一、漁野(りょうの)
漁野は自転車をこいで、スーパーマーケットに向かっていた。夕食の買出しに行くためだった。 「なんで俺が買い物なんか」漁野はつぶやいた。細い眉に、短い金髪、黒いスーツを着たノーネクタイの男が夕方自転車をこぐ姿は異様だった。 彼は亜句唐商事の会社員だった。会社員といっても、その会社は亜句唐組のフロント企業で、実際にはやくざの組員であった。組員の中では一番若く、十九歳だった。当然に雑用ごとは彼に押し付けられる。兄貴分の赤塚が言った言葉を思い出す。 「漁野、今日はみんなで焼肉を食べるぞ。ん?馬鹿!食べに行くんじゃなくて、会社でやるんだよ。うちの組長はそういうの好きだからな。それで材料はそろってるんだが、タレが無くてな。お前買って来てくれ」 そうこうしているうちにスーパーに着いた。背広のポケットから『王様気分の魔王ダレ』と書かれたメモを取り出した。赤塚から渡されたメモだった「絶対に違うタレを買ってくるなよ」という赤塚の言葉が脳裏に浮かんだ。
二、主夫(しゅふ)
栄一郎は専業主夫だった。彼は去年の冬に、勤めていた会社を退職した。名目上は自主退職となっているが、リストラも同然だった。不況のあおりをもろに食らったのだった。栄一郎が勤めていた電機メーカーは業績が落ち込んでいた。上司に呼び出され、今退職すれば退職金が多く出るなどなんだのと説得されたのだ。なぜ自分がリストラの対象になるのか思い、退職を一度は断った。 しかし、その後の上司の執拗な嫌がらせに耐えられず、結局は会社を辞めることにしたのだった。幸いにも共働きで妻にも収入があったために生活にはそれほど困らなかった。 四十歳を過ぎてからの再就職というのは難しく、今では家の仕事は栄一郎がこなし、妻が会社から帰ってくるのを待つ立派な主夫になった。 会社勤めしていたころ、栄一郎は競馬が大好きだった。そんな夫に妻は「お金をどぶに捨てているものだ。そんなお金があるのなら家にもっとお金を入れてくれ」といったことがあった。それに対し、栄一郎は「うるさい。俺のほうが給料が多くて、家に入れてるお金は多いんだから、つべこべいうな」と自分が稼いでいることを持ち出して口を出すなと言ったのだった。妻にそんなことを言ってしまったので、栄一郎は会社を辞めて以来妻に頭が上らなかった。 今日は昼に妻から電話が入った。 「今日の夕飯は幸太の誕生日だから焼肉にしようよ」 幸太とは栄一郎の息子だ。 「わかった。じゃあ、材料は俺が買っておくから。何か特別に食べたいものとか、幸太のために買っておくものはあるか?」 「うーん、そうだ。友達がこの間、とってもおいしい焼肉のタレがあるって言ってたのよ。そのタレを買っておいてよ。幸太へのプレゼントは私が買っておくから」 「ああわかった。それでそのタレはなんて言うんだ。『王様気分の魔王ダレ』だな。わかった」
三、利子(としこ)
利子は部屋の掃除をしていた。七時から友人の誕生会を開くからだ。利子は大学生で、一人暮らしをしていた。一人暮らしなので親に気兼ねすることなく誕生会を開くことができる。大学のテストが数日後にあったが、いい息抜きになるということで利子はこの誕生会を楽しみにしていた。みんなで食べることができるのがいいということで焼肉を食べることにした。 五時四十五分になり、下準備でもしておこうと思ったときだった。焼肉のタレを買い忘れたことに気がついた。焼肉のタレがなければ駄目だという人もいるだろう。 利子はパソコンで「焼肉のタレ」と検索をかけてみた。すると、『おすすめ!焼肉のたれ』というホームページが見つかった。そのサイトのなかで『王様気分の魔王ダレ』という焼肉のタレが一番のおすすめとして挙げられていた。利子はそのタレを買うことに決め、近所のスーパーに向かうことにした。 四、最後の一個
