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作品名:無鉄砲が成功に繋がる世の中だ 作者:田添田

第4回   第四章 株は売りから
佐々は光一の傍に来て済まなさそうに云った。
「君の出番を潰して終って御免よ」
「いいえ、私にはあれほど見事に進行する事は出来ません、其れに大事な期日を勝手に発言致し申し訳ありません…いい勉強を挿せて頂きました」
「処で決済を十二月の御用納めの日に決めたのは何か勝算でも有るのか?」「はい、金融株は安くなるそうです、大学の先輩から七時に株の講義を受ける約束が有ります、短期に利益を得るには株の売買しか思い当たりません」
「うむ、矢張り株か?君の狙いも…そうか上手く行くかね」
「私もやった事が有りません、只彼が云うには株を買うから失敗をする、売ればいいのだと云うのです」
「ほう、売りからか…」
「世界の経済情勢が下落基調に有ります、今自動車を始め製造業は海外に設備投資を行って居ますが来年には減産を余儀なくされるでしょう」
「うむ、面白そうな話では無いか、私も行ってはいかんか?」
「会長では無く親戚の叔父さんでは不味いでしょうか?佐々会長では相手は硬くなって何も喋れなくなって仕舞います」
「そうか、では君の云う通りに小父と云う事でいいよ……」
「はい、時間の方は大丈夫ですか」
「七時だったねえ」
「お迎えに上がります」
「うん場所は何処だ?」
「日本橋の居酒屋で赤沢です、歩いて十分で行けますから十五分前に伺います」
光一と佐々が赤沢に付いた時には既に光一の先輩と云う男は来て居た。
「叔父の佐々正二です」
光一は野川証券の水野に紹介した。
「野川証券の水野昭夫です」
と云って佐々の名刺を受取る前に大仰に驚き光一を怒った様に睨み云った…
「三田コンチェルの会長じゃ無いですか、光一、叔父貴だなんて言わずに、はなっから云って呉れよ、今更会長さんに株の手解きは無いだろう」
佐々は頭を掻きながら…
「誤解されても困る、純粋に株の売買は素人だ、一から教えて欲しいと思って来たのだ」
「いや、困った、それに佐々会長、本気で株をおやりに成るのですか?」
「背に腹は変えられない事が勃発してねえ」
「如何程の穴埋めですか?」
「鋭いねえ、千億と少々…かなあ」
「ええ、巨額ですね会長の責任ですか?」
「まさか…何処にもバカ者が居てねえ」
「罪人を出したくないのですねえ」
佐々は寂しく笑い頷いた。
「この夏から株は下がり出し、先ず金融株から安くなるでしょう、四月から売って行きましょう」
「メガバンク三行ですね」
「野川証券は三田グループの幹事会社だったね、大川君は帰ったかなあ、連絡が付く様なら四人で話そうや」
「はい、連絡してみます」
水野は携帯で大川に連絡して都合を訊ねた。
「直ぐにお越し下さいと云う事です、社には様々なデーターが有るのでご覧頂きながら御説明致すそうです」
「君の立場を壊した様で済まない事をした」
「いいえ、多分我々には知らされない情報も揃って居ると思います、私も興味が有り勉強させて頂きます」
三人は野川証券本店に向かった。
大川は株のいろはから現在の状況までの資料を揃えて待って居た。
「情報は飽くまで情報でしか有りません、全てその通りに上下するとは限りません、水野からお聞きに成って居ると思いますが、相場は下降気味です、サブプライムの問題が静かに浮上して悪い噂が立ち始めました」
「ええ、私の方も勝手な事をする者がおり困った事に成りそうなのです」
「一千億と水野が云って居ましたが事実ですか?巨額ですね」
「正確に云って千百五十億です、それでも半分は小田さんに引き取って貰った残りです」
「未来銀行の小田さんですか?」
「ええ、渋い顔をして居ました」
「それはそうでしょう千億以上では私共では処しきれません、流石小田さんですね」
「水野さんの言葉では有りませんがメガバンクの空売りですか…」

佐々は腹を決めていた,悪には沿ってみろ、馬には乗ってみよ…だ、株は先ず売る成り買う成りを始める事で損益が分かる、宝くじも人が云う様に買わなければ当たらない、株の売り方に成るならば売って見る事が先決であるが、何を売るかである。

「三陽銀行の蠟燭(ろうそく)足をご覧下さい、去年の高値が百九十五万です、以来百四十八から五十五、とぐずついて居ます、遅かれ早かれサブプライムの引っ掛かりで三陽に限らずメガバンクは下押しとなるでしょう、当然、原油高から今年は夏枯れが有ると思います」
光一は大川の顔を見て軽く会釈をして訊ねた。
「私も株は素人ですが今マスコミに騒がれて居るナイスウイルは売れませんか?」

「そうですね、随分下がりましたが未だ下は有ると思います、あの社長では結局身売りに成るのではと思っていますが、今迄の様な下げは期待できません。それに売買高が多く有りませんので、千億円の解消には不向きです、日に何百何千と商える株を選んで遣りましょう、ウオーミングアップの積りで、一株単位の株を一万株単位で空売りするのが良いかも知れませんが、飽く迄金融株に絞りましょう」

「分りました、私共の窓口は青野光一が致します、よく話し合って売買をして下さい」
「それでは当方は水野昭夫が担当させて頂きます、彼は、どちらかと言えば売り屋です、今の相場には合って居ます」
大川は久し振りだからと夜を誘ったが、佐々会長は今夜は遅いからと大川の誘いを丁重に断り野川証券を後にした。
翌朝佐々会長派の外様十一名と、オブザーバーとして青野一郎と光一が会長室に呼ばれた。第一回三田グループ再生会議が開かれた。

