翌日、佐々正二会長は青野清三専務に面会を求めた。青野清三は昨夜、光一が江里子を伴い学芸大の自宅に婚約の報告に来たので、其の事で呼ばれたと思った。 清三は報告を受けた時、光一と江里子の馴れ初めが銀座のエリナで出会った事に安堵した。清三も何度かエリナに行って江里子は知って居た、だが会長の娘である事は知らなかった。寧ろ光一と同様に会長がスポンサー、詰まり後ろ盾だと思って居た、清三は気短な会長に「俺の大事な娘を遣れるか…」 と、あの大きな地声で一喝される覚悟で会長室のドアーをノックした。 「お早うございます」 佐々は上機嫌で立ち上がり清三を迎え入れた。 「早くから済まないねえ、お互い忙しい身体だから用件から話す、既に青さんも聞き及んで居ると思うが、光一君と江里子の件だが、我が家に二人して昨日、遣って来てね。 「許し」と云うより結婚をするから宜しくと、事後報告をされてねえ」 「はあ、会長宅に伺った日の夜に学芸大の家に二人揃ってやって来ました、会長が仰る様に私の意見を挟む余地なく結果だけの報告を受けました」 「そうか、初めは私も光一君が君の倅さんとは知らされずに話をしていたが、優しさの中に気骨が有り肝が据わって居る、今風の若者にしては礼儀が有り話しに隠し立てが無く、真直ぐなのが気に入ってね…、話を交わして居る内に憤りが消え、頼もしさを感じさせられ私が惚れ込んで終った」 「寛大な会長のお心のお陰です」
佐々が清三を青野君と呼ばず「青さん」と呼ぶ時は機嫌の好い証拠だ。 「何だか気分が良く成り、二人に祝福を送る羽目に成った、それに面影が何処となく君に似て居るのに気が付き、まさかと思いながら父の名を聞いて驚いたよ、君の息子さんでは無いか、青さんの倅さんじゃ反対する理由はない、寧ろ良くぞ選んでくれたと褒めたい気分だ、光一君は、青さん流石に立派な駿馬に育っている、私も大いに気に入ったね」 「お恥ずかしい限りです、厚かましくも会長のお嬢様にプロポーズするなんて、身の程を弁(わきま)えない、猪突猛進で気が強く恐縮致しております、如何(いか)に処しましょうか?」 「あはは…如何に処すってどうすれば良いのだ、私の娘では年上で御気に召さないか?」 「いいえ、江里子様の様に美しい方を滅相もございません、それに光一がお嬢様に、ぞっこん参って居る様です」 「それなら話は早い、江里子もご同様で父上が反対なさるのでは?と気にしており、君さえ賛成して呉れれば我々大人が段取りをして遣るだけだ」 「はい、有り難い事です、然し今はサブプライムの問題で一社員のプライベート等に拘わって居る時では無いと思いますが?」
「いや、そうなのだ、プライベートとは別に、と云いたいのだが、事は急を要するので実は其の事でも君に来て貰ったのだ、噂だけだが事実なら困った事を仕出かして呉れた、当然人伝てなので噂に過ぎないと云う事も有る。当然正確な数字は皆目知らして来る者も居ないから、見当も付かず知る由も無い、壱千億だの二千億と途方も無い数字が飛び交って居る事は確かだ。私が考えるに一千億以上の博打は、彼らも遣らないだろうと思うが如(どう)何にも私には解決する方法が頭に浮かんでこない、一族の若様は次々悩み事を考え遣らかして呉れる、困ったものだ」 「はい…何でも、それは今泉社長から進められたと伺って居ます、一年程前の事で当時も私は無視され歯牙にも掛けられませんでした、何かこそこそ遣って居る様子でしたが、会長がお聴きに成られた金高が事実であれば資金運用課でも創設しての話でなければ社の規則違反に成ります。途方も無い博打を遣って居るとは考えられない事です、当社には其の様なセクションは有りませんから、私も当時、彼等をグループの役員としての常識を信じ余計な詮索はしませんでした」 「そんな素振りが有ったのか?と云って子供を叱る様な真似は出来無いよね、何を考えて居るのだろう彼等は?」、
「昨日、一郎が心配顔で言って居ました、今年の一月半ばに今泉社長と畑俊二常務が深刻な顔で話して居たと云うので、問い詰めた処、大いした事では無いと云って、言葉を濁したそうで、トップ同士の会話なので其れ以上問い質せなかったと云って居ましたが,昨年暮れから可なりの金額に成って仕舞い、最早隠し事では済まされなく成って来た様です」 「うん、未来銀行との付き合いだと云って居る様だが、概要の報告すら持って来ない」 佐々や清三の外様役員には投機を行なって居る事は知らされて居なかった。 「光一の申しますには、時が経つに攣れ可なりの損失に達して行く模様で、系列の何社かを吸収合併をするなり、持ち株会社を設立、仮称ですが三田HF(ホールデェング)を立ち上げ、負債の分散、詰まり身うち内での飛ばしで四半期毎の決算を凌ぐしか無いのでは、と云って居ました」 「何、其処迄しなければ為らない程大きな額に成って居るのか?」 佐々は光一の顔を思い浮かべ意味有り気に薄ら笑いをした。 「ふふ…ふ…云うねえ、光一青年は彼に会いたいが?丸三の内山君と今泉は余り仲が良く無かったね、山内君と光一の二人を至急呼んで貰えないか?」 「私で良ければ連絡して見ますが」 「うん、但し成るべく人目に立たない様に来てくれと云って呉れ」 清三は頷き、丸三の内山に連絡をした。 「青野専務、調度良かった、今お電話を差し上げるところでした」 「何か厄介な相談でも持ち込まれましたか?」清三は山内もサブプライムの問題を持ち込まれたのだろうと察しが付いた。 「実は今泉社長から住宅ファンドの証券に投資をしては?と相談を受けました…」 清三は今泉の狡猾な癖のある顔が肩代わりでも云って来たのであろうと… 「そうですか、受取手形か商品の不足ですか、其れとも其れ以外の難題ですか?」 清三は内山を少し焦らす様に余計な問い掛けを、周りくどくゆっくり問うて見た。 「ええ…まあ…仕事の事では無いのです」 「仕事以外と申されますと女性関係ですね?」 内山は酷く慌てて否定した。 「とんでもない私に限ってそんな不祥事は有りません、そちらに伺って話します」 「今、私は会長室に居ます、其れでは私の用件から申します」 「はあ…緊急の様ですね?」 「会長が貴方に至急、お目に掛かりたいと仰って居ます…」 「会長が私に?