エリナを後にして久し振りに、光一と清三は親子二人で肩を並べ銀座を歩いた。 光一は何を話して良いものか適当な言葉が見つからない、父、清三にしてもおめでとうと云うには早すぎる、清三も倅に掛ける言葉に窮した、手を上げた分けでは無いが、混雑のせいかタクシーが二人の前で止まった。 「乗るか…」 タクシーのドアーを軽くノックした、ドアーが空き清三は光一を促し先に乗り込んだ。「お前、中々良い娘さんを見付けたなあ」 父の率直な言葉に安堵しながら、光一は窓外に目を遣った侭頷き、母が生きて居れば何と云ったであろうと、あれこれ想像して見たが十年も前の母が云うであろう言葉は何も浮かんで来なかった。 「そう思いますか?私には良く解りません」 光一は幾らか謙遜した積りで云った。
「男と女の出会いなんて、そういった物だよ、特に夫婦は喧嘩をしたり笑ったりして、日に日に互いに靠(もた)れ合い、人としての年輪が来る年毎に大きく成っていく、子供と云う枝葉が生れ大木と成って行く其の過程で、花が咲き実が成る、実は種を生み芽が出て子孫となる。日頃は仕事だ、金だと駆けずり回って居ても、結局男のオワシスは妻で有り家庭だ」 其のオワシスを飛び出し、俺の幸せを薄くしたのは光一、お前だ…寂しい思いはお前だけではないのだぞ、と言いた気(げ)な言葉に光一は胸が痛む思いを感じた。生まれて初めて父の心の声を聞いた思いがした、其れに今夜の光一は昔と違い全て素直に受け入れ聞けた。
江里子と云う女の愛に己の感情が半分、剥ぎ取られて居る性なのかも知れない。 「父さん、継母(はは)にも心から謝れる気がします勝手な事をして困らせた、それに久し振りに母さんに報告もしたい、父さん今夜は有難う」 光一は継母を母と云い生母を母さんと呼び分けて居た。 「やけに神妙じゃ無いか、お前も一本立ち出来たと云う事なのだろう、だが父として親離れして行く倅を見るのは何となく寂しい思いがするがねえ」 それっきり二人は互いに気を遣(つか)ってか、黙って流れ行く街並みの明かりに目を遣った。 光一は、義母(はは)さんはお変わり無いか、と云う言葉が喉元迄出掛かったが何度も呑み込んだ。 学芸大の家を出る原因が、早苗に有ったのだからと光一は今も思って居る。 早苗は明るく女の優しさも充分持っており、傍目は申し分の無い後妻で有った。 兄の一郎はその優しさに翻弄(ほんろう)され、籠絡されて居る様に見えた、然し芯の強い一郎は義母を実は翻弄して居た。
「一郎さん、一郎さん」と何かに付けて可愛がり父親が嫉妬する程に仲が良かった。 義母と兄の一郎は五歳しか歳に開きが無く,世間でも五つ年上の夫婦は珍しくは無い為か、兄と連れ立つ時は、彼女は若作りを楽しむかの様に念入りに装い出かけた。 一郎も義母の美貌に満足デパートの店員に奥様、旦那様と云われる事に、優越感に浸って居た、早苗は所構わず夫婦と偽(いつわ)る事で,年の差の有る夫との不満を、暫し欺く事で己を納得させ、今の環境に甘んじて居る自分を許そうとして居た、それを帰宅しては自慢気に夫の清三に話した、笑いながら聞き流して居る様だが、清三はそんな夜の翌朝は必ず目を腫らして朝寝をした。 一郎には其の原因が何となく想像出来る歳でも有り、若い妻を貰った父に対する懲らしめの積りであった様だ。