当然、サブプライムローンの含まれた証券購入への投機責任者として、三田中商会社長三田中一氏三田上商会社長三田上勤氏丸二商会の三田上陽一氏の三名が呼ばれた。
三田中一は今泉が急病で休んで居ると訊いて肩を落とし、其の場に居合わせている十一名の外様に驚き陽一に吉平、平蔵、守、智之、仁、多門、譲、忠治を慌てて招集した。
創業者の二代目三代目の若様達十人は何事かと佐々会長室に遣ってきた。
取り敢えず数合わせをして外様に挑んできた。
清三は進行係と云うより裁判官の面持ちで冷静に話始めた。
「お集まり頂いたのは今、話題に成って居るサブプライムローンの組み込まれた証券購入に付いて購入方法、又資金調達をガラス張りで、ご報告をして頂きたい。

今は然したる事は無い様ですが、ファンドが売り出して居る証券商品の信用度が極端に落ちて居ます、今後…いや…来月あたりから各証券の下落が始まると調査部からの報告を得て居ます、近い将来可なりの額の損失が出ると予測されます、既にEU圏では噂が現実化して来て居るようです、事実で無ければ良いのですが?三田中の総氏で居られる一社長、三田上の勤社長、丸二の陽一社長のお三方の発案で購入が始まったと聞き及んでおります、正確な資金調達と実態、投機総額並びに今後の御意見をお三方から伺いたいのですが?」
佐々は難しい顔で腕組みをして訊いて居た。
三田上陽一が遠慮勝ちに話し始めた。
「面目ない話で年、七パーセントの利回りと云う触れ込みで購入しました、百四十億の配当が得られている、レバレッジを掛けた商品が約一千億,此れに付いては既に十パーセントの利が乗って居る、当然の様に世界の金融機関が買って居り当社としても見逃す手は無いと思うのだが…当初一年は実行され未来銀行の当社口座に振り込まれて来ている、今年四半期は少々減配した様で八十億振り込んで来ている、後期の配当は大丈夫だと小田君が云って居た」
清三は一社長の言葉には反応せず。
「其れで投機総額は?如何程に成りますか」
「うむ、其れは今泉君が把握して居るが?」
「社長は昨日胃癌の疑いで検査入院され休職扱いですので私が記載通り報告致します」
今田財務部長は仕方無さそうに読み始めた。
「サブプライム関係の数字を申しますと周知の通り総額で二千億、税込百四十億円の配当が過去一回振り込まれたと記載されて居ます、其の後は昨年四月に四十億円秋に四十億振り込まれて居ます、レバレッジの利いた商品に付いては未来銀行サイドで処理されて居る様で百億円の預かり書と投機総額一千億の詳細と計算書が送付されて居ます、証券に関しては其の後の報告は受けて居ません」
光一は書面を見ながら
「然し三田中商会も三田上商会にも四半期ベースでの決算書にはその当たりの全ての数字が見付かりません、記載漏れでしょうか?どう云う処理をされたのですか?」
「私も不思議に思って居るのだが…今泉社長が処理して呉れて居ると思って居た」
「待ってください仮払いでの処理も見当たりません、簡単に処理出来る金額では無い筈ですが?」
「多分、中国景気上昇で中国支社の、運転資金が急遽必要に成り融資を受けたりしたのでは無いか?当然証券購入資金も含まれて居るだろう」
「中国勢は調子が良い様ですね、処で中国でもサブプライムに手を染めたのですか」
清三は多少皮肉っぽく云った。
「青野君、外国証券が悪い様に云うが根拠が何か有るのかね?」
清三は一社長から反撃を受け、少したじろいだ、佐々は空かさず、一社長に問い質した。

「社長、債券の損益より二千億もの投機が重役会議に掛けられずに行われて居る事実を如何に弁明されるのか?大きな損失が出れば背任行為ですし、百四十億の配当金の行方が釈然としない場合は、困った事に成ります、三田上、丸五、三田中、丸二、丸六の五社の責任者が承知の上で購入した様ですし、役員達の地位濫用としか云い様が有りませんな」
「未収扱いも説明の付かない金額が有ります、資材購入費も売掛に対してバランスが取れていません、営業利益はどう成って居ますか…バランスシートを見せて頂けますか?社長はご覧に成った事がお有りなのですか」

どう云う事に成って居るのか、バランスシートを見る必要が有る、公認会計士は見過ごして居るのか?光一は佐々の顔を訴える様に見た、佐々は暫く彼らの答えを訊きたく光一を黙視した、が誰も何も云わなかった。
佐々は二代目達を見渡し静かな口調で言った。
「あれこれ考えたのだが、詮索すれば何かと不都合な結果が出ないとも限らん、二千億の証券購入は三田一族全員の私財を投げ打ってでも買い上げて貰わねば困る、当然足りない事は失礼だが分る」
三田中一社長は観念して居た様で力無く、
「私財提供は覚悟の上だが、今は未だ証券の額面割れは起きて居ない、余り神経質に成るのもどうかと思う…が、然し額が額だけに処理には困り果てて居る、其れに走り過ぎた事は認める」
佐々は鋭い眼差しを十人の一族に向け毅然(きぜん)と言い渡した。

「簿外扱いも有ると聞いて居る、株式会社を私物化された事、株式会社の意義が、御曹司の皆さんには、ご理解されて居な様ですなあ」
「独断で行った事は申し訳無い、私とした事が面目ない、今後、迷惑を掛ける結果に成れば、社に預けて有る三田グループの株は未来銀行に売却をして、万が一額面割れを起こした時には目減り分の足しにして貰えないかね」
流石に一社長は先を読んで居るのか、多額の現金が必要と成る時期が来る事を予感して居る様で神妙に頭を下げた。
「既に小田さんからその件で要請が来ている然し小田さんからの担保金は貸出総額の三割五分を云って来て居る」
「矢張りそうか?」
「八百億を提示して来て居る、詰まり五百億不足だと云う事だ、其れに売却すれば貴方々一族は三田コンツェルに対しての全ての権限は無く成る事となる」
佐々は憐れみを顔に表わし一(はじめ)社長の顔を見て静かに一族との別れを宣言した。
清三は佐々の言葉を引き継ぐように柔らかく云った。

