エレベーターのドアーが開くまで二人は抱き合って居た、閉まりそうに成るドアーを慌てて手で押(お)さえ縺(もつ)れる様に外に出た。 「七〇六よ…」 江里子はバックから鍵を出しドアーを開けた。光一はドアーのノブに手を掛け入るべきか否かを躊躇した。 江里子は勝手したる我が家、さっさと部屋に入り着替えを済ませ、入り難そうにして居る光一を見て玄関に遣ってきた。 「どうぞ」 彼女は何時の間にか白いレースのブラウス、紺のタイトスカートに着替え、久しく逢わなかった姉弟か幼な友達を招き入れる様な気軽さで迎え入れた。 深夜にも拘わらず極自然に異性を感じさせず両手を差し出しおどけた様に、 「御覧の通りワンルームなの…狭くて驚いたでしょう、どうぞ入って…」 江里子の悪戯っぽさには、どよみの無い男と女を感じさせない明るさがあった。 光一は玄関の小さな絵や飾り物に目を遣り、異常に興奮している自分を何とか抑えた。 「可愛いねえ」 と言いながら小さな人形を手に取り照れくさそうに、ペコンと頭を下げて靴を脱ぎ後ろ向きの侭一歩部屋に踏み出した。 「お邪魔します」 光一は、扉が開いた侭に成っている下駄箱を何気なく覗いた。母には少し派手に思へる和装用の履物が五足、踵の高い黒と白のパンプスが品よく納まっていた。無論、男物は見当たらなかった。 光一は呼吸を整え両足を揃え部屋の方に向きを変えた。 其処には美しい江里子の顔があった、エレベーターの中の短い接吻とは違い、誰、憚る事の無い熱を帯びた長い強烈な接吻が待ち構えて居た。 とても初めてとは思え無い、濃厚で長い時間舌を絡み合わせた接吻であった。 キス位迄は経験が有るのであろう。 「今夜は処女」と云う夜の社会での客とホステスのジョークが有る。 だが今夜は全て彼女のリードで此処迄来た。こんな風にバーの女は男を誘うのか?何人の男が此処へ連れて来られた事か?光一は開き直ったと同時に、男女のどちらが餌食なのか考える余裕も無い程気持ちが昂ぶって居た、それに恋とビジネスかは此れから始まる男と女の行為によって決まるであろう。 江里子を銀座の三坂で待って居た時の純愛な気持ちとは裏腹に、彼女が抱けるのであればビジネスでもいいと割り切った男の性欲だけが光一の頭の中を駆け巡っていた。 半面、光一は野獣の様な己に恥じながら、江里子の唇を吸い続けた、激しい接吻の間光一は自分の上着を床に落とし、江里子のスカートも下した。ふわっとした感触が足元に感じられた、ブラウスのボタンを一つ外した。 「待って、此処じゃいや」 江里子は光一から離れて手を引いた。 光一は此処までくれば焦る事はない、江里子に身を任せながら改めて部屋の中を見回した。 当初気が付かなかったが、十坪程のワンルームの奥に納戸の様な小部屋が見える、着替え室に成って居るのだろう。部屋の真ん中にダブルベッドが、どんと置いてあった。 不思議な事に枕元に一メートル四方の花紫のカーテンが不自然に下げてある、光一は気になり江里子に訊ねた。 江里子は一瞬光一から眼を放し少し寂しそうに、そのカーテンの前に歩み寄った。 「私の母です」 と云いながら、カーテンを開けた。 其処には小さな仏壇が安置されていた。 「聖月院貞法妙徳大姉」と刻まれた黒地に金文字の位牌が祀られていた。 光一は今の、今迄の猥雑(わいざつ)な気持ちに水を浴びせられた気がした。 江里子は香炉に線香の代わりに麝香(じゃこう)を焚いた、光一を伴い二人で手を合わせた、柔らかい香りがワンルームだけに忽ち部屋中に漂った。 江里子は光一と向かい合い、 「私が脱がせるわ、処女を喪失する時は、奪われるのでは無く自分の責任で進めたいのです、後悔をしない為にも…」 江里子は光一のワイシャツからネクタイとボタンを、丁寧に外しスラックスを脱がせた。江里子も自分で生れたままの姿に成った、江里子の体は驚く程大きな乳房と肌の色の白さが眩しく、彼女の裸体に光一は眼を泳がせた。 互いにパンテェーも脱ぎ棄て素っ裸に成ると妙に心が落ち着き汗ばんだ身体が気に成った。 「シャワーを浴びたいねえ」 「ええ…」 江里子も頷き光一を伴いバスルームに向かった、二人はシャワーを浴びながら抱き合いお約束の様に接吻をした。 