…ですか」 「ええ、お越し願えないかと……」 「お急ぎの様ですね、今も申しました様に私もご相談したい事が有ります、此れから急いで伺います」 「誠に申し訳無いのですが、お越しの節に私の倅光一を同道下さる様にと仰せです」 「青野光一君ですね、分りました、全てをキャンセルして直ぐに伺います、十一時には其方に伺えるでしょう、お伝えください」 「では、お待ち致します」 清三は遠慮勝ちに佐々の顔を見て… 「一郎も呼ぶのでしょうか?」 「そうだ、三田系列の若返りを図るのだ、今泉にしても七十二だろう、只、三田中の番頭と云うだけで商事の社長を遣らせて居るが能力は買って居ない、サブプライムの問題も彼のパホーマンスと思われる、其れも彼の目違いで大損害を蒙ると予想されて居るのでは捨て置けない、此の際創立者一族には遠慮して貰おうでは無いか」 清三は佐々の腹の内が一瞬で読めた。何かと小うるさい三田一族の二代目三代目の一人よがりで大株主としての横柄な態度、グループ内での秩序マナーの悪さは全て会社にマイナスに成り、社長、役員としての資質を疑われ外様役員は困惑しているのが実情である。 光一は内山社長に青野専務と佐々会長に呼ばれて居る事を伝えられ、江里子の事が過ぎった、光一は口には出さないが江里子の事では無いかと不吉な思いで内山に従った。 「何事が起きたのでしょう」 「君はサブプライムの件は何処迄知っているのかね?」 「通り一遍です」 意外な内山の問いに光一は面食らった。 「社員に買わせて居る事も知って居るのか」 「私も進められました、投資でしたら考えますが、ファンドが進める外国証券じゃ私達には馴染みが無く投機的に感じ ましたのでお断りしました」 「多分会長の話は其処ら辺だろう」 光一は少し落ち着いたが内心彼等の誘いを断ったのがいけなかったか、と後悔しながら内山社長の横に座り三田の本社に向かった。 青野一郎も上司を差し置き、自分一人呼ばれた事に不安と緊張感を漲らせ、会長室のドアーを叩いた。 「はい」と云う父の声がした。 一郎は専務取締役の父の声に重厚な響きを感じ自分との距離を感じた、異常に厳しく凛とした声に一郎は緊張させられ、己に非が有ったのでは?と一瞬の内に、あれこれ自問自答…数日の行動が脳内を詮索したが思い当たるものが無く戸惑った。 一郎は部屋に入るなり、山本吾郎次長が在席して居り、一郎の顔を見る成り… 「外債か証券の事で相談を受けて居ないか?」疑いながら脅すが如く唐突に云った、罪人を取り調べる刑事の詰問である。 「はあ…社外からでしょうか」 一郎は山本次長の目を見て気の無い返事をした、数日前山本次長に或る証券を進められたが、一郎の訊き違いであった様な錯覚さえ覚えた、彼の自衛本能が頭ごなしの問いかけに成ったのであろう、山本の抑え込む様な勢いを少しでも弱めなければ対等に話が出来ない。 傍に坐って居る父も横合いから、同じ様に罪人に向ける様な鋭い目付きで一郎に訊ねた。 「隠す事無く…じゃ無い…庇(かば)う事無く一切を申し述べなさい…」 一郎は其の場の雰囲気で山本次長が立場を無くして居る事が察しられた。 山本がサブプライムローンの組み込まれた証券を、高利回りだからと力説…進められた事を思い出したが、彼はそんな事は無かった様な白々しい言い方をする山本次長に一郎は少しむっとした、然し彼は入社以来の上司でも有り此処は堪忍して彼に貸しを作って置く方が得策の様に思った。 本来、一郎は証券や外債には興味が無く、如何に断るか苦慮して居た事も事実で有ったが、此処は無難で穏便な言葉で答へる事にした。 「はい、私は元来投機や博打は好みません、其れに株もそうですが、人に勧められて行う性質のものでは無いと思って居ました、此の証券は当初から買う気は有りませんでした」 敢えて投機の言葉を強調した。父は苛立ち一郎を誘導するように追及の質問を弱める事無く、一郎の次の言葉を待った。 「誰に進められたのだ…常務か部長か、それで買わされたのか?…」 一郎は山本次長の顔を横目で見て頸を捻り無視した。 「いいえ、此処数日其の話は出て居ません、話は一度だけでそれっきりに成って居ます、でも私の友人で証券会社へ勤めて居る者に問い合わせた処、買うなと云われました」 「うん、君は買って居ないね、其れでは山本次長、貴方はどの位買ったのか?」 「はい、私は今泉社長の勧めで五百程二度に分けて買いました」 「今泉が社員に進めよ、と強制したのか?」 「はい、確かに利率が国内の銀行とは桁違いでしたから、良かれと思いまして……」 「三田の社員も今泉に載せられたのか?」 山本は黙って頷いた。 「良くは知らないのですが、一(はじめ)社長と今泉社長とが立ち話をされて居るのを耳にしたのですが、何でも後五十で決まりの良い数字に成ると、云って居ました」 「五十?…って、山本君どう云う事か?」 「私が未来銀行から借入をしました時には、頭取の小田さんが、三田一族は未だ可なり力がお有りだ…と云って居ましたから相当の金額では無いでしょうか、幾ら買ったのか会長に知らせて来ないのですか?」 「噂だから真意の程は分らないが訊く処に依ると、千億の上だと云う事だ」 「何と一千億ですか?驚きましたねえ」 一郎達がそんな話をして居ると、秘書の久野美智子が光一達の来た事を知らせた。 流石に光一も胸を時めかせて会長室の前に立ち深呼吸をして内山の後ろに立った。 光一は内山の背中を見ながら考えた。昨日父の家に行き江里子を父に合わせた事を含め脳の隅々迄落ち度を探して見た…別に思い当たるものも無い…秘書の久野に促され、観念して会長室に入った。 真っ赤な絨毯が佐々の気の荒さと人生への感性を物語って居ると光一は思った。 「うむ、来たか?まあ座って呉れ、内山社長とは近い様でゆっくり会う機会が無いが、商売は上手く行って居る様だね」 「はい、何とか中国からアジアにかけ成績を上げて居ます、」 佐々は内山を跳び越え、光一に目を向け直接的な物言いをした。 「サブプライムの件で意見を訊きたいのだが、知って居る事は何でも聞かせて貰いたい」 佐々の尋ねる意図が読めず、光一は父清三の顔と兄、一郎の顔を見て少し躊(ためら)躇いを見せたが、意を決した様に佐々に戻した。 