「云いにくい事から申します、先ず今泉は首謀者とは云い難い立場ですが、彼には責任を取って貰いました、こんな事が外部に漏れでもしたなら会社の信用は丸潰れに成り、社会的に問われるでしょう。貴方々には責任上、ご隠居頂くより方法が有りません、三田一氏三田陽一氏三田勤氏三田譲氏三田吉平氏三田平蔵氏三田忠治氏には職を辞して頂きます。会社も三田上、丸六、三田中、丸二の四社を合併して株式会社三田上と改め三田の名前は残します、今回の不祥事を我ら外様が命を賭して解決致します、無論正常の業務も今迄通り行う。他の丸五、丸一、丸三、三田の四社は三田商事を柱に持ち株会を立ち上げます」
「では今泉は既に退職して居るのか?」
「先に申した通り彼は背任横領の角で懲戒免職としました、何しろ彼個人で投資額が五億と膨大な金額が判明、インサイダーにも抵触の可能性もあるでしょう、当然私財も投げ出して貰う、総家一族にも繰り返しますが、全て私財を投げ出して頂きます、背任よりましでしょう」
清三は冷酷で最後の言葉を少し投げ遣りに言った。
「だが我々の生活が?」
普段温厚な清三が今迄とは違い、珍しく強い口調で喋り始めた。
「二千三百億円は信じられない大変な巨額の流用です、其れも全額借入れです、時間が解決して呉れるだろうと云う考えは甘過ぎます、貴方々の事より、間近に迫って居る今期の決算をどう乗り切るかを考えた事がお有か?」
清三は緩める事も無く今田に詰問した、
「四半期毎の決算は?」
「飛ばします」
「各社、日毎に移動して……」
「待った、簿外にするには大き過ぎる、隠し切れるか?」
「全社の役員で仮払い処理をして頂ければ何とか成るのでは無いでしょうか」

「愚かな…狂った行為だ、誰も納得しないでしょう、一つ間違えば全員が背任横領です、其れがマスコミに知れれば会社は潰れる」
「でも現物が有ります、配当金も一部入金されています」
清三と今田の会話はそこで途切れた。
三田上は納得いかない頑(かたく)な(な)表情で最後の足掻(あが)きで佐々に詰め寄った。
「私欲の為に脱線した分けでは無い、何とか成らんのか」
「何度も申している様に二千三百億もの金を貴方達が独断で借り、証券を購入した事が問題なのだ、其れも日毎目減りしつつ有ると云う?第一そんな巨額の偽装を考える事すら狂って居るとしか思えない、不可能だと思う」
「狂って居るとは失敬な言葉を慎み給え」

一(はじめ)社長氏の怒りの言葉に三田一族は我に返った様に、いきり立った、
「我々は会社の利益に成ると思い実行したのであって罵倒に等しい屈辱を受けるのは耐え難い、謝罪して貰いたい」
陽一社長は鋭く清三を睨み付け云った、厭な空気が流れ一瞬沈黙の時が生じた、光一は一つ咳払いをして…
「私が発言しても宜しいでしょうか?」
佐々は待っていた様に光一に早く,と促す様に頷き右手を出した、
「うむ、君は青野専務の倅だね?聞こう」
「僭越ながら、私の知る限りには既に各社長方は部課長に、証券購入を打診されて居ます、悪い事に多額に名義を貸した者、購入した者達には昇進させ、優遇されて居る事実が有ります、其れは企業の組織に対する秩序の崩壊に繋がります、経営人としての資質の問題が新たに浮上してきます?…この事実に付いての行為の善悪はどの様にお考えですか?」
光一の言葉に逆らおうとした三田のお偉方は一言も無かった、佐々の思い通りにされ最後の足(あが)掻きを見せたが所詮は水泡に帰した。
三田一族は鋭い目で光一を睨み付けるのみで口を噤(つぐ)んでしまった。
佐々は腐り果てた三田一族に天誅を下すべきだと即座に決断した。

「決算も近い、時間が無い、やはり当初申した通り、三田上、三田中、丸二、丸六は合併する、これより四社合併の動議に移る、新会社名は三田丸商事として発足、社長は三田多門氏、副社長に仁氏専務守氏と智之氏を任命し、他の方は相談役として君臨して頂く、その代り簿外も表に出さず一切不問とする」
「では、先程、申しました様に新会社が全てを背負込む事と云う事かね」
「そう云う事に成ります、勿論簿外分が見合う額を担保として、ご一族の所有する当社の株を未来銀行に差出し、未来銀行の管理若しくは簿外分として買い取って貰います」
清三は冷たく強く云い渡した。
「諸先輩には何の権限も無い相談役、監査役で余生を送って下さい、其れにご出社には、お及びません、ゆっくりご静養下さい、新会社は三田丸商事株式会社と命名、社長以下幹部は三田の若様で一応三田家の対面を保ちます、何か御異存の有る方は仰って下さい」
「損失が出れば飽くまで三田の我々新会社で解決せよと云う事ですねえ?」

「そう、遣り甲斐が有るのでは…我々も協力するが、速急に解決案を出し、最終結果を纏める様に、繰り返すが今泉は既に解雇されて居る、相談の対象にはならない」
佐々の言葉に誰もが下を向いた侭頷いて居るのみである。佐々と清三は先の小田との解決策は話さずに彼等には総額二千三百億の金額で通して処分とした。

