その日の夜、リシュアは新都市郊外のホテルのパーティ会場に居た。
新都心では月に1度、貴族と軍関係者の親睦を目的とした夜会が開かれている。
今日リシュアが呼ばれたのはゲストとして特別のことだった。
カトラシャ寺院の新しい警備主任のお披露目だ。
軍服の胸に重そうな勲章をずらりと並べた中将が、胸まである見事な髭を蓄えた子爵と上機嫌で談笑していた。
その傍らでやや退屈気味なリシュアは、ボーイを呼び止めてトレイのグラスを手に取った。
彼も今日は珍しく軍服姿だった。
髪もきつめに結んでしっかり撫で付けられており、いつもとは別人のようだった。
グラスに口を付けようとしたその目線の先に、ある人物の姿を認めてリシュアは思わず手を止めた。
ドレープが美しいシルクのドレスを身に纏った赤毛の女性だった。
かなり遅れての到着だというのに、慌てる様子もなく悠然と歩くその様子は実に優雅だった。
リシュアはグラスを傍らのテーブルに置いてその女性に歩み寄った。
彼女は入り口付近で知人らしき男性と挨拶を交わしていて近付くリシュアには気付いていない。
「……アンビカ?」
呼ばれて初めて彼女は自分の背後に立つ長身の青年に目をやった。
その声には聞き覚えがあった。
彼の姿を認めた彼女の碧眼が大きく見開かれた。
「リシュア……? あなた……生きてたの?!」
幽霊でも見たかのような顔を向けられて、リシュアは苦笑いした。
「おいおい、ご挨拶だな」
さらに大げさに両手を広げて肩を竦めて見せると言葉を続けた。
「久しぶりに会ったってのにそりゃあないだろ。こう、「会いたかった!」とか抱きついて来るとかさー…」
言葉が終わるか終わらないかのところでリシュアの顔に彼女のバッグが飛んできた。
「馬鹿!いきなり居なくなって……12年も何してたのよ!」
思わず声を荒げた後、ふと我に返って声を潜めた。
「ちょっと移動しましょ」
白い手袋をしたリシュアの人差し指を軽く掴んで人ごみの間を器用にすり抜けた。
人影のないポーチに出た女性は、ひとつ大きな息をした。
彼女の名はドリアスタ=アビィ=アンビカ。
元老院議長であるドリアスタ侯爵の一人娘だ。
多忙な父の代理で今日はこの場に出席することになったのだった。
カスロサ子爵家長男のリシュアとは幼馴染であり、親が決めたこととはいえかつては許婚でもあった。
しかし12年前、当時16歳のリシュアは誰にも何も告げずに突然家を出た。
傭兵に志願したのだとか戦死したらしいとかいう噂が流れ、許婚の話もいつしか立ち消えとなっていた。
アンビカの大きな碧の瞳が鋭く睨み付けていた。
「一体何してるのよ、こんな所で」
「つれない言葉だな。折角の感動の再会だろ?」
頬に触れようとする手を素早く払い除けられても、リシュアは一向に意に介さないようだ。
「軍人になったって……本当だったのね」
アンビカは軍服に身を包んだリシュアをまじまじと見つめた。
「何言ってるんだ。手紙書いただろ……何度も」
意外な言葉にアンビカはきょとんとして彼を見返した。
「貰ってないわよ。そんなの」
今度はリシュアが目を丸くした。
「そんなはず…写真まで入れて送ったんだぜ!」
そう言ってリシュアはふむ、と考え込んだ。
「くっそ、もしかしてあのクソジジイ俺に嫌がらせで手紙捨てやがったのか…?」
「……良く分からないけど、余程嫌われてるのね……どうせ相変わらず好き勝手やってるんでしょ」
呆れた様にアンビカは言い捨てた。
肯定するでも否定するでもなく、にやけ笑いを浮かべているリシュアの顔をしばらく見つめていたアンビカはふと顔を曇らせた。
「ねえ、新しい寺院警備の主任ってまさか……」
「ん?ああ、なりゆきでな」