一郎は既に何人かの女性と青春を楽しんで居た、義母早苗は、法律上父の妻で一郎と光一の母である、一郎にも生母との想い出は多く有るが、青春真っ只中の彼の心には彼女を異性として感じる事も有る様で、複雑な気持ちを抱きながら、表面は兎も角親子の線引きは一郎の理性の範ちゅうで一定の距離を置き当然な事ながらじゃれていた。 当の早苗も、一郎とは男女のぎりぎりの一線迄異性として、気を許しからかい有って居た、一郎は早苗をママさんと呼んで居た、光一は母と呼ばない一郎に、不思議に思い或る日尋ねた事が有る。 「ふふん」 と軽い笑みを浮かべ光一に云った。 「ママの方が呼び易いし、さんを付ける事によって遊び心が出て来る、考えて見ろ俺と年が五つしか違わないのだよ、其れで母と呼ぶのは母に失礼だろう、世間だって父が逆に誤解され兼ねない、其の点ママさんならバーに行ってもクラブにでもママは居る、ママのツバメかなあーで済んじゃうだろう、日本語のデリカシーを、品良く利用させて貰って居ると云う事かなあ」
光一にも兄の説明で何となく理解させられた、が彼のじゃれ方のくどさに誤解や不信を持たざるを得ない行動が時に有った、兄は光一の気持ちを察してか…。 「母と認めないで,貴女は娘だ、つまり仲の良い姉として扱って居るのさ、実際目鼻立ちも姿も美しい。通常、家の中に入った女は妻と云う名に縛られ、年と共に当たり前の様に糠味噌臭くなるだろう、親父を老けさせない為にも嫁さんに負けるなと、エールを送って居る積りだ」 そう云われても兄のじゃれ方は際度過ぎた。ルージュは濃い方が良いとか衣服の柄にも注文を付けた、時に父も嫌な顔をする事が有るが、兄の云う事が間違って居ないので、 「そうだなあ」 と苦笑するだけで有る。 早苗はじゃれながら光一には姉弟と言った接し方で、光一自身は何の不満も無かった。 兄の一郎が嫁を貰う事に成って、其の話が進むにつれ早苗は光一に対する態度に少し変化が見られた。 父の留守に入浴中の浴室から… 「石鹸が無いの…下さる」 と、大声で光一に頼んだりした。着替えで背中のジッパーを下させ、自分の素肌を露出しては楽しんで居る節が見られる様になった。それと光一に対する態度が異常に優しく成り光一を見る目に気のせいか艶が有った。 光一は一郎より背も高く逞しい体をして居た。早苗は一郎を大きな玩具として接して居たのであって,一郎が所帯を持つ事が決まり楽しみだったおもちゃが遠くへ行って終う。 それに早苗も一郎には年が近いだけに光一と云う弟の目も有り性に対する抑止力が働いていた、一郎が結婚すれば家を出て独立するだろう、その事実は母親ともプラトニックであるが恋人とも付かない複雑な環境に、大きな風穴が空く事に成る、一郎の存在は早苗にとって絵に描いた青春であり精神的な逃げ場でもあった、結婚によって彼が居なくなれば年老いた夫との生活があるのみで其の寂しさが、当然の如く残された光一に向けられて来たのだ、未だ光一が居る光一を仕込めばと一郎の代役を求め様とするかの様で、彼に対するよりセクシアルな行動は光一に対し少し情愛が露骨で妖艶さを見せた。 光一は日夜不穏な風と危険を含んだ禁断の果実を感じさせられた。
一郎は新婚夫婦の決り事の様に初めの半年はマンション住まいをしていたが、経済的に辛いと云うので同居をする事に成るのだが、其の話が間近に成ると早苗の言動は露骨に剥き出しで野獣と変わった。狂気を帯び男と女を意識した行動を光一に向けて来た。 父の仕事の多忙さも手伝ってか、早苗の心の間隙に満たされない性慾が不満と虚しさに変わり、手じかな玩具として光一に甘え甚振(いたぶ)る事で楽しんで居る感がした。 当時光一は元来潔癖な性分で未だ童貞で有った、女友達は居るには居たが、接吻どころか手も握った事も無い純情派で有った。 或る夜、父が出張で留守の時に事件が起きた。
