―― そこそこと言うことに、私はいつも満足すると同時にうんざりしていたのだ。
「今日の検診大丈夫だったか?」 「大丈夫よ。そんなに心配しないで」 「何かあったらすぐに連絡しろよ?」 「あら、今日は同じフロアの人と飲むんじゃなかったの?」 「何言っているんだよ。お前がもうすぐ出産だって言うのに、そんなことできるか?」 「たまには楽しんでくればいいのに」 「はは……。お前って本当に気、使う女だよな」 俺は幸せ者だよ、と主人は電話の向こうで笑った。
私は電話の子機をテーブルの上に置いた。ソファに背中を預け、カーテンの隙間から差し込む午後の光に目を細める。 「……」 妊娠も8ヶ月を過ぎると、そろそろ妊婦であることに飽きてくる。 そこそこ育ったのだから、早く出てきて欲しいと思うのだ。 ―― なんてことを言ってしまうと、未婚の友人や子供のできない姉からは、「贅沢なことを」と言われるだろう。 確かに彼女たちにとっては私は贅沢なのかもしれない。 でも、私自身がこれを贅沢だ、と思えなければ、私にとっては贅沢ではないのだ。 「そこそこ」なのだ。 彼女たちは結局、その辺りを勘違いしている。
私は外見がそこそこ良く、それに比例しそこそこモテてきた。 このそこそこ、と言うところがポイントである。 私はすべてそこそこだったのだ。 勉強もそこそこ、仕事もそこそこ、入った会社もそこそこ、転職した先もそこそこ。 取引先で知り合い結婚した今の主人も、そこそこ収入がよく、そこそこ見栄えのいい男だった。 私たちはそこそこ付き合い、そこそこのところで結婚した。
「……」 私はお腹を撫でた。 おそらく生まれてくる子もそこそこの子なのだろう。 私はこの子をそこそこに愛し、そこそこに育てることはできる。 だけど、それ以上のことはできないと言う気がする。 過去も現在も未来も、何もかもがそこそこの私……。 でも、たった1つだけそこそこではないものがあった。
19歳のころ、私は大学の教授と忘れられない恋をした。 おそらくそこそこの地方公務員のそこそこにまともな一家であった私の家族がそれを知れば卒倒してしまうだろう、不倫の恋だった。 陳腐な表現になるが、あのころは本気だった。 私は女である、と言う喜びのすべてを教えてくれたのは彼だった。 奥さんに慰謝料を請求されてもいい……大学にいられなくなってもいい。 それでも一緒になりたいと思ったほどの恋だった。 彼は決して美男ではなかったけど、私と言う女にとって魅力的な男だった。 そしてセックスはそれまで知り合った男の中で一番上手かった。 今の主人は2番目だ。
その恋が実らず、私がこうしてここにいるのは、彼が出張先のI国で飛行機事故に巻き込まれ、亡くなってしまったからである。 帰って来たら奥さんに離婚の話を切り出すと言っていたのに。 あの時の衝撃と悲しみは忘れない。 そこそこであった私がそこそこでなくなるチャンスはあの時永遠に無くなったのだ。 相当の勢いと覚悟がなければ自分自身から抜け出すことはできない。 私にとっては恋がそのエネルギーだった。 その恋を失ってしまい、私はそこそこのまま今に至る。
ぐるり、とおなかの中で子供が動いた。 そうだ、名前を決めなくちゃ、と私はいまさらながらに気付く。 主人と二人で話し合い、生まれるまでにいくつか候補を挙げ、その中からいいと思うものを選ぶことにしていたのだ。 何がいいだろうか。 女の子なら「そこそこの子」の間を取って「そのこ」なんて古いけどどうかしらと冗談めいたことを考え自分に苦笑する。 酷い母親だ。 では、男の子なら――。 「そうよ……」 私はそこで素晴らしいアイデアを思い付いた。
男の子なら、彼の名前を付けよう。 そうすれば、私はその子をそこそこではなく愛することができるかもしれない。 あの人の子供は産めなかったのだもの、これくらいしても罰は当たらない。 昔からずっと温めてきた名前だと言えば、主人もきっと賛成するだろう。 彼は私を心から愛しているのだ。 そうだ、それに私は母親なのだから、この子を思い通りに、そこそこではないものに育てることができる……。 私は再びお腹を撫でた。母性本能ではない愛しさが込み上げて来る。
「早く生まれてきてね、義人」
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