寒そうな様子のアンビカを気遣い、中へと促し肩に手を添えた。
二人は再び美しい弦楽器の音が流れる暖かい部屋の中へと戻った。
リシュアはグラスを2つ取り、1つをアンビカに渡した。
「宗教嫌いのあなたがどういう風の吹き回し?ミサにもほとんど行ったことなかったじゃない」
「男には色々あるんだよ」
はぐらかすリシュアの横顔を見つめてアンビカは黙り込んだ。
少し考え込んだ後、周りに人がいないのを確かめた後に声を潜めて鋭く言った。
「止めたほうがいいわ、この話」
飲みかけたグラスを持つ手が止まった。
「カトラシャ寺院は曰く付きの場所よ。貴族の出のあなたが配置されるなんて……何かあると思う」
「嬉しいね、心配してくれるのか?」
深刻なアンビカの顔を笑顔で覗き込むと、鼻が触れそうな位に顔が近付いた。
「ふざけないでよ、馬鹿」
少し顔を赤らめてアンビカは体を背けた。
くすくすと愉快そうに笑う元許婚を睨みつけ、バッグを持つ手をぎゅっと握り締めた。
「あなたの前の担当者……死んでるのよ」
そう告げられた言葉にもまるで上の空で、通り過ぎる美女を目で追うリシュア。
「もう、知らないから!」
今度は怒りに赤くなったアンビカがバッグでリシュアの尻を叩いた。
「分かった分かった。気をつけるさ。忠告感謝するよ」
今度は本当に感謝を込めてアンビカの肩を抱いた。
先程夜風に晒されていた肌はひんやりと冷え切っていた。
「これじゃあ風邪をひいてしまうな。暖炉に当たるといい」
そう言って部屋の隅にある暖炉のそばのソファへと移動した。
しばらく二人は黙ったまま並んで座っていた。
「しかし綺麗だ……随分と見違えたな。あのお転婆のアビィが」
「あなたは相変わらずね」
アンビカは胸の高鳴りを隠して素っ気無く返した。
それでも互いの近況や子供の頃の懐かしい思い出を話すうち、二人の会話は盛り上がっていった。
「俺達を無理に追いかけて川に落ちたこともあったっけな」
「やめてよ。忘れてたわ、そんなこと」
肩で小突きながらもアンビカの顔は嬉しそうだった。
そのまま軽くもたれかかるように体を寄せた。
リシュアはアップにしたその美しい髪に軽く触れた。
アンビカが顔を上げた。
目と目が合い、そのまま自然に唇が触れた。
軽く触れるだけの、しかし長いキスは彼らに鮮やかに昔の記憶を蘇らせた。
アンビカは誰かに見咎められはしていないかと見回した後、頬を染めてうつむいた。
「飲み物を取って来よう」
「そうね。お願い」
リシュアは立ち上がり、ホールの人ごみの方へと歩いていった。
宴はまだまだ終わりそうも無く、むしろ盛り上がりを見せていた。
演奏は軽やかな音楽に変わり、彼らは誰からともなくダンスを始めた。
アンビカの好みそうなカクテルと冷えたワインに手を伸ばした時、一人のボーイがリシュアに声を掛けた。
「カスロサ中尉。お電話が入っております。こちらへどうぞ」
リシュアは頭の中で心当たりを探ったが、ここに電話を掛けてくる人物には心当たりがなかった。
唯一可能性のある中将は今この会場にいるのだから。
「急ぎでなければ後でと伝えてくれ」
そう言って向けた背に、何かが当たった。
ゆっくりと振り向くと、サイレンサーが取り付けられた小型の銃がリシュアに押し当てられていた。
「こちらへ」
ボーイはやや緊張した声で繰り返した。
「……ああ、分かったよ。電話を待たせるのは良くないな」
リシュアはグラスから手を離し、ボーイの制服に身を包んだ男に促されるまま廊下へと出た。
会場の音楽が広い廊下にも僅かに響いていた。
廊下に人通りは少なかった。
そのまま促されて辿りついたのは、地下にある薄暗いランドリー室だった。
