信長は歩き続ける。本能寺の狂騒の体は此処までは届かない。
全てを飲み込む様な闇の中で一本の松明のみが心細く道を照らしていた。
「独りで歩く事など、幾年ぶりのことじゃったか。」
生存の余裕とでも言うのであろうか、この期に及んでも冷静な物言いである。
戦場と言うべきではなかろう、処刑場と言うのが適切な本能寺では、この男に付き従い
し、多くの近習が必ず「死ぬ」のである。長子である信忠も別泊であったとしても最早
助かる事は無いであろう。実際は明智勢は京都全部を封鎖しては居らず、信忠が逃走を
計れば可能であったのかもしれない。
後、信忠は二条城での篭城を選択し自刃するのである。
信長は未だ長い地下道を歩き続けていた。
抜け道も中腹辺りへ差し掛かったそのときである。
耳鳴りを起こしそうなほどの静寂の中に、弱弱しく、それでも澄み切った鈴の音が
響音した。慎重な信長は一瞬で緊張を呼び起こし、臨戦の気迫を纏った。
松明をかざし、目視可能な範囲の遠策を行った時
「おるな。物の怪か、それとも。」
かろうじて目視できた人影は、掘削の際にでてきたと思われる石の上に腰を下ろして
いた。胆力の凄まじい信長である、冷静に近寄りその者の正体を確認できる距離まで
を詰めるように近づいた。だが決して弓などの間合い間では近づかぬように。
「何者ぞ。」
その刹那、信長は我が目の視力を疑った。
確かに凝視していた、決して眼を離しはしなかった、自身の行動に間違いは無い。
しかし、消えたのである。
石の上に腰を下ろしていた者が、消えてなくなったのである。
それでも信長は、自分の気のせいになどはしない、自己でその妖しい者を目視して
いるのだから。
「あろうはずが無い、妖かしか。鬼術か。」
信長はこのとき初めて戦慄を覚えた。
自分の背後で再び、あの鈴の音が弱く一響き。
「キィィィン。」
その時。
「織田右大臣信長公とお見受けいたす。いいや、辞任をしたのだったな。」
若い、力弱き者の様な問いかけが、信長の鼓膜を揺らした。
凍りついた信長は絶句したのである。
すぐ近くに、背後のすぐ近くに一人の男が立っている。
その男、右目は前髪に隠れ、それでも当時の髪量の常識的には短く、そして何よりも
眼を引くのはその「薄い栗色」であったことだ。
着衣は絹であろうか、滑らかな布地を思わせる「薄い赤を交えた黒衣」であった。
手には鞘に収まった刀を携えている。年にしても、うら若い。
手にしている刀の鞘先に、あの弱き音を発していた鈴がついていた。
「ぬし、何者ぞ。いかにして余の背後へ周りおったのか。」
その若い男は一言だけで応じた。
「禁時師。」
信長は返す。
「アレは狂言じゃ。小僧の頃の名信じゃ。」
「残念だな。それでは俺は幻か。お前、田楽狭間の時に老婆にあったろう。その婆に
雨の降ることを告げられなかったのか。今川義元の首、取らせてもらったろう。」
「あの時の婆が何だと言うのじゃ。」
「アレは俺の婆あなんだよ。禁時師だったんだよ。只の占術師だとでも思ったのか。」
若者の口調は此処に来て、伝法なものに変っていた。
「禁時師は迷信なんかじゃねえ。いつでも時代を流れているんだよ。俺の婆あは禁時師
だったが、<時読み>までだ。本当の禁時師は今、あんたの眼の目にいるんだよ。」
その時、若い男の前髪は、顔を上げたと同時に右目を離れた。
右目だけが、蒼眼であった。
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