「先に申した様に三田ホールディングを設立して四社で持ち株会社を設立します、社長は青野清三氏、副社長内山菊之助氏太田伸介氏、専務取締役山之内信三氏、田沼雄一氏、丸一の社長は山本満男氏、専務本田京二郎氏、丸三の社長は清水亘氏、専務大川長一氏、丸五の社長川田久氏、専務瀬田三郎氏、これは飽くまで私の考えだ、依存が有れば申し立てて呉れ」
暫く無風の時が流れ重苦しい雰囲気の中一社長が力無く一族を代表して話し出した。
「もう決まって居たのだね、それでは老兵は消え行くのみ、覚悟をして持参した委任状、役職の辞表を提出して佐々会長に全てを委ね良策を期待して退席とする」
と、一族十一人は肩を落とし寂しく出て行った、三代目の哀れな姿で有る、何故か新社長達も自信無げに一族と共に出て行った。
佐々は冷めたお茶をゆっくり飲み外様と称する十一人を眺め話し出した。

「現在の購入額だが、各四社合わせて二千三百億と判明、其の内千百五十億は未来銀行に引き取らせた、残り千百五十億と、銀行に買わせた一族の持ち株三百億をサブプライムローン証券と交換、担保商品が変わるだけで千百五十億を銀行に支払う事に成って居る。
その当社の株は自社株買いとして買い取り消却、三百億円の一族の持つ当社の株の権利は自然消滅となる、未来の小田が云う様にサブプライムが一役買ってくれたと云う事だ。
未来銀行からの借入金は千百五十億で、今売れば約一割減の一千億億円前後に成ると云う事だ、新会社はサブプライムローンに付いては表面化する必要はない、其れに未来の小田君の顔もある、損失が出ても今は売却を慎まねば為らない、来期より少しずつ償却して行こう、今田君、いずれにしても暴落の恐れが有る、二か月の猶予を以って買い手が有れば売る様にしなさい、小田とよく相談する事だね」
「会長、上司に諂い(へつら)名義貸しをした者達や、証券を買った者は首に為さるのですか?」
「その積りだが」
「それは待った方がいいと思います」
「いいや又悪さをしでかすぞ」
「私はそうは思いません、彼等はせいぜい多くて一千万程度では無いでしょうか、その程度なら本人の自由、欲を出した為の損と諦めさせては如何でしょう、可なりの立場の人達ですから、退職金と比較計算すれば、黙って買い取った方が利口な位、気が付くでしょう」
「うむ、五社で二百人は居る様だな…十億か…其れに紙切れに成る事も無いからな」
「はい、レバレッジを掛けた証券で無ければ零にはならないと思います、それは確約できませんが二度と繰り返さないと思います、其れに売却は個人の責任で遣らせれば良いと思います」
佐々と清三は思い出した様に同じ様に湯のみに手を出し口に運んだ。
外様の十一人も気が抜けた様に久野が注いでくれたお茶を飲みながら言った。
「千百五十億円の現金をどうなさいますか?」
内山も心配そうな顔を向けた。
「サブプライム問題をどう見るかだね?」
「そうです、多分アメリカは先を案じて居ると思います」
「内山君もそう思うか、さすれば日本も大きな影響を受ける」
内山は外様の皆に云った。
「此れよりサブプライム問題に付いて調査を出来るだけ詳細に、アメリカの友人知人を通じて行なって呉れ」
佐々も頷き云った。
「当社の危機存亡に拘わる事態だ、頼む」
佐々にしては珍しく低姿勢で十人の皆に熱い視線を送った。
会長室を出ようとする青野と光一に佐々は声を掛けた。
「青さん、光一、訊きたい事が有る、済まないが残って呉れ」
光一は佐々直々の呼び出しで有ったに拘わらず、此れで退席するには物頼りなさを感じて居たので、呼びとめられて自分と会長と腹の据わった話が出来る気がした。
「光一、何か云いたそうだが?聞こうか?」
「はい、会長、大川さんの指導の元に株式売買をされるのでしょうか?どうなさいます?」
「うむ、そうさなあ…株の売買か?」
佐々は清三の顔を見て頸を傾げた。
「はい、私でしたら今ナイスウエルの空売りを致します、先ず損失は生じないと思います」
佐々は即座に光一に訊ねた。
「今の相場はいくらだ」
「十一万三千三百円かと…」
「青さんどう思う」
「はい、私も遣るなら株で勝負かと思います」
佐々は清三のOK サインが欲しいだけで彼の言葉が終わると同時に光一に云った。
「よし、取り敢えず三田商事の名義で始め様青野光一君、野川証券にカラ売り注文を出しなさい」
清三も佐々と同じ気持ちで光一の目を見た。「光一連絡を…」