「光一、今、其の事で話し合って居た処だ、私の知る限りの事は話して有る、」 誘い込む様な目で清三は光一を見詰めた、光一は仕方無さそうに兄、一郎の顔を見た。 一郎も大きく唯、頷くだけで目は光一の言葉を待って居た。 光一は佐々会長の真意を測る様に冷静沈着な語り口でゆっくり話し始めた。 「サブプライムの件は既にお聞き及びと存じますが、一社長、今泉社長が多額の借入を未来銀行から行い証券を購入しています。其れを解明するには速急な金の出処、流れを知る事です、今泉社長の投資資金を解明する事が、先決では無いでしょうか?…銀行の頭取のお三方の間に不透明な動きが有ると見て間違いないでしょう、小田頭取を詰問すれば不自然な動きが見えて来る筈です、借入金の一部償却を含めた返済計画の話をすれば、以外に早く解決する事が出来るかと存じます、銀行も買わせたのはいいが、早過ぎる担保不足に頭を悩ませて居る筈です、中国での利益が多い事で其の運用も可なり、乱暴で多額と訊いて居ます、それに未来銀行が一族を操り自行の損失を軽減し様として居る…と云うのは見方が歪んで居ますでしょうか?何と言っても購入先が未来銀行では、実弾の遣り取りは必要有りません、担保は買わせた証券が有ります、不足分は三田の信用でどうにでも成ります。繰り返しますが当然、資金の建て替へと貸し付け証券購入は同時に行われたと判断するべきで、書類上の遣り取りで成立したと考えるのが妥当でしょう。 借入金も多額ですが商社の金の運用として前例が無い訳では有りません、バブルの時には多かれ少なかれ投機の跡が見られます、今回は其の辺を利用した知能的な社則に反する裏行為です、通常なら簡単に右、左に動かせる金額では有りません、頭取連と三田一族の暗黙の教唆(きょうさ)が有った様に思われます」 「教唆とは何の意図か?」 佐々は鋭い目を光一に向け問い質した。 「高配当に事寄せ甘い言葉で多額の証券を買わされたのでは無いでしょうか?」 「今期四半期ベースでの営業成績は各社共創業依頼の好成績の筈だなあ」 清三も佐々に吊られる様に云って、一郎に意見を求めた。 「ええ、いいと云うか…三田商事に関しては、売上は三〇パーセントの伸びですが、営業赤字が少々出たと訊いて居ます、それに正確では有りませんが、簿外で多額の使途不明金が有る様です。スポットに資金が大きく動かされて居ると財務から訊いております、おまけにサブプライムローン関係の証券は不安定で今の状況が長く続くとはお思えないそうです。仔細は今泉社長と三田上家三田中家の三田一族の共同の投機の結果が、そろそろ悩みの種と成りつつあるのでは無いのですか。 飽くまで噂の域ですが中国の現地では、大事に至るのではと心配する向きもぼつぼつ出始めて居るとの事、しかし本社に報告が無い以上詮索する事は出来ません、其れにご重役達のなさる事ですので私達の関知する事では有りません」 「それで利益が出たのですか?」 光一は兄の一郎に遠慮勝ちに訊ねた。 「確証では無いのですが今は規定の配当が出ている模様で、今後は不安視されて居ます」 清三は国内では無く、隣国の中国で利益拡大を図り、三田一族がとんでもないパホーマンスを演じて居ると思った。 其の行為が裏目に出る可能性が有るのだ。 佐々は首を傾げながら一郎達に訊ねた。 「そもそもサブプライムローンとは如何なる怪物かね?」 佐々は吐き捨てる様な問い方をした。 「はい、ABS、つまりは資産担保証券で数社の不動産債権を纏め投資ファンドが証券にして売り出したのです」 佐々は頷き訊いて居たが、彼の頭の中は此の機に三田一族のお年寄り連中の総退陣をさせられそうな気がした、三田グループの癌と成って居る三田の一社長、三田上勤、三田上直治、三田中長一郎、三田中陽一、三田中三郎、三田中四郎、一族の主だった七人と小田頭取の顔がぐるぐる脳理を巡った。 清三は佐々の左手の親指を回す癖を見て居た、昔から大きく決断を仕様とする時に話しながらする指の動きである。 佐々は三田一族の長老達の考へが、判然と見えて来た。 サブプライム関連の証券で損得の如何に拘わらず、立場の起死回生を試みたのだ…勝てば官軍負ければ今泉に全責任を取らせる。何れにしても自分達は悪くて現状維持で済む…三田一族は吾々外様の間に不穏な、深い溝を作ろうとしている、多額の利益が得られれば、我々の力を弱める事が出来る、三田の天下を作ろうとしたのであろう、佐々としては彼等の面子を考え三田の大番頭で有る今泉を三田商事の社長に据えたのが間違いで有った。 矢張り清三にするべきで有った。 此の際今泉を引かせて青野清三を社長にするべきでる…と佐々は思った。 清三は佐々が自分を三田の社長に付かせ様と考えて居るのが何と無く分かった。 「自分が調べた限り、莫大な利益が上ると当初は喜んだそうです、三田一族の権力が取り戻せる、でも負ける事も想定して居り、負ければ負けたでその罪を今泉社長と畑常務に背任行為で処罰して佐々陣営は、監督不行き届きの角で、現体制崩壊を狙い三田一族の浮上を目論んでいたのでは無いでしょうか」 光一の刺激過ぎる言葉に清三は慌てて… 「三田商事のお偉方も分散して可なり買わされ,損失を被って居るそうです」
清三の三田一族に対する思い遣りは、今の言葉ではホローに成らなかった、寧ろ一蓮托生の見方を強くした。 佐々は系列七社の業績、役員の顔ぶれを考え、この際、総家だの外様だと言って居る時では無い、株式会社は株主のものと彼等に認識させねば成ら無い。噂通り千八百億が二千億の投機額で有っても、三田の主軸七社の連結決算上は赤字に成る程軟(やわ)では無い、痛手では有るが下方修正で済む、勿論配当も継続減配をする事は無い、只、世間に悪い噂が流れる事の方が、イメージダウンに繋り会社はマスコミから追われるだろう、其れを隠す為では無いが持ち株会社を立ち上げる手も一だ……。創立者のご老人を隠居させるには好機と云へ様…当社としては大変な事件で有る。 審査不十分な証券投資、本来なら営業会議をかけた上で行うべき事を多額の借金で、其れも彼らの独断で買い上げて終ったのだ。 其れに問題はレバレッジを利かせた証券に手を染めて居る事だ。