光一が自室で少し早めに床に付き一眠りして間もなく事件は起こった。ガールフレンドの一人宮内加奈子と露(あら)わな姿でセックスをしている夢を見て居た。 品の良い化粧の香りが漂い、今、正に行わんとした時、身体が何者かに押さえ付けられて居る重みを感じ気が付き目を覚ました。 光一と早苗は八つ年上のお姉様でセックスの対象には、其れ程不自然さはない、良く有る話だ…と云って仕舞えば其れ迄だが、光一が朧気(おぼろき)に目を開け気が付いた、早苗の体が光一の身体の上に有り、乳房で口と鼻が塞がれて居る、息苦しさの為その時は早苗と知らずに跳ね飛ばした。 「まあ、酷(ひど)いは光ちゃんたら、私よ、可愛がってあげようとしたのに……痛いわ…」 早苗は許さぬと、言わんばかりに光一を色っぽく睨み、再び光一の身体に素っ裸で、馬乗りに成って襲った。 光一は未だ様子が飲み込めず仰向けの侭宮内加奈子と早苗の区別が付かず、咄嗟の事で茫然自失、その場の空気が夢遊の中、本能だけが蠢こうとしている。 「光ちゃん、凄いわ、硬いし、大きい…おとな…ね…え…」 光一は大人と云われ、 「加奈子」 と叫び、今正に行われ様として居る事に、何の咎(とが)めも感じなかった、一瞬の隙を与えて終って居た…義母である事に気が付いてもどうにでもなれと、受け入れる気持ちと抵抗する良心…父の顔が交差した。 早苗は当たり前の様に光一を自分の中へ誘い込んだ、爆発しそうな光一は強く父の顔を思い浮かべ必死に堪え己が理性と戦った。 「貴女は兄ともこんな事をしたのですか?」 「ええ、良い…光ちゃん、いっちゃう…一郎さんは駄目…駄目よ…うう」
激しく光一にしがみ付く早苗を流石に光一の正義が蘇った。許されない行為に我慢しきれず、光一は意を決し言葉に成らない大声を出し、早苗を思い切り突き上げ腰を捻(ひね)った、同時に早苗の体は部屋の隅迄追いやった。 早苗はやっとの思いでガウンを纏い身体を震わせ蹲(うずくま)って震えた。流石に罪の意識に苛(さいな)まれてか、己の愚かな行為に肩を震わせ泣きじゃくった。 光一は遣っても、されても許されない恥ずべき行為に、無性に腹が立ち身体の奥底から涙が溢れ出てきた、だらだらと夢精の感覚が下半身を襲い、生暖かい精液が股間を汚した。 「貴女は、仮にも私の義母と云っても母です、こんな事は許される行為では有りません、夢ですら見てはいけない行為です、今夜の事は無かった事にしましょう」 光一は早苗を横目で見捨て風呂場に走った。熱めのシャワーで身体にシャボンを付け何度も洗った、目から出てくる涙と一緒に、忌まわしい出来事を洗い捨てる様に、ひりひりする湯を何度も被り洗い流した。 風呂場から出て光一は自室に戻った。 早苗は、無言で明日清三が帰宅して此の家で起こり得る惨劇を思い描き恐怖の眼差しを光一に向け座って居た。 光一は手荒に身の周りの物をバッグに詰め外出の支度を始めた。