大きなドラムの乾燥機が唸るような音を立て、熱気を吐き出していた。
「さて、中尉」
ボーイ姿の男は正面を向いて少し距離を置き、改めて銃を構えた。
「ここであんたにはちょっとした選択をしてもらう」
奥からもう一人の男が現れた。
こちらは警備員の制服を着ていた。
「このまま我々2人を安全にカトラシャ寺院まで連れて行くか、ここで死ぬかだ」
鈍く光る銃口を眺めてリシュアは苦笑した。
「参ったな。……俺は優柔不断が売りでね」
「迷ったら死ぬだけだ」
警備員姿の男が不機嫌そうに告げながらやはりサイレンサーを付けた銃を取り出した。
「あの男のようにな」
銃で指し示された方に目をやると、警備員が倒れこんでいるのが見えた。
こちらは恐らく本物だろう。
大量の血が広がる床の上で、目を開けたまま動かなくなっていた。
「ボーイと軍人と警備員が一緒に出たら怪しまれると思うがね。どうやって安全に案内しろと?」
「ここは裏口がある。車もな」
奥に緑色の古い鉄扉が見えた。
荷物の搬出入に使う扉だろう。
ボーイ姿の男がその前に立ち外の様子を伺っていた。
「用意がいいな。……しかし寺院なんかにわざわざ何の用だ?お祈りに行くには少し大袈裟じゃないか」
「余計なおしゃべりはいい。どうするんだ」
苛立つように男は銃口をリシュアの胸に押し付けた。
「条件にもよるさ。今助かっても後で死刑になるような手助けじゃ割に合わない」
男はリシュアの目をじっと見つめた。
「……いいだろう」
リシュアに手錠をはめながら男は話し始めた。
「司祭や寺院の人間には用はない。あるお宝が欲しいだけだ。それさえ手に入ればお前も無事に解放してやるさ」
「お宝ねえ……。あんな古寺にお宝があるようには見えなかったが……」
男はそれには答えず、腕時計を指し示して返事を催促した。
「……まあ命には代えられん。分かったよ」
そう言ってリシュアは自由を奪われた両手を軽く挙げて見せた。
男は少し表情を和らげ裏口で待機していた相棒に向かって頷いた。
合図を受けたボーイ姿の男は鉄扉をそっと開けた。
金属の擦れる音を立てて扉が開き、ひんやりとした夜風が舞い込んできた。
そのまま車の方へと進もうとした時、そっと男のこめかみに銃があてがわれた。
待ち構えていたのはオクトだった。
「騒ぐなよ……。仲間は何人だ?」
男の手から銃を奪いながらオクトは小声で尋ねた。
銃を向けられたまま男は両手を胸の前まで挙げた。
オクトがその手を後ろ手にして手錠をはめようとした時、男はその手を振り払ってオクトの銃を奪おうともみ合った。
「見つかった!逃げろ!」
男がそう叫ぶと警備員姿の男はリシュアを連れたまま通路の奥へ飛び込んだ。
そして物陰に身を隠すと、扉の方を窺った。
「逃げ切れんと思うがね。自首すれば今なら軽いぞ」
シーツが積み重ねられた棚の陰に引きずられるように押し込まれながらリシュアは囁いた。
「黙れ。向こうは1人、こちらは2人だ」
頭に血が上った男がリシュアに銃を向けた。
「それはどうかな」
リシュアは手錠の鎖で銃を絡めて跳ね除け、そのまま両手で強烈に男の顔を殴りつけた。
男は声も上げずに倒れこみ、銃は飛ばされた後床に落ちて大型の洗濯機の下に滑り込んだ。
「これで2対2だな」
男は血の吹き出した鼻を押さえながらリシュアに殴りかかってきた。
リシュアは軽くそれをかわし、今度は横から力任せに殴りつけながら足払いを食らわした。
男は一瞬宙に浮いた後、頭から地面に叩きつけられ、呻いた。
オクトは自分の銃を奪って逃げたボーイ姿の男を目で追った。
すぐに彼が落としていった小型の銃を見つけ、拾い上げるとランドリー室へ足を踏み入れた。