二千億の内半分はレバレッジを掛けており、現金は十乃至二十分の 一の払い込みで済み、賭博に等しい行為だ。 当然、利益も大きい代わりに損失が出れば、出資金は勿論その数倍の損金と成る。通常の業務と全く関係の無い投機に走った行為は、会社を預かる重役に有るまじき行動で有る。 其の上、最高幹部で有るにも拘われず、部下に分散を図り損失の軽減を図るとは上司に有るまじき卑劣で有っては成らない行為だ。 立場を利用し社員の登用、仕事上の環境をも変えると云う、半強性購買を遣って退けた彼等に、事の重大さを知らせ黒白の決着を付けさせねば為らない。 此の際、佐々は役員会で其の内容を透明化し、社員の為にも報告させ善処しなければならない、又もマスコミの影が佐々の頭を過ぎった。 当然彼ら創業者グループに引導を渡し一気に押し切る事も考へた。 「青野君、我々は創業者に過剰に気を遣い過ぎた様だ、彼らの無能な故(ゆえ)の、欲が不味い結果を招こうとしている」 「彼等の話が事実であれば株価下落、我等の能力を疑われ兼ねない、我々も大らか過ぎた様です」 内山社長は業務に専念していたと云えば聞こえが良いが、会社が違うとは云え、今泉社長の行動を全く知らなかった事に、顔面蒼白に成って会長の前に畏まった。 「内山社長は今泉社長の事は聞き及んで居なかったのかねえ」 「残念な事に今、青野光一から始めて聞かされた始末です、面目ない話です」 少し恨めしそうな目付きで光一を見て云った。 「恥ずかしい事だが私も聞かされていなかった、万一失敗すれば今泉自身が全てを被らされ、煮え湯を飲まされ兼ねない哀れな話だ」 「それはどう云う事でしょうか?」 「改めて訊くが君は今回の証券購入には拘わって居ないだらうね」 「はい、今も申した通り存じません、丸三商会では誰も拘わって居ません」 「それは良かった、三田一族が責任逃れを仕様としている、不良証券と今の段階では認定できないが此れを勧められ、拒むと優秀な部課長が左遷されると云う、有っては成らない強引な事実を人事課は見過ごして居た様だ」 「其の音頭を取って居るのが畑常務で名義貸しだと言って何百万、人によっては壱千万円以上買わされて居る者もいるとか、考えられない事です、推薦に於ける人選が作為的に平気で行われており醜い陰謀が渦巻いて居ると云う事です」 「会社として面目ない話でマスコミにでも知れれば大騒ぎに成る」 佐々はマスコミ嫌いだけに彼等が気に成った。 「光一、他に存じて居る事を申し上げなさい」 光一は父の鋭い眼差しに、父では無く専務取締役としての威圧を一郎と同じ様に感じた。 「はい、他に私の存じて居る事は既に会長はご存じの様ですが、私の大学の先輩で三田中商会の総務課長をしている加藤浩二から直接伺ったのですが、彼が申しますには、部長の一声で最近、可なりの社員が投機に引き込まれて居ると云って居ました。第一回の配当は貰ったがその後は音沙汰がなく、影では皆、憤慨して居るそうです」 「上司は総務部長の下谷太一だよね」 「はい」 「黙って見過ごせない、事実なら下谷は私が送り込んだ佐々メンバーの一人だ、失敗すれば彼も槍玉に上げ様とする行為で有り許す事は出来ない、立場上、彼からも多少の報告は入っているが半信半疑で居た。 三田の一族は彼を取り込み我ら外様に挑戦したと見るべきだ」 清三は佐々の言葉を訊き、先ず今期の決算をどうするかだ、光一が云う様に系列会社の統合をするなら時間が無い。 「先ず投機の総額と損失の額を調べ、全て透明にするべきです」 内山菊之助が普段の静かな物腰で言った。 「三田一社長が先日私の所へ来まして、唐突に名義を貸して呉れと云って来ましてねえ、訳を云わない物ですから、お断りしました」 「彼の事だから怒こったでしょう」 「ええ、今考えると私がサブプライムの問題をどの位知って居るか、社員との拘わり、今泉との親密度を探りに来た様に思へます、それに彼が帰って間もなく、今度は専務の平蔵氏から同じ様な要請が有りました」 「それは君が全てを知り了承した事に成って居ると思う」
「ええ、そうですねえ、私は彼等からの電話だけで無く、全ての通話を記録して居ますので、問題になれば、何時でもそのテープを提出致します」 光一は三田中と丸三で会社は違うが、光一と同年に三田中に入社した上田洋介を思い出した。何度か居酒屋で出会ったのが切掛けで気が合い同系列と云う事でも有り、社会人に成って初めての友人と成った人物だ。 決め事では無いが毎月一度は会って居た。彼からの情報によると,とんでもない大きな購入額でその額は噂されて居る一千億では無く二千億以上と云う事であった。 「確証は無いのですが私の知る限りでは二千億と訊いております只、低所得者対象のローンが組み込まれて居るだけに、夏頃から損失が膨らみ騒ぎに成るのでは無いかと証券会社に勤務する友人から知らされて居ります」 「不動産不況による資産デフレが起こると云う事か?」
「そう云う事に成ります、其れに中国の繁栄は世界の食糧不足に繋がり原油の上昇も気に成ります」 光一は佐々の顔を見て世界経済に付いて持論を述べていいか迷った、佐々の立場で世界観は読んで居る筈だ。一呼吸してサブローンに付いてだけにして置く事にした。 「低所得者向けのローン販売は四…六年のタイムラグが有りアメリカの経済情勢と共に今期より長期に右肩下がりは否定できないと考えられます。車社会のアメリカの主要産業である自動車業界が日本車に追い上げられ王座を明け渡すのは、余り時間の掛からない事で、裾野の広い彼等が及ぼす他の業界への波及は何れ全般に経済は下落傾向と成り、何といっても原油の高騰がリセッションも有り得ると考えねば為りません。 金融経済に追いやられ様として居る実物経済に於いては崖っぷちと云えるしょう、住宅に関してはローンが滞った人達は立ち退きを余儀なくされ、人の住んで居ない空き家が出始めて居ます、格付け会社もファニーメイとフレディマックの住宅公社は今の処健全とされて居ますが、悪い事に良いとされて居るプライムローンの住宅証券もイエロウカードがちらつき出した様です、勢いレバレッジを効かせた証券商品は危険が一杯、当然各ファイナンス事態の評価も良くない様です、今じゃアメリカ発でEU圏でも、買いの騰勢が弱まりだして居ると報告を受けて居ます、イギリスではアメリカと同じ様な自国の証券が販売されて居り悪い方向に向かって居るそうです勿論現在は噂だけの不確かな情報です」 佐々は思い出した様に、顎を撫ぜながら上眼遣いに云った。 