第11話
苦行、難行有りといえど その3
誠一が退院の日に深雪と義一で誠一を引取りにいった。 病院側としてはこれ以上の快方が見込めない患者は、完治扱いとして 速やかに退院させたいらしく、早々に退院準備をすすめ、新たなる患 者にベッドを明け渡す準備をしている。 誠一はストレッチャーに固定されたまま、廊下に放置されていた。
加療の終了、保険行政としても " 完治 "扱いだった。 診断書を渡された。 医事課の女性のまるで漫画文字の様な数行の診断書。 最後の一行にはポツリとこう書かれていた。
「今後は自宅にて療養」
入院加療の終了は保険診療の終了を意味している。 これからは全て実費となる。 病院から自宅へ戻るにも誠一のこの状態ではタクシーなど使えない。 寝台車を使いストレッチャーのまま運ばれ自宅へと着いた。 寝台車の業者は、お愛想のようにも通達のようにも聞こえる言葉で
「特別サービスで今日はお布団の上まで運んでおきました。」
所詮業者にとっては荷物扱いなのだ、人間だろうが品物だろうが、 運送業に変わりは無い、生きていのるか死んでいるのかさえ、さして この人たちには関係はないのだろう、運びさえすれば金になる。
「あっ、はい、有難うございます。」
深雪はあいまいに答えるしかなかった。 業者は続けざまに、
「運搬費の精算をお願いします、VISA か MASTER ならカードでも構いません。」
10キロ程度の道のりで、3万8000円をもぎ取るように受取り、業者は帰って行った。
デグノ棒が一つ運び込まれた。 これで部屋には寝たきりの " 肉塊 "が二つになった。 義一と顔を見合わせた。 義一はひたすらに人がいい好々爺だった。 家人の不幸続きで本人もどれほど不安に苛まれているだろうに、一生懸命深雪に 頭を下げる、その「すまないね、すまないね、ゴメンネ、」の言葉が涙で揺れている。 気が遠くなってきた。 動かないデグノ棒の誠一を見つめ深雪は途方にくれていた。
もうあなたから優しい言葉は聞けないの? 人懐こい笑顔も、怒った赤い顔も見る事は出来ないの? ねえ、今、何考えてるの? ねえ、愛している? よく気遣い手伝ってくれた手は微塵も動かない。 厚い胸に抱かれることももうない。 たった4ヶ月前には一緒に笑い、一緒に汗して働いたあの日が懐かしい。
ねえ、私達これでも夫婦なの? ねえ、治ってよ、お願いだから・・・・治ってよ。 ねえ、ねえ、ねえ・・・・・・・・お願い。 嗚咽交じりに誠一に語りかける深雪がいた、それにすら反応はなかった。
将来の " 夢 " 、" 希望 " は悉く崩壊し、待っていたものはこの現実だった。
この家の健常者は深雪と義一のみ、その義一さえ70歳を裕に越えている。 深く掘り込まれた顔の皺、禿げ上がった薄い頭髪から " 老い "が滲み出ている。 行政から毎月贈られてくる " 紙オムツ "は寝たきり高齢者向けのものだけで、 とても必要枚数は足りない。 かといって収入が大きく減ってしまった現状ではとても購入する事は不可能だっ た。 農作業と大量のオムツの洗濯物、2つの" 肉塊 "の介護で家の中はさながら戦争 状態となっていった。 家事を主体にすると農作業がおろそかになる、収穫減は収入減を意味する。 収穫を確実に行い農協に持っていかなければ、生活が成り立たない。 農作業に没頭すれば洗濯に手は回らない。 とり置かれた洗濯物からは腐敗臭が漂い、糞尿の匂いの中で毎日の生活。 それでも深雪を嘲笑うかのように " 肉塊達 " はいやおう無く垂れ流す。 一つの肉塊は吠え続けながら、むさぼり、そして垂れ流す。 家の中はまさに地獄絵図の如くすさんでいった。 深雪が入嫁時から持っていた預金などは生活費、治療費に全て消えていた。 実家からの救援金もすでに底をつき、これ以上の援助はとても頼めない。 義一は老いを隠せず、農作業から帰ると玄関の上がりガマチに倒れこみ そのまま寝ていたりする、疲れがとれないのだ、それでも深雪を気遣い 手伝おうとするが " 昭和初期の男 " なのだ、食事など作ったことも無い、 洗濯機のスイッチさえどれを押すのか判らないのだ。味噌汁に”だし”を 入れることも知らない男に家事は無理だった。 農作業、介護、家事、洗濯とすべて深雪の仕事になっていた。 介護保険サービスも本人負担分が発生する、家計を圧迫するためそうそう は使えない。
行政から派遣されたボランテイアは1、2日で逃げてしまう。 ホームヘルパーの資格を持ちプロとしての自覚を持った人間でさえ " 壮絶 " と言わしめる現場、ボランティアなどと言う偽善は通用しなかった。
「私、何をすれば良いですか?」
可愛い声で質問した女の子がいた、大阪の介護関連校の女子学生だった。 介護実習を兼ねて1週間の予定でやって来た。 学校と行政の間で取り交わした " 介護ボランティア "制度らしい。 何がしかの単位取得になるらしい。
「洗濯をお願いします。」 深雪は苛めるつもりも、責めたつもりもなかった。 ただ期待もしてなかった。
「洗濯機はどこですか?」
「あのね、洗濯機が回っているあいだ、下洗いは手でするの、うんちを 粗方落としてから洗濯機にかけないと落ちないのよ、汚れ物はそこにあ るでしょう、それからお願いします。洗い桶は外の水道の前にあるわ。」
「て、手洗いですか?」
「そうなのよ、オムツはとくにゴシゴシ洗わないと落ちないの。」
「本当に?」
「あなたのおかあさんやおとうさんが同じ立場になったら、誰かがやる わけでしょう?他人のだから出来ないの?貴女だって年をとって寝たきり になったら貴女の汚物処理を誰かがやらなければならないんじゃないの? ボランティアの言葉の意味本当に判っているの?」
「うら若き乙女にはさせたくない仕事だけど、貴女は介護を志しているん でしょう?家族がこうなると働き手がいなくなる、どんな人も貧困に落ち るのよ、貧困者の介護にはお金が掛けられないの、お金がないんだもの。」
学生に洗濯と介護を任せて義一と畑へ出た、一時ではあるが " 肉塊 "から 気分的に離れることが出来てほっとしていた。 でも世間知らずの女子学生には酷な仕事だったのだろう。
3日目で女学生は来なくなった。 大阪に逃げ帰ったということだった。
その後も数回にわたりボランティアは訪れた。 最長に頑張った人間も3日間で逃げていった。 大したことも出来ないくせに" 感謝の言葉 "を要求する人間もいた。 行政からの何回目かの派遣までは受けたが、それ以降深雪は申し出を受けな かった。 これ以上、惨めにはなりたくなかった。 かわいそうな人たちの代表者扱い、来る人来る人最初から色眼鏡で深雪を見 る目に、耐え切れなくなった。
来ては逃げるボランティアという名の " 偽善者 "たち、ただ羨ましかった。 出来ることなら私も彼等みたいに逃げてしまいたい。 彼等は逃げたことで、心に小さな傷を残したのだろうか? 小さな傷などすぐに癒える。 でも深雪の前のこの現実は到底、消えることは無い " 事実 "なのだった。
「うつそみに生きる 人である我や」
そんな歌とも言葉ともつかぬ声が口からこぼれ出た。
横にはただ、日焼けして萎れた義一の横顔があった。
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