「親父を宜しくお願いします、皮肉にも年齢が挿せた夢の中の戯(ざ)れ事です。今後、一切遣っては成らない行為です、勿論父以外の男とも…お互いに忘れましょう…」 光一は踵(きびす)を返し振り返る事も無く、玄関を出て行った。 以来兄嫁の居る時に必要な物を取りに行ったが、自分の家とは思わなくなった、何とも取り返しの付かない凶事で二十四歳の夏も終わろうとする、九月三日の夜の出来事であった。 清三が在宅の時に光一が帰宅するのはあれ以来今日で五年振りに成る。学芸大学の実家に泊まるのは勿論あの夜依頼で有る、今以って忘れ得ない忌まわしい出来事が胸を曇らせ思い出す…光一は二、三回首を強く振り、当時を振り棄てる様に大きく息を吸い吐いた。 「近頃は母さんも年を取ってね,一郎夫婦に当てられてか覇気が無くなったよ」 「でも三十七歳でしょう、父さんにしてみれば、もし僕達に姉が居ればその姉と同じ年頃では無いかと思います?…」 光一は父に対して精一杯の嫌みの積りで有った、清三は普段胸の底に押さえ付け、自己閉塞して居たものが一気に壊されそうな気がした、清三は羞恥心と謝罪を込め「光一」と言って何かを押し殺した様に車窓から夜の街並みを力無く眺めた。走馬灯の様に過ぎ行く街並みを見ながら、今夜も又何時もの様に問い質したい一言を胸の底に仕舞い込んだ。 「人は、様々な生き方をする。善悪は兎も角浮沈の多い方が刺激が有って、それはそれで楽しいのでは有りませんか、死者は帰らず…です、」 「生者のみ…の此の世か…」 「どう生きるかが問題で、個々の生き様が其々満足出来るなら良いのでは……」 「光一、大人に成ったなあ…」 清三は、…ぼそ…と言って、口の中の唾を絞り集め、ごくんと飲み込んだ、乾いた下唇を舌先で舐め、清三は又口を噤(つぐ)んで終った。 学芸大の家は少し古くなったが、当時は無かった車庫が左側の前庭と垣根を半分壊し作られて居た。兄嫁が乗り回すのか小さめの乗用車が納まって居る。 「車庫ができましたね」 「そうか…光一は何年この家に来なかった?」清三は洒落た透明で薄紫の樹脂の屋根を見ながら、如何にも寂しそうに尋ねた。 「五年です」 短く答えた光一の横顔がしんみりと云った。「そんなに成るか…お前も強情だからなあ」 父の強情だからと云う言葉に力が無かった。光一は、父は忌まわしい、あの夜の事は知らない様だ、態々知らせる事も無ければ、教える必要も無い、光一の家出は義母と相性が合わずに出て行ったと思って居るのであろう。光一は幾ら早苗でも外で不倫は無いと信じて居る、そう有って欲しいと祈るものの、矢張り年の差の有る父が少し哀れに思えた。 「お帰りなさい」 玄関まで迎えに出た早苗が目敏く光一を見て、 「あら、お珍しい事、光一さんもご一緒でしたの?お久し振りです事」 光一は早苗が堂々と此の家の女(おんな)主(ぬし)然(ぜん)として居る事に安堵した。 「ああ、仕事で一緒に成ってねえ」 清三の「仕事で一緒に……」の短い言葉の中に父親の嬉しさが滲み出て居た。 「お食事は?」 「何となく食べたが、光一とは暫く振りだから一杯やりたい何か作れるか?」 「あのう…僕でしたら食事は済ませて居ます、父だけに……」 「まあ、そう云わずに付き合えよ、どうせ夕方食べた蕎麦だけだろう」 急に親父らしい言い方で光一を見詰めた。 清三の眼は、未練たらしくタクシーの中で仕舞い込んだ言葉を口に出しそうに成った。 「家を出た原因は何か?」 の僅か十文(ともじ)字(じ)足らずの言葉を、また飲み込んだ。清三は此の短い言葉を胸の内で何度出し入れを繰り返した事か?喉元から胸の奥へと仕舞い込む思いの五年間が今日も続いた。
今度は訊ね様…早苗の開けっ広げな性格、物に動じ無い無頓着さが災いして、間違いでも起こして居てはと、一度も正面切って光一に問い質(ただ)さ無かった…清三は光一と早苗をそれとなく見比べる事で彼等に対し、穿(うが)った見方は差し控え様としていた、取り返しの付かない惨めさを味合うかもしれない、父親でも無く男ですら無くなる気がした。 幸い早苗の日常生活に然したる変化も無く、事を荒げて知りたくない事を云われては藪蛇と、臭い物に蓋(ふた)をして過ごしてきた。