「そう言えばグリンスパンがバーナンキと交代するに当たって当時、此の問題には懸念を示しており、申し送り最重要事項として、目を離さない様にと伝達して居たそうだねえ。当時は具体的な数字は、未だ誰も知るよしもなく想定外だったが、彼が案じた通り,表面化して来たと云う事か、それが世界中にばら撒かれていたのだから、アメリカの金融不安から、一気に世界が金融恐慌に成り兼ね無い」 佐々は困惑の表情で暫く考えて居たが… 「やはり丸一の田沼、山本、本田、丸二の瀬田、丸五の山之内、川田、内山君の所の清水、大川の各氏で外様会合を開こうじゃ無いか?」 「そうです、彼等の勝手な不法投機は、許される行為では有りません。 利益が上がれば良いと云う問題では無く、会社を私物化しているのですから背任行為として、重役会議に掛けねば成りません。我社には残念ながら新旧の派閥が有る以上、不味くなれば共同責任は対外的に免れない、其れに擦(なす)り合いも起こるでしょう、内部告発でもされれば醜態を世間に晒すだけで無く役員は勿論、会社存亡の危機に成らないとも限らない、特に内部告発は日頃抑圧されて居る我ら外様から出る可能性が有ります、各氏の意見を訊き粛清と一体感を持たせ統一を図り、経営の方向性を本来の姿に戻さねば成りません。 株主に知れれば経営其の物を疑われ、客観的には我らも同罪、彼等から突き上げを食わないとも限りません、いや懲罰動議も辞さないでしょう、監督官庁も黙って居ません」 「全く無謀にも程が有る、取り敢えず今泉には責任を取らせよう」 「ええ、彼を退かせれば若様連は慌てるだけで何も出来ないのでは?」 「今回は俺が最後の引導を渡す」 清三も心配して居た事だけに会長の考えに賛成、早々に召集を掛ける段取りと成った。 光一は少し遠慮勝ちに佐々に云った。
「会長、先ず金を貸した未来銀行の小田頭取に話を聞いて見ては如何でしょう、二千億の投資資金は無謀な融資と云えます、それに当社に対し担保要求が無く、購入債券のみが担保とされています、銀行は通常証券債券の担保価値は金融機関によって違いは有るものの六割程度と聞いています。此の融資行為は銀行側が当社に対し、何か思惑か魂胆が有るのでは無いでしょうか?」 「青ちゃんは何かその辺の事は耳にして居ないのかね、融資をする方も受ける側も安直過ぎる、理由の如何を問わず、投機にしては光一が云う様に多額過ぎ彼等が何を考えての事なのか、彼等の単独行為は常識を逸雑しており経営者として失格だ。我が社にとっては社運に拘わる問題は当然、誰かの首処か重役陣の総退陣もされ兼ねない」 「悪く解釈すれば未来銀行はグループに取り込むか、参入を考えての事では無いでしょうか、例えば銀行業務の拡大に伴う系列化,更なる株の持ち合いの要請、特に三田系列は未来銀行との持ち合い株数が少ないので、他の企業並みに三田の株を増やしたいと思って居るのでは無いですか?」 「うむ、其れとも単に助け合いか」 「はい、今迄はいい商品で有ったのでしょうが先行き巨額の損失と成る事を彼らには見え出して居る筈です、彼等は投機に於いてプロです、従って当社に押し付けたのではないでしょうか?或いは純粋に当社の持株を増やすだけの行為であれば、その期だけでも相手の株価は安いに越した事は有りません、いずれにしても未来銀行として悪い行為では無く、この段階で銀行と当社間の金の動きは至急調べるべきです」 佐々は頷き、その顔を其の侭秘書の久野美智子に向け小田松之助にアポを取らせた。 「午後三時以降でしたら伺えるそうです、如何なさいますか?」 佐々は美智子の顔を見ないで光一に目を遣り、 「承知したと云って呉れ」 佐々はもう少し自社の足元の探索をして置きたいと思い、久野に畑常務を呼ぶ様に云った。畑は何事かと掛けて来たらしくハンカチを使いながら会長室に入って来た。 佐々は態と苦り切った表情で言葉だけは静かに外国証券購入に付いて問い質した。 「サブプライムローンの含まれた証券購入の件は知っているね」 畑は一瞬にして青ざめた顔色に成り、小刻みに震へ出した。 佐々と清三の顔を交互に見て、何を思ったか即座に芝居がかった大袈裟な土下座をした。 佐々も畑のビジネスマンらしからぬ馬鹿げた態度に怒りと驚きを表し、噂は事実で有ったかと肩を落とし、益々怒りを隠さず強く詰(なじ)め寄る様に言葉を吐き捨てた。
「君が音頭を取って居たと云うじゃ無いか?会社を何と心得て居る、私物化するにも程が有る、会社は株主の物だ。万が一失敗すれば背任横領だ……二三年臭い飯でも食って来るか、実際に勤めて来なくては其の辛さは分らんがね、君達、事の重大さが分からず腑に落ちない様だが、場合によっては告訴する,さもないと我等が一蓮托生で付き合わされる」 畑は青ざめた顔で自分は何も知らないと懸命に釈明をした。 「私は唯、今泉社長の特命を受けまして、詳しい事は説明されずに只配当が良いからと、勧められました。実の処私も不安でしたが社長命令では逆らう事もならず買わざるを得ませんでした」 「其れで総額如何程に成るのだ」 「はい、私の責任額は十億です」 「何、十億とはどう云う意味だ」 「社員に対する押し付け額です」 「今泉が文書を回したのか?其れで購入総額はどのくらいか?…」 「漏れ聞き及びました処では総額二千億と訊いて居ます、金の出し入れは財務担当の今田常務がさせられて居ましたから彼に詳しい事は、お尋ね下さい」 「今田常務も噛(か)んで居るのか?」 「私は経理担当で全ての金の出し入れは財務が予算等の割り振りを致します、特に何十億に成りますと今田常務の決済が必要です」 「知らないのは会長と私等だけの様ですね」佐々はむっとした表情で、今田を呼ぶ様に久野に云い付けた。 今田も畑と同じ様にハンカチを使いながら会長の部屋に入って来た。