清三は内心此の程度から始めれば初心者としてのミスは小さくて済む、株売買の手解きに成る、何故か光一からテレパシーと云うか神がかり的な確信が清三の目に伝わって来た。電話の向こうで野川証券の水野昭夫が甲高い声を上げ驚いた様に…
「矢張り初めから売りから遣るのですね、分りました、ナイスウエルを買い手の全てにカラ売りですね、……何、明日も…ですか?」
「そう、向こう十日間,こちらから好いと云う迄売り続けて呉れませんか」
「はい、商いとしては少ないですが売りましょう」
十分程経って水野から連絡が来た。
「二万株十一万五千円で売れました、現在値は十一万六千円ですがどうしましょう」
「売って下さい,買いがいくら有っても全て空売りをして下さい」
「分りました」
光一は清三と会長の顔を見て、
「二万五千株売りました…が売値より四千円高くなりました」
「構わず売れ、あんな法律、擦れ擦れの経営をしている会社を上場させて居る東証が可笑しい品位を疑われる、売り売りで売りまくれ」
佐々自身、過去の自分とは程遠い賭博師の心境に成って居た。
「はい」
「光一君は良い所に目を付けた、相場の損は相場でと云う諺が有る、他に候補は有るか?」
「はい、未来銀行です、メガバンクは商い額が大きく、大川さんのアドバイス通り売って良いと思います、サブプライム証券化商品に必ず拘わって居るのは間違い有りません。日本のメガバンクとしての知り合いも有るでしょう…と推測します」
「うむ、金融関係は先ず拘わって居る事は間違いない、今幾らか?」
「はい、三陽が百五十万円前後と思われます」
その時野川証券の水野から電話が光一に掛って来た、可なり上ずった声は受話器を通して部屋中に聞こえた。
「メガバンク三行も売りましょう、実は内も少々ですが購入して居ます…が内の株は売らないで下さい、私の首が飛びます」
佐々は甲高い水野の声を聞きながら苦笑した。「未来を始めメガ三行を成りいきで売って下さい」
「分りました、電話は此の侭切らないで下さい、……光一さん売れました未来銀行五万株、はい八十七万円、続いて五井銀行百二十万円で五万株」
水野の声のトーンが益々高く大きく聞こえて来た。
「三陽銀行百五十二万で五万株を売れました」清三は光一の横合いから興奮して,清三にしては珍しくいきり立って、電話の向こうの水野に叫ぶ様な声を出した。
「明日も知らせてくれ、」
二百でも三百でも全て売り捲くって本当にいいのか清三は流石に顔面蒼白に成って佐々の顔色を見た、今日だけで百八十億売った事に成る、佐々も両手の指を折り曲げ唇を噛んだ。
「会長、光一の言葉に間違いは無いと思いますが少し拙速過ぎた気がします?こんなに慌てなくても良いのでは無いかと後悔して居ますが?取り返しの付かない結果に成らないとも限りません」
「構わん、僕が責任を取る、明日も全て空売りでなあ、現金は取り敢えず二百億円送金しなさい、水野も心配して居るだろう」
「はい只今、指示を致します」
青野の指示に財務の今田成夫常務が驚き再び会長室に飛んで来た。
彼は真っ赤な顔で天地がひっくり変える様な凄まじい勢いで敬語こそ使って居るが、佐々に捲くし立てた。…
「会長,如何なされました、二百億もの金を証券会社に送金為さるなんて…前代未問です万が一損失に成れば如何されるお積りですか」
佐々は今田を睨みつけ云った。
「今田君博打の損は博打だろう、三田中、三田上の穴は表に出さずに何とかしなければならん、今更彼等に賭博の勇気も無いであろう、さりとて君も責任が無い分けでも無い、今泉に多額の融通をしたのは君だから、会長の私に何故耳打ちをしなかったのだ、当然、君は彼等と一蓮托生だ…責任上、君も私財を投げ出す覚悟は有るのか?」

「はい、それは…其の理屈はそうですが、私は何度か今泉氏には忠告は致しました、でもその…彼の押しには敵いませんでした、私は言い訳をするのでは無いですが天地神明に誓って私服を肥やす事はしていません」
「でも酒や飯は随分と馳走に成ったのでは無いのかね、訊く処に依ると車代の恩恵は有ったと訊くが?違うかね」
「ですが私財を投げ出す程の事では有りません……今考えますと会長の仰る通りです」
今田は泣きべそをかかんばかり哀願をした。

「資材の件はこちらで決める事、君を今更責める積りは無いが間違えば御曹司は今泉に、今泉は君に責任を転嫁、転嫁された財務部長は屋上から飛び降り自殺、こんなシナリオは無かったのか?考えて見た事が有るのかい、一つの命を亡くしたと思えば此処は一番、男の勝負といこうじゃ無いか私も切腹の覚悟だ、青野君も内山君も命懸けで同意して呉れて居る、文字通り排水の陣だ、それに君や彼等の私財で片が付く金額では無い、桁違いで雀の涙にも成らない、君にも其のくらいは分かるだろう、如何程に成る、サラリーマンなら誰だって…私だってそうだ、其れこそ一蓮托生死ねば諸共さ…」

「はい、金額が大き過ぎますからね、分りました…私も覚悟を決め遣れるだけ遣り会長のお供を致します、送金額が多額ですので、私が血迷い驚きましたが選ばれた銘柄に間違いは無さそうです」
間もなく振り込まれたので有ろう確認の電話が水野から掛って来た。

「お振込み有難う御座います、ナイスウエイが十万五千,いや十万二千円に下がりました、未来は八十七万八千で八万株売れました、…ああ、七千で千株売れました、大引けです未来銀行は八十万七千円ナイスウエイが十万二千円です、三陽は指値通り百五十二万で三万株五井が百二十万で売れました、引けは同じです…明日も続けますか?」