清三は一郎が早苗と如何にじゃれ合おうと、さして気に成らなかった、其れが光一とは胸に突っかかるものがあり言葉に成らない、しこりとして何時までも宿っていた。互いに暴かない事が幸せに繋がる…と自分に言い聞かせてきた。 当の早苗夫人は過去の光一との事は幼子に乳を与えた程にしか感じて居ない顔で光一を見詰めて居る。光一は無性にからかって見たくなった。 父が着替えに自室に入ったのを確かめ、早苗が光一の傍に寄って来たので、早苗の肩に手を置き胸の膨らみ近くまで手を滑らした…
「本当に御無沙汰致しました、お元気そうで何よりです」 不意を突いたにも拘わらず早苗は光一の手を素早く握り衣服の上からでも分る、豊満な乳房の上まで引っ張った。
「相変わらず、お母さんは若くて奇麗です、父も幸せです」 「まあ、お世辞がお上手に成られた事」 早苗は色気たっぷりの流し眼で光一を恨めしそうに睨んで、早苗は調理場迄その手を離さず胸元で、光一の手の上に自分の手を重ね右手で光一のベルトを掴み連れ込んだ。 「手伝って下さる?悪い子ね」 と小声で云って光一は股間を撫ぜられた。 「はい、何をしますか?僕も大人ですから…」 「何でも、おできになるの?何方か教えて下さる方がおられるのねふふ…ふ…」 と笑い光一の股間をぽんと叩いた。 「フライパンをガスにかけて下さい、…キャベツはボイルしますので鍋に水と塩を入れて頂ける…」 早苗は光一に罪の意識を持ちながら、はちきれそうな若い光一の体は忘れる事は出来ない。 勿論、誘惑は今更考える筈も無い、只早苗の体に五年も過ぎた今も覚えて居るのか、熱いものが嬉々とした軽やかな動作に表れた。 其処へ兄の一郎が妻の頼子を伴い帰って来た。 「只今…あれどうした、光一では無いか珍しいなあ」 「今夜泊めて貰います」 「ああ、お前の部屋は其の侭だ、遠慮はいらん、少し埃っぽいから母さんに掃除をして貰へ、気管に良くない」 光一は兄がママさんでは無く母さんと云った事に驚き、唖然として兄の顔を見た。 「何だ、顔に何か付いて居るか?」 「いいや…」 早苗は一郎達に何食わぬ顔で尋ねた。 「一郎さん達は、お食事召し上がる?…」 「いいや済ませて来た」 父の清三も着替えて、食堂に遣って来た。 一郎に気が付き彼の顔を見ながら言った。 「今日は大変だったな、色々あり過ぎたお前も気疲れしたろう」
「ええ、でも明日からがもっと大変に成るでしょう、話しによると三田一族の巻き返しが有ると、騒いでいる連中が居て、誰もが日和見を決め込んで居る様です」 「そうだろう、だが金だ、不正行為をどう始末するかだ」 「一族の持ち株は十九パーセントらしいです」 「うむ、今はもう少し少ないのでは無いか、いずれにしても全融株はカラ売りで良いだろう、十九パーセントの持ち株はカラ売りの担保として出して貰う様に成る」
「自社株買いで償却じゃ無いのですか?其れに未だ明日も売るのですか?」 「毎日で無い方がいいだろうが当分続ける」 「でも金融関係も含めて三千億は最低額売らねば、穴は埋められませんからね、千百五十億の証券購入の始末ですから、未来銀行が例の証券商品を先週慌てて売った様ですが二割のダウンだったらしいです」 「六百三十億売った話だろう?」 「ええ、一千億は売り切れなかったと云うより買い手が付かないと云うのが本音です」 「では、財務の連中が云って居たが、買い取りの千百五十億全部を売ろうとしたが、売れなかったと云うのも本当か?」 一郎も社内情報を探り訊き回って来た様で…