「何かお急ぎのご用でも御座いましたでしょうか?」 佐々は仁王立ちの侭、閻魔(えんま)大王の様に目を剥き例の大きな地声を振り絞り云った… 「君は今泉の片棒を担いで居たそうだね」 今田は畑と違い、佐々の顔を睨み返して怒りを爆発させた。 「会長、彼等は私を脅(きょう)迫(はく)紛(まが)いに金を出させたのです、今泉の口車に乗せられ当初百万の証券を買わされ三日後に高額な配当を受取りました、百万の出資に対して二十万の配当金でした、不思議に思い訊きました処何でもレバレッジを掛けたと云うのです。初期段階で投資額の二割方天引き出来るのです、年二回の利払いで五年で投資金が戻り後の配当は利益だと云うのです、其れも未来銀行経由で保証されたも同然、こんな巧い話は無いからと云い其の後は会社として、ひと儲けを遣ろうじゃ無いかと持ち掛けられました、一千万が二千、三千と億単位に増えていき、其の内に処しきれず困惑して居ました処に、三田中一社長と三田上勤社長陽一社長の三人が見えまして、…中国で商うから仮に損失が出ても今の中国景気で何とかなる。利に利を生ませて大いなる利益を得て高配当を得ようじゃ無いか、世界の先進国であるドイツ、フランス,イギリスのEU圏でも買って居る、其れに便乗しない手は無い、投機資金は十パーセントで良いのだからと…今期好調の鉄鋼部前期の利益だけで何とでも成る…と捲し立てられ口説かれましてね…其の勢いに圧倒されました、今迄の稼ぎは涙錢に過ぎんない…の大言壮語には誰も止められません、君に迷惑は掛けないから安心して我々の指示通り金を送って呉れ、名目は資材購入でいい、それに運転資金として未来バンクの小田さんとも話が通じて居る、未来銀行からの借入金で購入する事にも成って居る、詰まり大きく現金の出し入れが有る分けでは無い、三百億以上は未来銀行の上海支店で机上処理をする様に話が出来て居る、時には五百億に成るだろうが、買い上げた証券担保で処理するから驚く事は無い、各社の重役連も皆承知して居る事だから心配せんでくれ、…と直々に云われました」 「それで未来銀行の小田頭取に確認を取ったのかい?」 痛い処を突かれ彼は伏し目勝ちに首を横に振った。 「総家の三社長のお越しの上ご本人の申し付けですから疑うどころか勅命と解釈しました。其れ以上社長達に逆らう事は私の立場ではどうにも成りません…私にも妻子が居ますので言い成りでした」 佐々は尤もな言い分だとやや気持ちを和らげて今田に訊ねた。 「其れで、今現在、証券購入の為の借入総額は如何程に成って居るのだ」 今田は尋ねられるだろうと持参して居た帳簿を開き言葉には出さず指で示した。 佐々は帳簿の数字のゼロを数えて驚いた。
「君、二千億も有るじゃ無いか?…噂通りか?…、どうして早く私の処に知らせないのだ、私は、今更名乗る事も無く、諸君達も周知の通り三田グループの経営権を持った総支配者だ、不合理不自然な事は私に決済及び相談に来るべきだ、実に怠慢だ、背信行為だ、元金が戻らなければ重役会議での決定事項で無い以上背任横領で其れなりの処分は覚悟して貰わないとね、損失の如何によっては立派な犯罪者だよ、加担した君等は…」 今田は背任の共犯と決め付けら流石に最初の気負い込みは失せて、ただ頭を下げ項垂れた。 「光一、未来銀行の小田頭取に大事件だと云って直ぐに呼び付けなさい、今田が此の体たらくでは我社の財務、経理は何をして居たのか、君達、知らない、では済まされない」 「はい、」 今田は流石に気(き)不(まず)味さを通り越し恐怖感で震える手で光一の持つ受話器を取り、 「私が…」と光一に声を掛け小田頭取直通に自分で電話をした。 小田は実際に外出おり、久野のアポ通り三時迄待つより仕方が無かった。 「今田、未来銀行は自行で可なりのサブプライムローンの組み込まれた証券を買い入れて居るのではないか?」 「噂では五千億近く持って居るそうです」 「それじゃ我が社は彼等の購入総額の四十パーセントじゃ無いか、共同で何か仕出かす積りか?」 「其れは無いです、其れに簿外が私には分りませんが有る様です」 今田は今更ながら、其の大きさに驚いたか?「会長も………ご存じ…」 「知らん…」 今田の言葉が終らない内に突放す様な強い言葉で云い切り今田を睨んだ、今田は再びしょぼくれ小さくなった。 小田は三時に約束通りにやって来た。 彼は意外にふてぶてしく威勢よくにこやかに佐々の前に坐った。 佐々は黙って鋭い目で小田を見るだけで挨拶もしなかった。 清三は小田に一応普段と変わらない通常の態度で挨拶を交わした。 「小田さん、お互い忙しい身体ですので要件からお尋ねします。今当社は貴行から如何程借入をしていますか?…」 小田は恍けた様に同道して来た大井部長を顧見て訊ねた。 「総額でしょうか?…」 「総額とは何口か別口が有るのですか?」 清三は大井部長を睨みゆっくり誘うような言い方をした。 「ええ、証券購入に付いて特別ご融資を挿せて頂いて居ます」 「会長、グループの株の買い増しか自社株買いの、購入計画があったのですか?私は訊いて居りません、先日の役員会でも議題に上って居ませんが」 小田と大井は少し慌てて双子の様に顎を同時に撫ぜながら声を揃えた。 「サブプライム関連の証券購入の為の資金を融通しました。」 「サブプライム…とは如何な物かねえ」 佐々は何時もの太い地声で小田に訊ねた。小田は又大井を見ながら尤もらしく云った。 「額が大きくなり実は当行でも問題に成って居まして……二千……」 清三は小田の口車を封じる様に鋭く云った。 「簿外貸付まで有ると云うでは無いですか?」 「簿外は三百億有ります、それは会長のご指示と伺って居ます」 佐々は今にも爆発しそうな顔で、今田に云った時より素気なく憎々しく云った。 「知らん…商社の通常取引でも簿外の金銭移動は命取りだ、況して投機での簿外貸し付けは論外で安易に行う事ではない。未来銀行は如何なる営業方針を持って客と接しておられるのか?…其れでは町金と変わりが無い、最も街金はこんなに多額は貸さないだろうがね」 小田は初手から簿外融資を突(つ)かれ、初めの勢いは消え失せ、もそもそと答へた。 「三田の御曹司達三人に押し切られまして、云われる侭に貸し出しました、一年前から百、二百億と数十回簿外を入れますと二千三百億です」 「貴方が薦めたサブプライムローンが組み込まれた証券とやらは当社には、一枚の証券も有りません、どう云う事に成って居るのですか…何でも、大ごとに成りつつあると訊くが、どう云う事ですかねえ」 小田は少し考えて居たが…