「明日も売って下さい、其れから朝の五分前の板を必ず知らせて下さい」
「はい、分りました、でも金額が大き過ぎます、御社系列総掛りで遣られては如何でしょう中堅を入れれば五十社以上有るでは無いですか、買い戻す時に処理しやすいです」
「そうか……株屋と間違われると云う訳か?」「御社と弊社だけに特に提灯屋が多く、同じ動きをされても厄介です」
「そうか手口がばれては厄介…今田君系列の社長、財務部長に名義貸しを依頼しなさい」
清三は今田に急ぎの○秘事項として伝達する様に指示した。
「では電話で了解を取ります」
「水野君了解が取れ次第数十億前後、少しばらつかせて振り込ませる、此の電話は切らずに此の侭にして呉れ」
「分りました順じその名義で振り込ませます」
「旧三田上商会、丸六商会、丸五商会、三田中商会、丸一商会、丸二商会、丸三商会、三田商事、三田丸商事、三田ホールディング、取り敢えず十社です、これらは私の監視下に有ります」
暫く緊張した空気の中会長は右手を首に当て、
「お訊きの通りだ、五十億を五店から直ちに送金させる、社長名も同時にフアックスさせる、手配りを宜しく…」
「分りました取り敢えず御社と持ち合って居る株を担保にして売り捲ります、書類は明日持って行きます、現金の送金は宜しくお頼み致します」
水野は慌ただしく電話を切った。
佐々は沈痛な面持ちで清三と今田を見て…
「やり損なうと此れだ…三田一族の事を云っては居られない、青ちゃん死ねば諸共覚悟を仕様や、今田君もそうだぞ」
「ええ、分かって居ります」
「三陽、五井はもっと売っていいと思います三陽銀行は分割を発表していますが不正貸し付けでお叱りを受けると訊いています、それに地合いが良くないです、株価の崩れる前触れでしょう」
「光一は思ったより強気だねえ、今日一日で二百億以上売ったのだよ…全く怖いもの知らずだ、会長、余り調子に載せないで下さい」
「サブプライムの問題は欧州、イギリスにも波及し出した様です、特にイギリスは住宅バブルの崩壊が始まったようです、未だ具体的な数字は出て居ませんが、時間の問題で可なり大きな数字に成るとの事です」
水野から又電話が掛って来た、今日は可なり慌てて興奮して居た。
「十社全ての口座を作りました、明日から大きく出られます、有難う御座いました」
「窓口は全て秘書の青野光一が担当する、彼の指示通りに行なって呉れ」
「はい、分りました」
水野の電話が切れた処で、改めて佐々の顔に目を向け隠しきれない不安に苛まれた、電話で数分間の会話で数百億の売買が成立すると云う馴れない取引に受話器を置くと同時に底知れない恐怖が全身に走る。其の場の誰もが疲労の色濃く無表情で持ち場に帰って行った。
光一も無言の空気に耐え切れず、会話らしい会話の無かった父と話がしたくなった。
「今夜は忙しいですか?」
「いいや、家に帰るだけだ、来るか?」
「ええ、今夜は泊めて頂くかなあ」
「莫迦、お前の家じゃないか妙な遠慮をするでない義母さんも喜ぶ、何か作らせておこう」「帰宅は何時ですか?」
「デスクに居るかい?電話をする」
父は妙に機嫌がよく重い父の口が何時になく軽やかに聞えた。
「エリナに一緒に行っては、貰えませんか?」
「こいつ…のろけたいのか」
清三はにやにやしながら光一を眺め、一日で二百億以上の博打を打ったのだから精神的に参って居るだろう、少し労わって遣るのも一人住まいの光一に必要な気がした。
「うん、行って見様…会長の娘さんをお前の嫁として見るのも私の務めだ」
「父に結婚の話が通じていないのでは…と寂しがって居ます?」
「うむ、中々の才女と訊く、お前に相応しいかどうか視点を変え話して見るか」
「では、私は先に行って待って居ます」
「光一、此れは一本取られたなあ、中々手回しの良い事で…良いだろう仕事が終わり次第エリナに寄るよ」
光一は父の少しおどけた言い回しと最後の言葉の…寄る…と云った言葉に他人事の様な冷たさと、茶化されて居る気がした。

会長の娘と云う事で、父親としての出番の無さと、批判処か断る事の出来ない事の事実に、今更会って見てもどう成る物でも無い、本人とは何度もエリナで会っており清三は江里子に対しては知って居る筈である、今更と云うお座成りな感じを受けた、父と云うより専務と云う役柄として顔を出す…息子の嫁として見る事が出来ない辛さも有るのだろう無論悪い娘では無いが会長の娘と云う重みは、父を不自由な立場に追い込んでいる事は確かだ。
光一は腕時計を見て少し早いと思ったが、久し振りに仕事が早く切り上がり六時に会社を後にした。
光一は通りを渡り少し歩いた処に有る蕎麦屋の店先から、蕎麦だれを仕込んで居るのであろう、いい匂いが漂っていた光一は腕時計の時間を確かめ、誘われる様に空腹も手伝い暖簾を潜った。
半端な時間帯の性か客は二人ずれの一組だけで有った。
光一は客を意識しないで二人連れの男の後ろの席に座った。
訊き覚えのある声が耳に入って来た、多門新社長と智之専務が蕎麦を食べて居たのだ。