「ええ、未来証券が銀行とのお義理で五百億を買って呉れたので証券残は六百五十億の様です。当然二十パーセント引きですから当社には四百億で、此れも返済に回したので借入残高が七百五十億、損失が百億、詰まり未来銀からの借り入れは七百五十億に成りました、今回自社株買いで消却したとすれば三百億がプラスに成ります、ただ社員に散らばって居る証券は把握出来ません、細かいのは十万、二十万と小口が随分有る様です、気の毒なのはほんの少しですが新入社員迄買わされて居るそうです」
「纏めて金が出来れば解決仕様、一郎、光一失敗すれば背任横領だ、我らは潔く切腹せにゃならん…」 「覚悟はしています」 二人は妙に目を輝かせて云った。 調理場から義母が焼く肉のいい匂いが伝わって来た。 「さあ、焼けたわ、ワインでも開けましょうか?光一さんは肉、魚に拘わらず赤が好みでしたねえ、赤白どちらでも、まあまあの物が有ります」 「光一は赤だったなあ…今夜は赤から呑もう、それに我が家には、お目出度い話がもう一つある」 一度も会社の人の事や、仕事の話は家でした事の無い清三だが今夜は違って居た、今迄は同じ系列だが光一は丸三商会だったから、共通の話題に乏しかった、今は自分と同じ会社に勤めており、其の二人の息子がどうにか一人前に成って居る事を義母にも自慢気に云った、それに会社の重大危機に、三人が当たり乗り越え様として居る…一つ間違えれば切腹も孕(はら)んでおり、そうなれば当然早苗にも降り掛かる事態と成る。其れと無く知らせて置く事も必要と思ったのかもしれないが、兎にも角にも清三は、今夜は嬉しかったのである。
早苗に聞える普通の声で喋って居た、それに自分達父や兄も付いて居ると、光一の気持ちを解(ほぐ)してやりたい思いも有った。 父にしては珍しく顔面に笑みを浮かべ喜びを隠す事無く嬉しそうに話しだした。 「実は今日、光一の嫁さんが決まってね」 清三の唐突な言い方に、誰も信じ難いのか聞こえない振りをして居た。 「そのお相手が思いがけない娘さんでね」 「へえ、光一がねえ本当ですか?で、何処の娘さんです、僕達も知って居る人なの?」 一郎も早苗も一瞬息を止め、光一の目を見て興味深く質(ただ)した、清三は急に重い口調で、光一の顔を見ながら話し出した。 「うむ、それがなあ、会長の娘さん…佐々会長のお嬢さんでねえ」 一郎は飛び上がらんばかりに驚きを表し、 「あのう銀座にバーを開いて居ると云う方ですか?もう少し詳しく話して呉れますか?」 「うん、一郎も銀座のエリナは知って居るなあ、ママさんが江里子と云って佐々さんの娘さんだ…、光一は其処で知り合ったのだ」 「光一、お前企んだのか?…」 「いや、それがそうでは無いのだ、光一話して見なさい」 光一は嫌な顔で父と兄の顔を見ながら、仕方無さそうに口を開いた。 「二年に成りますかね,あの店に通い出して、急に話が進んで僕にもよく分らないのです」 光一は兄の野次馬根性にも良い気持ちがしない、それと兄の態度に素直に祝福するより、将来を約束された様に思われ、多分に嫉妬を感じさせられた。光一は話すのが面倒に成り、ワインを飲み…良く分らないのだ…と繰り返し言って黙って終った。
