私は、見事に固まってしまった。 制服の襞も、わりと自由にあちこちとはねている髪も、今まで私の歩行と共に揺れ動いていた鞄のマスコットも全てが固まってしまっていた。 普段からこの家で見慣れた風景とあまりにもかけ離れた現状が、私の目の前に存在しているからだ。部屋がめちゃくちゃに荒らされていたとか、台所が燃えていたとか、そんな生ぬるいものではないのだ。 「・・・・・・っ」 喉が声を忘れた。大げさと思うかもしれないが、そんなものはこの光景を見てからにしてほしい。この鹿を見てから。 そう、鹿。トナカイかもしれない。鹿といっても、目の前にいるのはただの鹿ではなかった。 首から上が鹿の生物。首だけが鹿といってもいいだろう。つまり、首から下は普通の人間である。しかもご丁寧に服まで着ている。白い丸襟のついた淡いピンクのTシャツに、ゆったりとした薄緑のスカート。それは、朝に見た姉の格好であった。 私は、おそるおそる声をかけた。 「姉さん?」 鹿のような生物の反応はなかった。顔の向きはおろか、まぶた一つも動かしていない。聞こえていないのだろうか。 その鹿が何をしているのかというと、実に何もしていないのだった。普段、私が家に帰ってきたときに見る姉の行動をそのまましていた。椅子に座り、テーブルに雑誌を広げて紅茶を飲む行動を、そのまま。 鹿のような生物の手は、鹿ではなく人間だった。よく見慣れた姉の手が綺麗に袖から伸びていた。 これを見ると、この生物が姉であると思わざるを得なくなってしまう。けれど、頭から立派に伸びたその角は、やはり姉ではなく鹿のものであった。 「あなたは、姉さんなの」 私は再度尋ねた。この距離と声量であれば、人間でも鹿でも聞こえてるはずだ。 鹿のような生物はこちらを向いた。あまりにも無駄のない動きなので不気味に思った。 「姉さん、なの。それとも」 「ねえさんだよ」 低い声が言った。それは姉の声ではなく、明らかに男性の声であった。 嘘だと思った。けれど、鹿の目は、認めてほしそうにしていた。 「嘘よ。だって、姉さんは鹿じゃないわ」 触れてはいけない言葉を出したと思った。もし、鹿でなかったらどうしよう。 「あなたは誰なの」 私の声はたぶん、震えていたと思う。だって、怖かったから。 鹿は、ずっと黙っていた。何も会話のない時間が結構続いた。外で竿竹屋の放送が聞こえた。徐々にフェードアウトし、聴こえなくなっても鹿は黙っていた。 「ねえ、誰なの」 また尋ねた。早く何かしらの答えが欲しいと思っていた。 「あなたは」 「ねえさんは、ねえさんだよ」 鹿が喋った。また、あの低い声で。 「だから、姉さんはそんな声じゃないでしょう」 「こえがちがうと、ねえさんではないの?」 目の前の鹿が、奇妙なことを言い出した。 意味が分からないその質問に、いよいよ頭が痛くなってきた。 「何を、言っているの」 「だから、こえがちがっていれば、わたしはねえさんではないの?」 「・・・だって、姉さんの声じゃないもの」 聞きなれない声が、必死に自分は姉だと言っているように思えた。 けれど、この得体の知れない首だけ鹿の人間が私の姉だなんて、思いたくはなかった。 「でもね、りっちゃん」 鹿が私を呼んだ。名乗っていないのに、鹿は私の名前を知っていた。何故だろう。 「もしわたしがねえさんだったら、そういうのは、かなしいと、おもわない?」 「え」 どきりとした。 名前を呼ばれて、綺麗な黒目でじっとこちらを見られて、そんなことを言われた。 「りっちゃんがなにをいってもかまわないけれど、わたしはあなたのねえさんなのよ」 「・・・・・・」 低い男の声がさらに言い続ける。 「わたしはね、あなたのねえさんなのよ」 綺麗で淀みの無い両目が、じっと私を見据えて離さない。私は、まんまとその目に捕まった。 状況を理解しようと頭を回し続けていたけれど、徐々にそんなのがどうでもよくなってきた。 「あなたのねえさんなの。ね、わかるでしょう? りっちゃん」 そんなに甘く言わないで。なんだかそんな気になっちゃうじゃない。 「姉さん」 自然と、そう呼びかけてしまうじゃない。 「姉さんなんでしょう」 横に広がった大きな耳は、どう見ても鹿のものであった。黒い鼻も、口の間から見える歯も、首から上は全て鹿であり、姉の綺麗で長い黒髪も、筋の通った鼻も、小さい口も、切れ長な目も、そこにはなかった。 でも、そんなものもどうでもよくなってしまった。 「ああ、やっと、やっとわかってくれたのね」 感極まった声をあげ、鹿は立ち上がった。 「ありがとう、りっちゃん。ねえさんだってわかってくれたのね」 そう言って、鹿のような生物は私を抱きしめた。私は抵抗せずに受け入れた。姉の匂いがした。 感極まった声は、低かった。けれど口調は姉のものだった。 姉はずっと私を抱きしめていた。夕刻になり、外が暗くなるに連れて部屋の中も薄暗くなってきたが、それでも私たちはずっと抱きしめあっていた。
|
|