耳を澄ますと機械の音がやけに大きく響いて感じられた。
オクトは近くにあった籠の中から丸められたシーツを取り出し、放り投げた。
左前方で2度銃声がし、シーツが宙を舞った。
オクトは音がした方へ移動しながら、一瞬見えた人影に向かって発砲した。
男が身を隠した大型の洗濯機に弾が当たって金属音を立てた。
息を殺してオクトは通路の奥へ進んでいった。
大きな棚の向こうから微かに人の気配を感じ、そちらへと距離を縮めた。
乾燥機の横に人影を認めて、オクトは銃を構えて走り寄った。
そこに居たのは金属のパイプに手錠で両手を繋がれた警備員姿の男だった。
一瞬状況が掴めずにオクトは構えた銃を下ろした。
その時、彼の首筋に銃口が向けられた。
隙を突かれ、ボーイ姿の男に背後を取られていた。
考えるよりも早く体が動いた。
振り向きざまに横に飛びながら銃を構え……。
一発の銃声が響き、オクトは床に倒れこんだ。
幸い男の弾は外れ、オクトが放った弾もまるで方向違いのタンクを撃ち抜いただけだった。
しかしオクトは地面に叩きつけられて完全に体勢を崩していた。
オクトが驚いたような顔で目を見開いた。
得物にぴたりと狙いを定めた男はにやりと笑った。
しかし一瞬の後、今度は男の顔に驚きの色が浮かんだ。
男の首筋をナイフの刃がなぞり一筋赤い傷をつけた後、そこから真紅の血が噴き出した。
背後に立っていたのはリシュアだった。
手には先程会場を出るときに失敬してきた小型の肉切りナイフが握られていた。
男はゆっくりと膝から崩れ落ちていった。
オクトとリシュアの横を警備員姿の男が連行されていった。
リシュアは作業台の上に座って近くの適当な布で両手に付いていた血を拭っていた。
「しかし、まさかお前がいたとはな」
苦笑いするオクト。
「それは俺の台詞だ。いつからパーティの護衛までやるようになったんだ」
からかうようにリシュアも苦笑で返した。
「こいつらは別件で追ってた奴らでね。潜入させていた部下から連絡を受けて来たらこの通りさ」
彼らの横を布を被せた担架が通り過ぎた。
犯人達に殺された警備員だった。
「……彼だ。無理はするなと言ったんだが……」
オクトは唇を噛んだ。
「お前のせいじゃないさ」
友の心を察してリシュアは肩を叩いた。
「ああ。……ともかく助かったよ。いつもすまない」
「なあに、構わんさ。その代わり一つ頼まれてくれるか」
リシュアはオクトの部下から受け取ったコートを肩にかけた。
ホテルのクロークに預けておいたものだ。
「会場の暖炉のそばに座ってるレディに、俺は急な仕事で帰ったと伝えてくれ」
「わかった。……それでいいのか?」
「この格好だしな」
リシュアは返り血で赤く染まった軍服をつまんで見せた。
「それにもうそんな気分じゃあない。頼んだぞ」
そう言って作業台から降り、裏口へと向かった。
「リシュア」
その背を呼び止めるオクト。
「今日のことはあまり大袈裟にしたくないんだ」
物言いたげに見詰めた。
「俺もさ」
リシュアは少し笑ってみせた。
オクトは頷いた。
彼の顔にも、やっと安堵の笑顔が見えた。
数歩進んで、ふとリシュアの足が止まった。
「……なあ、こいつら何者なんだ?俺には寺院のお宝がどうのと言っていたが」
オクトは怪訝そうに首をかしげた。
「お宝というのは良く分からないな。奴らは反政府のカルト集団の一派だよ。危険な奴らだ」
「なるほどね。最近多いからな……。目的は運動資金てとこか」
「多分な。しかし敵に回した相手が悪すぎた。相変わらず見事だったよ」
オクトは素直に賞賛した。
「お前は相変わらず射撃が下手だ」
リシュアがにやりと笑うと、オクトはリシュアを指差して笑顔でウインクした。