「お前、乱暴な振舞いをしたのでは無いのか?お前には少し粗暴な面が有る」 「いや、今夜店により話してきたが、それが彼女の方が光一にぞっこんで、江里子さんが会長を口説き落として許しを得たと云うのだ」 光一は自分の話は、皆の前で公表した事で役済みにして貰いたかった。其れより光一は夕方の蕎麦屋での話をするべきか迷って居た。 「一族の株は全て会社が預かって居るのですか?」 父の口振りでは佐々会長を始め外様の連中は、若い創業者の三代目四代目達には誰も信用していないと云う事で有った。 「三田丸商事だが何れ解散か三田HDに吸収する様に成る、其れで初めて三田も公の株式会社に成れる」 「彼等は会社が預かって居る株券以外に株を持って居そうです、出させるのは早い方がいいと思います」 「今夕、一族各人に通達が出て居る、明日には持って来るだろう、それに八割以上彼等の株は会社の財務が預かって居る」 「既に未来銀行に担保として預けて居る者もあると思う」 「個人の簿外での購入の為に銀行に取られて終って居る筈だ、会社の借入金は個人とは別だ、新たに根こそぎ会社に持ち株は提出させる事に成って居る、場合によっては家屋敷不動産も抑える事と成る」 光一は父の言葉を聞き安堵して、早苗の焼いて呉れたステーキに舌づつみを打った。 光一も兄に習って… 「母さんのステーキは美味い、兄さん達は何時もこんなに美味い物を食べられ幸せだねえ」 早苗は光一が母さんと云った事に光一を暫し見詰め感激して目を潤(うる)ませた。 「光一さん、何時でもお寄り下さい」 と、早苗はハンカチを目に当て心なしに頭を垂れた、清三は益々上機嫌に成って早苗に… 「白も飲もう、君も一緒にどうだ…皆苦労した甲斐が有ったと云うものだ」 清三は此れと知った言葉は口にしなかったが、 その夜は何年ぶりかの朗らかな一家団欒で和気藹藹(あいあい)とした一時(ひととき)を過ごした。 光一は夜半に成っても眠れなく、父の書斎のパソコンでニューヨークの株が気に成り開いて見た、矢張り気に成るのか父も部屋に遣って来て光一の背越しにパソコンを覗いた。 「光一、どうした、お前も世界の株価が気に成るのだね」 「ええ、少しですが上がって居ます」 「そうか、半年後までには絶対に下落する、来年は世界恐慌に有り得る危険信号が出て居るとアメリカの生田さんから細かい経済予測データーが送られてきた」 「矢張りそうですか、国単位の破綻も有りそうですか?」 「其処までは云って来ないが、経済の減速、収縮は急速に世界を覆いかねないだろう」 「今資源開発を行って居る商社の方向はどちらを向きますか?」 「一時休止だろう」 「政治頼みに成らなければいいのですが…」 「うむ、頼れる政策が早く出なくては倒産失業者と困った世の中に成る…光一もう寝よう」 「はい、お休みなさい」 光一は父の先行き暗では有るが、安定した考えを訊き安堵した。 翌朝は親子三人揃って玄関に立ち家族に手を振る姿は、清三の脳裏に遠い昔から思い描いて居た光景であった。 同じ会社に息子二人を伴い向う姿を、ひらがなの先妻、さなえに見せたかった。
人生は儘ならぬ皮肉なもので、見せたい時には既に此の世に妻さなえの姿は無く帰らぬ人と成って居る、光一では無いが生きていてこそ何ぼの人生で有る、思い出だけの虚しさは言葉にも寂しさと力の無さが感じる、今其処には同じ早苗でも漢字の早苗が立ち見送って居る、幸いな事に一郎の妻頼子が混じり、光一の後姿を彼女達二人も眩しく何時迄も見送って居た。
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