「今は高配当ですから問題は有りません、実は中国でも人気証券化商品でして上海で少し販売仕様と考えて居ます、御社は少々多い様ですから私共から流通させましょうか?」 「小田さん三田商事と未来銀行は証券販売を提携した訳では有りません、中国で販売されるのはご自由ですが三田とは一切拘わりの無い事をはっきり挿せて置きます、三田の持ち分からの売却は筋違い…そのお考えなら全額引き取って頂く宜しいですね」 清三は不正貸し出しの三百億の数字を指さしながら小田に詰め寄った、小田は顔色を変え…正常取引で有る事を強調するかの如く云った。 「三田コンチェルの名のもとに無担保貸し付けを遣らせて頂きました、今泉社長、一社長の当行本店にご来店での要請でした、其れを会長がご存じないとは当行として全く信じられない事です」 多額の金の動きを知らないとは云わせない、三田のお家事情は当行に無縁とばかり小田は佐々に食い下がり共同責任を仄めかした。 「小田さん貴方も未来バンクの頭取だ、卑怯な発言は控えて貰いたい、話を進め方として今泉とはどんな話になっているのか?」 佐々は不機嫌に云った。 「一般的な話で然したる工作も有りません、寧ろ会長は此の証券に対して少し過敏に成られ過ぎでは無いでしょうか?」 小田は佐々にサブプライムローンに対する無知を指摘する言い方をした。 清三は小田の顔を睨み清三にしては珍しく荒げた言い方を小田に投げた。 「二千三百億もの融資ですよ、それも無担保とは銀行の資質が問われる、要は未来銀行が多額の不良証券に成る可能性が見えて来た証券を販売したと云うのでしょう、それに証券は一様担保として貴行が持って居る…そうでなければ財務の今田辺りが証券や証書の顔位見ているでしょう、我社の誰もが其の存在を知りません、当方としては仮に担保不足を招いたとしても、其の件に関する追加担保は一切致しません、三田一族達と話して下さい。事の序(つい)に申して置きますが、レバレッジを掛けた商品に付いては一切当社とは関係ありません、古くからの彼等名義の当社株は当社財務部の管理下にあります、一株足り共彼等の自由に成りません、先代からの遺言で有り申し送りと成って居ます」 小田は憔悴の影を露(あらわ)にしてぼそっと呟いた、 「三田上一氏は社長ですよね」
「だからって不良証券に成るかも、知れない物を買わせる事は無いでしょう、其れに何度も申して居る様に多額過ぎる」 佐々の眼光と地声で小田の大きな体は青ざめ縮み上がった。 「三月の本決算で計上して有り全額お引き取りは金額が大きいだけに、経理上当行と致しましては出来かねます、仮に修正したとすればマスコミの餌食に成ります、今更修正は困難です、其れに其方様も其れなりの配当は受け取っておられます」 ぼそぼそと弱弱しく云った。 「簿外融資や営業権を持つ会長の私を無視した行為は如何に考へ償うのか」 「それは代表取締役今泉社長のご指示で実行した迄の事、当方と致しましては社長の資金要請をお受けした迄で、当然会長及び貴社のご重役会の協議の上決定された事と解釈、通常の営業として実行致しました、当行は御社の内情には当然、関知するものでは無く、金融機関の貸し付けを挿せて頂きました」 小田も融資額が多額だけに必要以上に立場を説明して理解を求めた。 「貴行はサブプライム関連の証券を五千億から買って居ますね…二千三百億円と云えば約半分近くを押し付けた事に成ります、以後の相場次第では、勘ぐればインサイダーに成る可能性もあると思われますが、其の気遣いは要らないのですか…?」 小田は慌てて否定しながら…… 「今泉社長を交えてお話を挿せて下さい」 「残念ながら昨日付けで懲戒免職に致しました、以後当社とは何の拘わりも有りません,御了承下さい」 清三は冷たく言い放った。 「然し貸し付けを行った時点では?」 「全権を持った会長の私の預かり知らない事です、社長の背任行為と云う事で処理する積もりです、貴行は彼等を詐欺行為で訴訟を起こして下さい、それに金銭の事実上の受け渡しが行われたのですか、当社経理課には二千億の金の出し入れは記載されていません、どの様な処理をされたのです、当社の名義貸しと言った行為では無かったのでしょうか?」 「いいえ正当な売買です、ただご購入して頂いた証券は全て担保として預からせて頂いて居ります」 「では簿外金の貸し借りの帳尻はどの様に処理されたのです?レバレッジを掛けたものの処理は?担保の預かり方が理解し兼ねます、メガバンクでは個人の証券担保の場合時価の六割と訊いて居ます」 今田が小田に詰め寄った。 「それは三田さん個人との事で御社には拘わりの無い事です」 「待って下さい、簿外の金額が三百億です。此の件に於いても、三田の後ろ盾が有るから貸されたのでは無いのですか、三百億ですよ」 「………」 佐々は仕方無さそうに小田に最後通告をした。「どうです此の侭話を続けても埒が明かない、半分は当社で責任を取るが、レバリッジを利かせた証券には我が社の経営姿勢から余りにもかけ離れた投機行為で、株主及び第三者に弁明の仕様が無い、今は利が乗って居ると云え、基本的に当社は云う迄も無く商事会社で投資会社では無い、又其の機能を有さない。現内容で有れば貴行も引き取り易い筈だ。 当社としても正常証券で有れば言い訳が出来様、先ずは折半で終結させてはどうか、お宅との付き合いも今日限りと云う訳でも有るまい、総額借入金が簿外を含め二千三百億…半分で千百五十億…その内訳はレバレッジの利いた商品は全てお引き取り頂くと云う事だ。其れと当社三田一族の保有株時価三百億円を形として担保に差し出しますが、其れは当社が即座に三百億分のサブプライムローンの証券と差し替えて頂きます、融資額は変わらず千百五十億円ですが、差し引き証券の八百五十億は当社にお引き渡し下さい」 小田は仕方無さそうに苦り切った表情で… 「分りました、元々、証券の売買は千百五十億と云う事にしましょう、融資額は千百五十億と云う事ですね担保としてサブプライム証券の商品三百億分をご提出下さるのですね」 「ええ、千百五十億の内三百億は担保として出した我が社の株と交換して貰います、簿外に付きましては最初から無かったのです、こんな事がマスコミに知れればお宅の幹部の方々も我々共々、危険な立場に追い込まれるでしょう、社会的な信用問題も考慮しなければ成りません」 「はい、漏れる事は無いと思いますが?」 