翌朝の空は、昨日の事件など何も無かったかのように青く晴れ渡っていた。
リシュアは出勤時間よりも少し早めに寺院へ向かった。
今日は週末。旧市街から人々がミサに訪れる日だ。
寺院に入ると、イリアが祭壇にある大きな花器に白い花を活けていた。
菱形をした繊細な白い花弁が黄色い中心部を隠すように渦巻いている美しい花。
「ルニスの花か」
リシュアが名前を知っている数少ない花だった。
「司祭様がお好きな花なの」
イリアは1本1本丁寧に挿していった。
「俺は嫌いだ。葬式の花だろ」
この花特有の強く甘い香りは、リシュアに母や戦友達の葬儀を鮮烈に思い出させた。
「でも、綺麗な花よ」
全部挿し終わったイリアはようやくリシュアに向き直った。
「お早う軍人さん。風邪はひかなかったみたいね」
「おかげさまでな。昨日は何事もなかったかな」
リシュアは礼拝堂をぐるりと見回した。
静かなその空間は、至って平穏そうに見えた。
「そうね。ロタが夜中に葡萄パンを荒らしたくらいかしら」
イリアは微笑んだ。
「ミサの警備をするんでしょ?いい場所を教えてあげる」
手招きされてついて行くと、細い階段を上がった屋根裏のような場所に出た。
白い石を荒く削っただけの通路と壁。
灯りは無く、外に面した鉄枠の窓から日光が射し込んでくるのが唯一の光源だった。
「ここからなら祭壇と礼拝堂が良く見えるの。秘密の場所よ」
微笑みながらイリアは自分の口元に人差し指を当てた。
下を覗くと、確かに先程まで彼らが立っていた祭壇が良く見えた。
「ここに詳しいんだな」
「それが仕事よ」
そう言ってリシュアの顔を覗き込んだ後、イリアはくすりと笑った。
部下達に配置などを指示した後、リシュアは再び先程の「秘密の場所」にやってきた。
祭壇ではムファが懐中電灯をくるくると回しながら鼻歌交じりに危険物などのチェックをしていた。
「ムファ、気を抜かずにしっかりチェックしろよ」
トランシーバーでそう告げると、ムファは驚いて姿勢を正し、きょろきょろと辺りを見回した。
リシュアはその姿を可笑しそうに眺めた。
どうやら彼はこの場所が気に入ったようだった。
礼拝堂の椅子には既に気の早い参拝者がぱらぱらと座っていた。
ミサまではまだ時間があった。リシュアは明かり取りの窓からぼんやりと外を眺めた。
手作りガラスの窓のせいで、景色は少し歪んで見えた。
しばらくして、リシュアはようやくその景色が例の果樹園に続く庭だと気が付いた。
庭師小屋の屋根ごしには葡萄畑も見渡すことが出来た。
もっと良く見ようとしたが窓ははめ殺しになっていて開ける事ができなかった。
窓にへばりつくようにしてその奥を覗き込むと、小さな丸いテーブルが見えた。
丁度司祭と庭師が席につき、イリアが紅茶のようなものを運んで来ているところだった。
リシュアは目を凝らして司祭を遠く見つめた。
視界が悪く良く分からないが、彼らはとても楽しげに談笑しているようだった。
朝の光の下、彼らの笑顔は輝いて見えた。
自らの息でガラスが曇り思わず手で拭いたリシュアは、そこで初めて我に返った。
「何やってんだ俺は……」
急に情けない気分になり、窓に背を向けるとごろりと横になった。
時間が経つにつれ、礼拝堂は参拝の人達で埋め尽くされてきた。
皆顔見知りらしく銘々に朝の挨拶を交わしていた。
その中には乳母のマニを連れたアンビカの姿もあった。
リシュアは昨日の件を謝りたいとも思ったが、貴族達が溢れる礼拝堂に入る気には到底なれなかった。
特にマニはアンビカを溺愛しており、許婚のリシュアに対しては当時からやたらと厳しかった。
万が一彼女に見咎められては面倒なことになるだろう。
