料理は好き。だって作っている最中は、あの人のことだけを考えていればいいから。
今日の夕食はビーフシチューだ。昨日の夜から準備をしてきた。 美味しい牛肉を求めて、近くのスーパーではなく、神戸牛で有名な、隣駅の「西島肉店」にも足を伸ばした。 人参、馬鈴薯も丁寧に面取りをした。隠し味にセロリも入れた。コトコトコト。 美味しさの決め手は弱火でじっくりと煮込むこと。当たり前に愛情も込めてね。 そうすれば、お肉もあの人の顔もトロトロになるから。 直美は鍋から目を離し、部屋を見渡した。付き合って半年の靖彦の部屋は、さきほど直美が掃除したおかげで綺麗に片付いている。靖彦は、直美の勤めているデザイナー事務所の得意先の営業マンだった。 初めて靖彦を見たときに、この人が運命の人だと直感的に思った。清潔に整えられた短い髪、形の良い唇、笑うと綺麗な弓型になる目。あげればきりがないほど靖彦は直美の描いていた理想そのものだった。 仕事の手をとめ、ポーッとみている直美に靖彦は優しく笑いかけてくれた。 壁には先ほど、直美が飾った写真がかけられている。先々週の日曜日に、水族館に行った時のものだ。写真は直美が一手間加えた。デザイナー事務所に勤めているだけあって、我ながら満足のいく仕上がりだ。 二人の笑顔の周りには、可愛くデフォルメされた、マンボウやタコ、色とりどりの魚のイラストが優雅に泳いでいる。 まるで、二人の幸せを祝っているかのように。 何かがキラリと机の下で光った。キッチンマットから一歩踏み出すと、フローリングの冷たさをストッキング越しに感じる。 もうすぐ冬。靖彦とおそろいのスリッパを買おう。裏地が柔らかくて、うんと温かいのが良い。 机の下に手を伸ばす、指先に触れたものは、ハートのピアスだった。金色で華奢な、主張しすぎない、品の良い形の。 私のものではない。直美は立ち上がると、鍋の火をとめ、掃除の際に出たゴミ袋を手にし、外に出た。 一日の終わりを知らせる、橙色の夕日がゴミ袋を赤く染める。キンモクセイの甘い香りの混じった風が髪をとかす。 一階の共同ゴミ置き場まで、階段で下りよう。三階の踊り場で男とすれ違った。見たことの無い顔だった。 そんな事より、ハートのピアスの似合う女。一体どんな女なのだろうか。ドロッとした感情が直美の中を流れた。 ゴミ回収ボックスの重い蓋をあける。持ち手の部分にリボンが掛かった、赤い小さな紙袋が無造作に捨ててあった。 昨日、靖彦にプレゼントしたはずの、手作りクッキーが、あげた状態そっくりそのまま、きちんと紙袋に収まっている。 ゴミを投げいれ、紙袋を手にし、エレベータに乗り込む。うっかり者の靖彦のことだ。間違えて捨ててしまったんだわ。 部屋の前に立つと、中から物音がした。靖彦が帰ってきていたんだ。 いきおいよく扉を開けると、濃厚なビーフシチューの香りと一緒に、さきほどすれ違った男が顔を出す。 カチャン。後ろで扉が閉まると同時に冷たいものが直美の手首にかけられた。
「警察だ。不法侵入および、ストーカー容疑で現行犯逮捕する。」 パトカーに乗り込むとき、悲しそうな目をした靖彦の顔を見つけた。 大丈夫。シチューを食べて待っていて。また、すぐ戻ってくるからね。
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