屋を続けた。父と中学二年の澄江の生活に大きな変化はなく、毎朝澄江を起こす声が、母の和江の声から父の声に変わったことが、澄江には一番の変化であった。母と一緒に町を出た男は市場で働く山下という人で、その人にも家族がいた。
父は電器釜のスイッチを入れ五時に市場に行き、戻ると仕入れた魚を仕分けしながら味噌汁を作り、六時半に澄江を起こした。
「今朝、何回呼んだの? 」
「四回」
父は必ず二つぐらい多めの数字を答えた。
澄江の誕生日にはこれまでと同じく、商店街の入り口のお菓子屋「ケーキのタムラ」のケーキを二人で食べた。
「おとーさん、ここにカーテンレールつけて」
「窓もないとこになしてカーテンレールいるんだ」
「窓ないけど、窓のふりしてかわいいカーテンつけるわけ」
「へぇーん、こんな暗い煤けた部屋に可愛いカーテンね。似合わん」
それでも父は壁にカーテンレールをつけ、母はそこにいちご模様の二枚のカーテンを中央で重ねて、両方に分け下の部分を白のレースをリボン結びにして下げた。
やってるみるものだ、部屋の中が明るくなった。
季節に合わせて母は父の昼寝用のソファのクッションカバーや、座卓のクロスを取り換えた。
「おとーさん、座卓止めて椅子に座ってごはん食べよう」
「バカこの、椅子に座って飯食うなんて、よそで食ってるみたいで落ち着かない」
父が口の中の爪楊枝を抜いて、強い語調を母に向けた。
きれいな家に住んでまた可愛いカーテンをかけ、クロスをかけたテーブルの中央には小さな花瓶、母が家を出てから何度もそんな部屋の中の母を想像したが、向かい合って食事をしている男の姿が、どうしてもイメージできなかった。
あるときは、一緒に食事をしている人が父になっていた、母の肉のついた厚い背中、笑顔で食事をする父もそのシーンに似合っていた、しかしいつのころからかそんな母の姿を想像する作業も、忘れていった。
 澄江が信二と結婚することになり、新居に決めたこのアパートの二階の部屋を見に来た父は、「おぉー、明るいわ。ふぅーん、しゃれた造りになってんだなー」。澄江がこだわった対面キッチンのカウンターを撫でながら「ここで飯食うんだ」。椅子で食べることを嫌った時代があったことなど記憶にございません、の雰囲気でアパートの小さな部屋を覗いては、「子供が小さいうちならこれで間に合うな」。澄江の新居を気に入ってくれた。
十月なのに冬用の茶系のツイードのジャケットの父に、澄江は少し不満を感じながらも、すぐ近くまで来ているこの部屋でなべ物や、鉄板焼きをする自分たち家族の姿を思い描きながら、父はお酒を飲みすぎはしゃぐのではないか、父に気を使いながら若干ぎこちない信二を思い描いたりして、ほのぼのとした。いちご模様のかわいいカーテンをかけなくても、幸せな自分が存在した。
新しい家族三人のマイアルバムが、ゆっくり目の前を通り過ぎた。
 父は再婚することもなく、そんな話があったかどうかも澄江に知らせることもなく、患って三か月、七十二歳であっけなく逝った。
二本目も砥ぎ終わり三本目の包丁を取り上げる。
包丁は刃先の部分から砥ぎ始める、滑らせて押す、滑らせて引く、押す、引く、おす、ひく、おす、ひく。
前後に移動する包丁の刃に、包丁を砥いでいる父が一瞬、たった一度だけ見せた、それまで見たことがない、父の目があった。
澄江の手が止まった。
あれは母に対する抑えきれない憎しみ、恨み、凶暴な感情が沸騰点を越えてあふれ出た時の父の心であり、深く、暗い、悲しい目であった。
もしかしたら澄江が気づかなかっただけで、父は包丁を砥いでいる時いつもあの目をしていて、今の澄江と同じように、突然湧き上がる内臓を焼き尽くす熱い嫉妬、心臓を突き破って外へ出ようとする激しい感情を封印する為だけに、ただひたすら包丁を砥いでいたのではあるまいか。
澄江は今、包丁を砥いでいる自分も、あの時の父と同じ目をしているのだと気づいた。
調理台には薄刃が二本、出刃が一本置かれ、そのどれもが、刃は薄く見えるほどに砥ぎこまれ、それぞれの包丁が、「さあ、切ってみたら?」。澄江の感情に呼吸に波長を合わせるように、テラテラと、挑発の光を放っていた。   
澄江は砥ぎ終わった三本の包丁を包丁立てに収め、シンク下の扉を静かに閉め、エプロンをはずした。







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