不本意ながら今日のところは彼女には関わらないことにした。
一通り挨拶を終えた人々が席に着き始めた頃、礼拝堂へと続く通路の奥の方から澄んだ音が響いてきた。
その音が聞こえ始めると、一瞬のうちに礼拝堂は沈黙に包まれた。
人々は静かに立ち上がり、音のする方へと目をやった。
彼らの目にまず映ったのはえんじ色の短いケープを羽織った栗毛の少年だった。
少年はクリスタル製の大きなベルを鳴らしながら礼拝堂へと歩いてきた。
その後ろを静かに進んでくるのは、白地に金刺繍を施した長いケープを身に纏った司祭だった。
司祭はゆっくりと歩を進めて祭壇へと上がった。
刺繍の輝く金糸以外にも、その純白の衣の織りに何か細工があるのだろう。
無数の蝋燭の灯りの中で、司祭は文字通り煌いて見えた。
リシュアは息を飲んで司祭を見つめた。
以前日の光の下で見た優しく微笑む聖母のような姿ではなかった。
その美しさは変わらなかったが、雰囲気はまるで別人のように感じられた。
堂々と威厳に満ちたその姿は、皇帝の血を継ぐ者として全く恥じるものではなかった。
また凛として動じないその瞳は聖なる者として人を惹きつけるには十分過ぎた。
明らかに場の空気が変わっていた。
リシュアは鳥肌が立つのを感じていた。
こんなにも美しく、力強く、確固としたものがこの世に存在したとは。
リシュアをはじめその場の誰もが身じろぎ一つせず、ただ一点司祭を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、司祭は参拝者達を見回してから右手を軽く上げて彼らに着席を促した。
人々は深々と一礼した後、静かに腰を下ろした。
香が焚かれる中オルガンの音が流れ始め、司祭は静かに歌いだした。
その旋律は以前リシュアが真夜中に聞いた司祭の不思議な歌に良く似ていた。
しかしその歌詞は現代の言葉で神を讃える普通の賛美歌だった。
追いかけるようにして会場の皆も合唱を始めた。
司祭の声は格別大きくはなかったが、誰のものよりも際立って礼拝堂に響いていた。
心を掴まれるような美しい声だった。
リシュアは思わず目を閉じて聴き入っていた。
しかし合唱はそれ程長くはなく、続いて司祭が説教を始めた。
その内容はこの大陸の神話の時代の歴史や伝説を引用したものだった。
何気なく聞いていたリシュアは、その内容を理解するにつれて徐々に現実へと引き戻されていった。
司祭の語る話では遠い過去の侵略戦争が正統化され、他国を滅ぼした英雄達が讃えられていた。
そして彼らの人種による統治が理想郷を産む、という内容のものだった。
「こりゃあ相当な選民思想だな」
リシュアは嫌悪感を露にして目を細めた。
そうして改めて神秘的な程に光り輝く司祭の姿を見つめた。
低く優しく、しかし強く魂を捉えるような声を聞いた。
この姿、この声には人の心を捕らえて離さない魅力があった。
そんな司祭が語りかければ、民はいとも容易くその思想に染まり如何様にでも動いただろう。
司祭がもしも現在皇帝の座に就いていたらと思うと、リシュアは空恐ろしくなった。
同時に今このルナス正教が軍によって厳重に管理されている意味を初めて理解した。
最後に、司祭は目を閉じて祈りの言葉を呟いた。
「神と天女に祝福されし我々ルナスの民に幸あらんことを」
満足げな表情で礼拝堂を後にする人々を見送り、リシュアは部下に撤収を命じた。
そして先程まで異様な空気に包まれていた礼拝堂に降り立った。
祭壇ではイリアが飾りに使われていた布を綺麗に畳んでいた。
「良く見えたでしょ」
イリアはにっこりと笑った。
「ああ、良く見えた。……ところで司祭に伺いたいことがあるんだが」