「智さん会社を任されたが、三田商事の負債まで背負わされて終った…叔父貴達に正確な数字を訊き直さないと処理の仕様が無い様に思える、あの数字は事実かねえ…とんでもない数字が有るでは無いか?あの金額でも手に負えないと思うのに、他に未だ有るのでは無いだろうね」
「多門兄さんは社長を辞退したいのでは無いのでは無いですか…」
「うん、正直逃げたいよ、少なく見ても二千三百億は下らないと云って居たでは無いか?会長の話だと千百五十億にしたそうだが未来銀行の小田さんが半分にしたって信じられん」
「銀行が数時間で千億もの証券を引き取るだろうか?多門兄さんは社長職を受けるの?」
「青野光一とか云う若造がたいそうな事を云って居たが、新会社に来ないのだから、責任の擦(なす)り様が無い、奴が来れば責任を被せる事も考えるのだがね」
「株を持ち出し全部売り払うか?」
「うん、今売れば四社のサブプライムの問題は表面化して居ないから、時価で計算すれば三百億以上にはなる」
「一律千二百円としてか…悪くはない、然し一族の持ち株は全部財務部預かりに成って居るらしい、売る事は出来ないよ、」
「三百二、三十億にはなるのでは、最も二十四人の名義で持って居るがねえ」
「礼の証券はぼつぼつ損失が出て居るらしい、知る処によると、会長が云って居た千億の内百二十億は飛んでいるらしい、簿外を入れての事らしいが、十パーセント以上目減りして居ると今田部長が云って居た」
「噂では一年以内に紙切れとは云わないが半分以下に成るって話だ、伯父貴達も功を焦り過ぎた様だ、先が見え無いね」
「我々の持ち株三十万株だけでも明日売って置くか」
「担保にして信用の空売りをするって云うのはどうかなあ?」
光一は怒鳴りたい気持を抑え、…ハンカチで口と鼻を隠して、二人の席に行き会釈してご忠告と題したメモをテーブルの上に置いた。
「お読みください」
其れだけ云って二人のテーブルから素早く離れ店を後にした。
光一は彼等の愚かさに怒りを感じた、もし証券関係者の耳に入ったならば…と、背筋が寒くなった三田一族のお坊ちゃん育ちには、これから何を遣らかすか目が離せないとも同時に思った。
驚いた二人は、恐る恐るメモを開いた。
「貴方々の座って居る席の後ろに偶然座り話を聞きました、もし,今云われた様に株を売却すればインサイダーに成ります、罰金は当然貴方達に課せられるでしょう、会社は東証から上場廃止と成り信用はがた落ちになります、
貴方達は実刑と罰金背任罪に問われ、刑に服さねば成りません…余り幼稚な考えはされない方が宜しいのでは無いかと思います、其れに一族の持ち株は既に全て担保に入って居ます、壁に耳有り目有りです、お立場上お慎み下さい、マスコミの餌食に成られない様にご忠告」
読み終わった二人は慌てて玄関に目を遣ったが、内容の辛辣さに一瞬呆然として仕舞、光一の姿が誰であるかも見当てる術も無く、目が点に成って居た。
「誰だ…今の奴は…」
「うん…社の人間には違いないが…」
キョロキョロ辺りを見回し繰り返した。
「声に聞き覚えが有る、若いなあ…青野……」
「青野の倅?気味が悪い、此処を出よう」
「うん、光一か?」
二人はそそくさと蕎麦屋を出て、何処に行く当ても無く歩き出した。
光一は江里子のマンションにも暫く行って居なかった、当然エリナへも御無沙汰で彼女とも逢って居ない、久し振りにエリナのドアーを開け店に入ると飛びつく様にチー子が抱きついて来た。
「いらっしゃい、暫く振りですわ、ご出張?」
「いやそうでは無いんだが、野暮用で御無沙汰しちゃって……」
光一はチー子の歓待振りに戸惑いながら、「チーちゃんは僕の事をマジに心配して呉れて居たの?」
「そりゃそうですよ、金曜日の男が来ないから、皆ご結婚かしらって噂をしていたの」
「結婚?…それなら相手はチーちゃん、貴女が花嫁でしょう」
「まあ嬉しい、本気にするわよ」
光一は笑いながら江里子に視線を送った、チー子とボックス席に座って十分程して、光一とチー子が並んで座って居る前に、
「お邪摩かしら…」
と、恍(とぼ)けて座った。
「暫くねえ…どちらかにご出張でしたの?」
「そうでは無いが、何かと野暮用が多くて下端のぺいぺいは辛いよ」
その時父の清三がエリナのドアーを押し入って来た、目敏くママが見て、弾かれる様に立ち上がり固まって終った。
「親父だ…」
と光一は玄関迄迎えに行った。
江里子は、我に返った様に慌てて光一の後に続いた。
「光一、待たせたなあ…」
「いえ、少し腹ごしらえをして来ましたからつい先程来たばかりです」
「いらっしゃいませ」
江里子は普段の様子に戻り二人を光一が据わって居た元の席に案内をした。
「やあ、変りは無いね、何時もお美しい…」「まあ、親子して今夜はお世辞ですか?…」光一は照れ臭さそうに、江里子が折角、親子と云って呉れたのに光一は真面目に、それも今日、三田HDの社長に就任した父なのに…
「専務は江里子さんと親しいので?…」
と云って終った。
「ええ、会長と何度かお越し頂いたわ…」
「そうだなあ今日で五回目かなあ」
「誤解を招かない為の,五回目…ですか?」
「下手な洒落だ…光一、もう少し美味い言葉が云へないのか?…」
江里子はこの場を繕う適当な言葉が見付からなかった、こう云う時は只、笑って相槌を打つに限る、グラスにブランデーを注ぎ持ち上げた、江里子は店の娘達を集め華やかに笑みを浮かべた…、
「さあ皆さん青野専務さんは今日社長にご就任されました…お祝の言葉と乾杯をしましょう…ご就任おめでとうございます」
幸い時間が早いので未だ誰も客は居ない、清三は素直に喜びを表し、立ち上がり気持ち首を垂れて、グラスを上げた。
「乾杯」「乾杯」
五人のホステスも光一の席に呼ばれ賑々しく乾杯と御祝いの言葉が店中にいき交った。
「それにしても早いなあ、ママはどうして社長就任を知ったのかね」
「会長です、先程お電話が有り多分青さんが行くと思うから、社長就任祝いとして会長に付けて置く様にと連絡が御座いました」
「そうでしたか,まさか光一が喋るほど軽率では無いと思ったが、会長でしたか?」
「今夜は大いに頂きましょう…」
たった二人の客で余り広くも無い部屋は若い女の子の声で華やかな部屋に一変していった、
一分もしない内に五人の女の子は光一を囲み清三は江里子と二人にされて終った。
「江里子さん、貴女に光一の事で少し伺って良いかなあ?」
「はい」
短く返事をした江里子は、覚悟していた事で、一度は通らねば成らない道と思いつつ、光一の父に今夜は夜の社会に住む女として店のママの顔と普通の娘、佐々正二の娘を演じなくては成らないと思った。
表と裏の表現が適切かどうかは兎も角、その狭間に居る自分を感じながら、取り敢えず二人の現状を伝え、光一より年長で有る以上謝罪しなければと焦った。

「聞く処によると光一が貴女の、お住い迄押しかけて、ご迷惑を掛けて居るそうで親として恥ずかしいです、どうかお許し下さい」
江里子は立場上自分が光一を誘惑したと思っていた。光一が誤解されては気の毒に思い…二人の成り染めを話さねばと思った。
江里子は光一との出会いから此処に至るまでを思い浮かべ言葉を探した、が光一の父に先を越された思いで…恥ずかしさが込み上げ顔を只赤らめるのみで清三の顔を眺めた…。
「済みません……」
ついぞ忘れて居た謝罪の言葉が素直に出た。