夕飯時ということもあってスーパーは混雑していた。漁野はスーパーを利用したことどなく、どこになんの商品があるのかなど、わからなかった。しらみつぶしに棚を探していると、焼肉のタレが並ぶコーナーにやっとたどり着いた。そのコーナーにはすでに、中年の痩せた男がいた。どうやら彼も焼肉のタレを探しているようだ。 漁野が中年の痩せた男の少し後ろから同じように焼肉タレを探していると、もくてきの『王様気分魔王ダレ』を痩せた男の目の前の棚に見つけた。その焼肉のタレは人気なのか棚には一つしかなかった。漁野が目的の品を見るけたことに安心していると、前にいた痩せた男がその棚に手を伸ばした。
栄一郎は安心した。妻からリクエストされた焼肉のタレがあったからだ。妻が言ったようにそのタレは美味しために人気があるのか最後の一個だった。栄一郎がそのタレをとろうとすると、後ろから待てという声が聞こえた。空耳かと思っていると、棚に伸ばした右手を掴まれた。 「おっさん、待てよ。おっさんその魔王タレっていうタレ買うつもりか」 栄一郎の右手を掴んだのは金髪に眉毛を剃った若い男だった。声を聞くと予想以上に若く、まだ高校生ぐらいかもしれない。 「そうですが、あなたは何なんですか。いきなり人の手を掴むのは失礼じゃないですか」 「失礼うんぬんじゃないんだよ。そのタレは俺が買おうとしてたんだからおっさんは別なヤツを買ってくれよ」 栄一郎は男のあまりに身勝手な言い分に声が出なかった。 「な、つべこべいわずに他の買いなよ」 と言って、栄一郎の手を離し、男は棚にある『王様気分魔王ダレ』を手に取ろうとした。 「お、ふざけるなよ。こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって。こっちは妻から頼まれてるんだ。絶対渡さないからな」 そう言って栄一郎は男の腕を掴んだ。 「な、おっさんふざけんなよ」 男は驚いた様子だったが、先ほどとは違い、懇願するように切り出した。 「なあ頼むよおっさん。俺は組の・・・・・・いや、会社の組長・・・・・・じゃなかった社長から買い物頼まれてるんだよ。それで、売り切れてなかったですなんて言ってみろ。どんなシゴキが待ってるかわかったもんじゃねえだろ。頼むよ俺の面子のためにもさ」 男は真剣な顔で言った。 「そんな言い分が通じるか。こっちだって買えなかったら困るんだ。俺の妻なんかきつい性格だから、たかが焼肉のタレ買えなかったくらいで『こんな簡単なモノも買えないからあんたリストラされるのよ』なんて言うんだぞ。お前は耐えられるのか。絶対に譲らないからな」
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その後も漁野と栄一郎の互いの主張がぶつかり、どちらも引かなかった。数分言い合った後に冷静になった栄一郎がじゃんけんで決めることを提案した。 「じゃんけん?まあ、仕方ねえな。このままじゃ埒が明かないからな」 と漁野も提案を受け入れた。 「では」と言って、栄一郎がじゃんけんの音頭をとろうとすると、漁野が待ったをかけた。 「もちろん三回勝負だよな」 と確認をした。ここで、ごねてはまた時間がかかると思い、栄一郎は漁野の意見に従うことにした。 「わかりました。三回勝負の2回先に勝ったほうがこのタレを手に入れるということで行きましょう」 「最初は、グー」
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利子がスーパーに着いたのは六時十五分だった。焼肉の棚に急いだ。六時半には友人達がアパートに来てしまう。買い物を手短にすませて早くアパートに戻る必要があった。 焼肉のタレのコーナーには二人の男の人がいた。なにやたもめているようだ。見てみると、片方は痩せた中年の弱そうな男の人で、もう片方は金髪の大柄な男の人だ。多分、肩がぶつかったとかの理由でもめているのだろう。 そう思っていると、二人はじゃんけんを始めた。どういう経緯でじゃんけんを始めるのかわからなかったが、二人がじゃんけんに夢中になっている間に目的のタレを探すことにした。目的のタレはすぐに見つけることができた。 「最後の一個じゃない。ラッキー」 そう言って、利子は『王様気分の魔王タレ』を手に取り、レジに向かった。
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