「いいわよ。まだこっちの控え室にいらっしゃるはずだから」
畳んだ布を束ねて抱えたイリアが先を歩き出した。
それを片手でひょいと持ち上げてやると、リシュアもその後を追った。
「ありがと」
「お安い御用だ。こういう仕事も全部一人でやってるのか?」
「ここは私とロタしかいないわ。庭や建物の管理はロタが、屋内のことは私がやるのよ」
意外な答えにリシュアは驚いた。
「子供2人だけで管理してるのか!」
その言葉にイリアは足を止めてリシュアをちょっと睨んだ。
「……っと失礼。少なくともお前さんは一人前以上だな。しかしこの広さで2人じゃ大変だろう」
素直に謝ったリシュアにイリアはすぐに機嫌を直したようだった。
「司祭様も色々手伝って下さるし……ここだって実際に使う部屋は限られているから」
イリアは立ち止まった。
二人は控え室の前に着いていた。
少女はドアをノックした。
「司祭様。軍人さんがお会いしたいそうです」
奥から「はい」と小さく声がした。
イリアは振り返って頷くと、リシュアから布の束を受け取り廊下の向こうへと立ち去った。
ドアの前にはリシュアが一人残された。
意味もなく鼓動が激しくなり、彼は深呼吸した。
ドアが開いた。
先程と同じ姿の司祭がそこに立っていた。
礼拝堂で感じた程の威圧感はなかったものの、やはりどこか近付き難い印象があった。
穏やかながらも、その表情は厳しかった。
「どうぞお入りください」
招かれるままに部屋の中へと足を踏み入れた。
大きな棚が正面にあり、経典や燭台、香炉などのミサの道具が並べられていた。
あとは特に目立ったものはなく、実に簡素な控え室になっていた。
グリーンのスエードのソファを勧められたリシュアは一礼して腰掛けた。
司祭は少し離れた椅子に座り、警戒を隠さない表情でリシュアを見つめていた。
「どうぞお話しください」
許しを得て、リシュアは手短に昨日のパーティ会場で起きた事件について司祭に語った。
「彼らはこの寺院の「お宝」が目当てだと言っていました。心当たりはありますか」
司祭の表情は硬くなっていた。
「いえ……」
「始めは私も転売目的で金目のものを狙ったのだろうと思ったのですが、
本当にそれだけでわざわざここを狙う意味があったのか……」
司祭は答えずにじっと何かを考えていた。
リシュアは司祭の言葉を待った。
しかし沈黙だけが部屋に流れ続けた。
「司祭様。我々にこの敷地内全てに立ち入る許可を頂けませんか」
そう言って司祭の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「我々の事を信用できないのは分かります。ですが、安全を守るためにはお互いの協力が不可欠です」
やはり答えはなかった。
リシュアは苛立ちを抑えて説得を続けた。
「もしも今後ああいう輩に狙われるとすると、かなりの危険が予想されます。あなたもあの子供達も……」
そこまで言った時、司祭の表情が急に揺らいだ。
「……あの子達に危険が及ぶのは避けなければ……」
そしてしばらく考え込んだ後、意を決したようにリシュアに告げた。
「分かりました。今を非常事態と見なし一時的にこの寺院全てに立ち入ることを許します」
その言葉にようやくリシュアは安堵した。
「ただし」
司祭は続けた。
「私的な敷地内での警備は全てロタの指示で行なって下さい」
リシュアの脳裏にあの箒小僧の姿が鮮やかに蘇った。
「……わ、分かりました。寛容なご判断感謝致します」
にわかに頭痛を感じながらリシュアは引きつった笑みで司祭に礼を述べた。
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