「何か巧い手がお有りですか?」 「無い、あり得ませんと、知らぬ、存ぜぬで通します」 「それは無理です、司直の手は厳しいです」 「はい、司直が入れば覚悟致します」 小田は佐々の思うが侭で何も返せなかった。全て清三と佐々の推測通りで現金の授受は実際には行われて居ない。 「証券は六掛けの評価で……」 小田の言葉半分で…佐々は待って居た様に… 「交換した当社の株三百億円分は自社株買いで処理致します…頭取のお言葉通り貴行へ支払う金額は千百五十億円です」 小田は少し余裕を見出したか頬を緩めて佐々と清三の顔を見て笑いながら言った。 「証券で御社の株を買い戻されたと云う事ですね、証券のロンダリング…ですよね」 清三は厳しく云い返した 「千百五十億と其の上自社株買いの償却で三百億の無駄遣いです、借入金は飽くまで千百五十億ですが、当社として千四百五十億です」 小田は恐縮して頭を下げた… 「承知しました、其れで実行は何時に成りますか?」 「十二月末と云う事で如何でしょう」 唐突に横合いから光一が云った。 清三は慌て…驚き怒りの目を光一に向けた。 「待て…根拠は?融資総額千百五十億だぞ…」 暫く時が止ったと同時にどよんだ空気が流れた…数秒の時が数分に思えた、光一は出すぎたと佐々の顔を見た、佐々は光一に薄ら笑いを残し小田に向きを変え云った。 「良いだろう十二月二十八日の御用納めに仕様…小田さん契約書を交わしましょう」 「はい、依存は有りません」 「此れで簿外取引は無かったのですね、然し三田の面々がご承知なさるでしょうか?」 念を押す云い方に佐々は小田の顔を不思議そうに見返した、簿外行為を平気で遣って退けた度胸は何だったのだろう、未だ隠し事が有るのかと疑った、光一が云う様に欲徳か三田グループの単なる取り込みの一環かと理解し兼ねた、今日即座に契約を済ませる事にした。 「今、株価は日経平均一万八千円前後ですがサブプライムの問題が大きく表面化すれば右肩下がりは必至でしょう、現にサブプライム関連の証券は五パーセント方沈んで居ます。今なら当社の株価は変化無く維持して居ます。貴行としては形がお入用でしょうから、彼等に担保の追加を求められれば当社預かりの彼等の株を売るか担保として提供する外は無いのだから、当然当社の株を担保に出すでしょう、其れこそ株を担保に預かってから貴行として強硬に貸し剥がしを実行と云う事で良いのです、我が社は貴行から購入した証券と交換、当然株の部分だけは本日付で処理をしないと株が下落した場合、金額に不具合が生じる、貴行も当方も困る事に成る。」
「ええ、当行としても御社から受け取る株は当然上下が有り現在値が保たれる保証は有りません、三百億に付いては株券の交換ですから現金の移動は有りません、当行としても望ましい事です。其れに外部に一切ごたごたは漏れずに内内で処理出来る事でも有ります。当然一族の持ち株を買い取られる御社は償却されるのですから一族の権力は弱まります、佐々会長は、此れぞ一石二鳥、私共も多少お力に成れると云う事ですね、分りました、当行としても簿外の不正貸し出しの解消に成ります、お宅は不良隠居の大掃除をされると云う事に成りますからね」 「小田さん、其れは貴行に関係の無い事で、藪を突(つつ)く事は、お互いに慎みましょう、今のお言葉の後者は訊かなかった事に致します、自社株買いで得た株券は箪笥株も考えられます飽く迄、経営上の事務処理です」 清三はぴしゃりと云い切った。 小田は先に簿外融資を突かれた手前柔らかい言葉を選ぼうとしたが、自尊心が自分の立場と、負けず嫌いの性格が、お互い五分五分では無いか、其方(そちら)の弱点も心得て居ると…己を繕(つくろ)おうとして無駄な言葉が出た。 それに佐々の巧妙な、脅しとも聞こえる語り口に拒絶し難く従うより逃げ道の無い事も己を小さく憐れに思えた、金融マンとして遣ってはならない事を遣り、一言も弁解の出来ない弱みを指摘された事に、彼の人生の中で数少ない軽率な行為に恫喝(どうかつ)され屈辱を受けた。 剛腕と云われて居る小田が佐々の言い成りに成る以外術の無い焦りと悔しさが有った。 「早い方が好いですね、早々にその様に書面で、融資契約を締結致しましょう」
珍しく小田自身気付かず同じ言葉を繰り返した事に、此の場から早く逃げたい敗軍の将の姿と成って表れた、今田は先に同じやり取りが有ったが、と思いながらこんな時間とは早く逃れたい気持ちで小田の言葉に頷いた。 「其の役は私、今田がお引き受け致します」 と今田も同じく、繰り返し云った。 小田は佐々のデスクの上の電話を借り副頭取に来社を指示した、其れは千四百五十億の引き取りを意味して居た。 「今期の決算は自社株買いの三百億は記載して三百億の償却をします、融資金八百五十億に関しては来期に先送りと云う事で今期は株主総会を乗り切ります,貴行も隠す事無く処理の程をなさって下さい」 「分りました仰る通りに致します」 「最近の株主は厳しく見張って居ます、特に減配には追及の手を弛めません、落ち度の無いようにお願いします」 佐々は無言で小田と今田の遣り取りを訊いて居たが、佐々も清三も小田の金貸し根性が醜く無性に腹が立った。 「繰り返して置きますが当社の債権を中国で捌(さば)く事は止めて下さい、サブプライムの下落は目に見えて居ます、当社の名前が出れば商社活動に悪影響が出ます、必ず約束して下さい、中国での活動は貴行にとっても良い事と思われません」 「はい、心得て居ます、其れに中国での販売は新しい名義の証券で行います、信じて下さい、未来銀行のトップとして誓います」 光一は全神経を佐々の口元に集中、会長の言葉の強く無駄の無い進め方に陶酔した。小田達は胸に重くるしく閊(つか)えるものを感じながら帰って行った。
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