「初めて店に光一さんが来られてから二年程に成ります、若いお客様の少ない此の店では、失礼ですが場違いと思いました…それに殿方には警戒心が先に立ち恋心を感じるより、警戒心が先立ちました。殿方相手の商売を致して居りますが、私はご存じと思いますが、父の生活を反面教師として生娘でいる事が、父に対するせめてもの反抗でした。弁解では無く態々夜の商売に走ったのも、心配させるのが目的でした、それが光一さんとの出会いでも有り、光一さんが店に来られる回数と其の時間が愛を芽生えさせて呉れました。
真実の愛は人間の真心と成り、男が何であるかを教えて呉れます、私の人生への全ての考えが一変しました」
「どんな風に変わりましたか?」

「男の人は強いし頼れます、父の偉さを教えて頂きました、私の才能は全て父に教育されたものです。でもそれを何一つ生かして居ません、夜の商売が悪いと云うのでは有りませんが、夜の商売は露骨に男と女が武者ぶり合う姿が当然の様に見せ付けられる世界です。元来、水商売を遣らなくても良い様に父は育てて呉れて居ます、父のお陰でフランス語と英語はどうにか通用して居る様ですし、翻訳や翻訳をアレンジした本を書く仕事も好きです、出来ればそう言った方向に進みたいと思うのですが踏ん切りが付きません…でも何時も考えて居ます」
清三は微笑みながら頷き訊いて居た。
「貴女は聡明で居られる、大人達を安心挿せる事もお上手だ、光一の方が未だ子供です、手を貸して遣って下さい」

江里子は清三の卒の無い、佐々正二会長の影を背負いながらの言葉に失望を覚えた。
江里子は清三に世辞では無く、倅の嫁に成る娘として、普通の町娘様に接する様に厳しい言葉が欲しかった、姉さん女房に成る自分を少しでも辛口な言葉で評して欲しいと思った。義父の立場で人生の苦言が訊きたかった、今なら自分は大学を出た当時の無垢な気持ちに成れる気がして居た。義父と成る清三なら、父と同じ言葉でも素直に訊ける、もう一度冷静に自分を見直す事も出来る気がして居た。

人間は反省に依り何れの方向にも善悪の真偽を問わず進化する、銀座のバーのママを忘れ、一つ年上の姉さん女房としての角も素直に取りたかった、心身共に江里子は白無垢を着た花嫁に成りたいと思って居た…世間の垢、夜の蝶の鱗粉(りんぷん)を捨てたいのであった。

実父には甘く育てられ、負い目も有り叱られた事が無いだけに義父の口から江里子に取って身が締まる言葉が訊きたかった…滲み付いた水商売の濁りを洗い流し、自分で己を自戒する余裕は持って居る積もりでも、父以外の人から厳しい人生への重しが欲しいので有る。
普通の娘に戻りたい気持が、年齢と夜の社会に生きてきたリスクは批判と云う言葉で受け止めるしか無い、明日から普通の家庭の主婦に納まる事に抵抗が無いと云えば嘘に成る。佐々の娘と夜の蝶のギャップを埋めるには、父と同じ環境を作り子供達に負い目を持って居る清三で有っても、義父と成る人の言葉なら苦言で有っても良き強弁として受け入れられる…より生まれ変われる気がしていた…さすれば二人の結婚は、周囲の人達から誠の門出として祝福して貰えるだろう。
佐々の娘を意識した義父に対する物頼りなさを素直に義父の労わりと解釈するべきなのだろう。十年前に母と死別して実父は継母に取られ、孤児(みなしご)同然外国に追いやられ大人になった江里子は、光一の父、清三を自分の父と比較し様とした己の誤りに気付かされた。
父との違いを見(みいだ)出し、新たな父の姿を清三に求め様とした愚かさを恥じた。
今の父と義母は娘の眼から見れば他人より遠く、義母とは水と油の存在なのだ、生まれ育った家までが馴染め無くなって居る、父と女、父と後妻ではどうしても攻撃的に成る…
対娘…対倅では互いの親は許す、許せないと他人事として言葉が変わる、其れが特に女同志では常に闘争心がむき出しと成る。
清三も正二も同じ環境の中に住んで居る筈だが、江里子には光一を通じ清三の人柄が好きに思へる、矢張り隣の芝生は青く見へる。
g「貴女の様な娘さんが光一のお嫁さんに成って頂けるのですねえ」
此の言葉にも青野清三の厳しい重圧は江里子には何も感じられない。
「はい、不束ですが宜しくお願い致します」
「いいや、此方こそ光一を宜しくお願いします、近い内に会長と四人で食事でも致しましょう、早々に段取りを考へます、今日は色々有りまして疲れて居ます、今夜は久し振りに光一を、我が家へ連れて帰る積りです」
江里子は清三から許しを得た事に満足した。「はい、私も一日も早く此の店を誰かに譲ります、こんな調子で商売を挿せて頂いて居ますが、少々ですが黒字で赤字に成った事が有りません、父や皆様のお陰と感謝して居ます」
清三は考えて居たより謙虚で、江里子の今の生活が少し違う事に気付き、抜け出したいと思って居る事に好感を持った。
外国迄行き他人の中で苦労してきた事が、全て身に成って居ると思え佐々会長の娘が気に入った。清三は心の中で光一の奴、いい嫁を射止めた、長男の一郎より好い人生を過ごすだろう…清三は今の会話で江里子の人間性が覗けた気がした。
「光一、明日も有る今夜は失礼仕様」
光一は会話の時間が短いので、拗(こじ)れたのではと心配顔で父の顔を見た、光一も二人の会話の内容が気に成り、父の言葉通り帰る事にした。階下まで江里子は送って来た。この社会の男女の別れにしては時間的にも三人は妙に丁寧なお辞儀をして別れた。
江里子は「久し振りなのに今夜も光一は来ないのだ」と独り言を云いながら二人の姿が角を曲がる迄、ぼんやり立って居た身体から力が抜けて行く雑落感は拭へ無かった。


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