光一はやはり江里子は本当に男を知らないのでは無いかと思い始めて居た。 シャワーを浴びながら光一と離れようとしない江里子の股間に手を遣り優しく指で触り、中指の先を注意深く陰部の中に入れた、江里子の荒い呼吸を鎮める様に光一は江里子の耳元で囁やいた。 「ママ愛して居る、こう云う事に成って僕は嬉しい、好きだ」 江里子は恥ずかしさも父からの威圧感も忘れ三十にして知る男との行為に何の拘(こだわ)りも戸惑いも感じ無かった。 「ママは嫌、江里子って…あっ、痛い…」 江里子は針で刺すような激痛に短く言って光一から離れ様とした。 「始めだけだよ、痛みは女として厳粛な子孫繁栄の為の、精励な儀式で誰もが味合わねば成らない通過点だよ」 「貴方はどうなの、貴方だけは気持ちがいいんじゃないの、男だけがいい思いをしているのでは不公平だわ」 光一は素直に頷き… 「始めはねえ、うーん、いきそう…駄目…江里子さーん、いっちゃう」 悲鳴に近い声を上げた、同時に江里子を抱える様に持ち上げペニスを奥まで瞬時にねじる様に押し入れた。 「ああ、イーターイ…」 と江里子は金切り声を上げた…足もとに一筋の鮮血が糸を引いていた。 光一は何故か過去の数人の女の顔を思い浮かべたが、此の娘と結ばれる様な気がした。 シャワーの湯が少し熱くなってきた。 「ねえ、もう終わったの」 「いや最初だから余り悲しませたく無かった それに恐怖感を無くしたかったしセックスは此れからが始まりで女性も段々良くなる」 「そういうものなの?…ねえ私少し寒くなったわ、ベッドに入りましょう」 互いに身体をタオルで拭き合い、ぶるぶると二三度身体を震わせ急ぎ足でベッドに素っ裸の侭向かった。 当然の如くベッドの中でも絡(から)み合った。 若い光一には先のセックスで萎(しぼ)んだペニスは、見事に回復、唇と舌、指と使い江里子を興奮させ荒い息をリズム良い愛撫に専念した。 然し江里子には大した変化は見られなかった。 翌日も光一は江里子に変化を求め午後迄努力したが変わらなかった。 いずれにしても着替えの事も有り、中目黒のアパートに一度帰らねばと、江里子の身体から離れようとした時、唐突に江里子が 「私変です体中が熱く全身の力が頭に集まりふわりと浮いている感じです」 光一の全身全霊の愛撫に江里子の昂ぶった身体の力が脳に集中したのであろう… 「光一さん、ずるいわ、もう少し入れて」 身体を、捩り(よじり)大胆に光一を迎え入れた。 「江里子ママ腰を少し持ち上げ左右に動かして力んでみて」 光一は江里子の身体の奥までペニスを入れた、大胆に腰や首に力を入れさせ、自分は下に成り江里子を馬乗りにした。 「ああーん」艶っぽい声と乗馬スタイルがお気に入りか光一の胸や顔に唇を押し付け股間と脳の一体感に身を反らし小刻みに動かした。 「江里子ママは色白で肌の肌理(きめ)が細かい…すべすべしている」 「うーん光一さん、自分が無く成るみたい気持ちがいいって云うか変わってきたわ」 「うん、初めからオルガスムスに達する事は無いと思う…何回か経験して良くなるものだ、ゆっくり二人で楽しみながら頂点に達しよう」 「どの位かかるの?」 「人によって違うが一生味あえ無い人もいるそうだ、でもママが感度良好だとしても昨日、今日では無理だよ」 「そう云うものなのセックスって?私はどうかしら…若し不感症なら駄目だわねえ」 「よし来週から土日の休みは情交実習で教えよう、その代り栄養のある物を食べさせて、買い物以外、外には出ない、誰か訪問者が有っても居留守を使う、週末は君と僕だけの世界で過ごす」 「ええ、何だか面白そうねえ、遣るわ」 「江里子ママ、メンタムも用意して置いて」 「あるわよ」 棚にあったメンタムを光一に見せた、光一は頷き苦笑した。 結局その日は江里子の身体に其れ以上大きな変化は見られなかった。 光一は三時過ぎに江里子のマンションから中目黒に帰って行った。 江里子は窓から光一の後姿を見送りながら、此れ迄に無い一人ぼっちの侘しさを感じた。今迄一人の生活であったのに何故か人恋しさが身に滲(し)みてきた。
耳年寄りの江里子には決して満足したセックスでは無かったが、初めて男の肌に全身で触れた感触は温もりと共に体から離れず、耳の奥に夫婦の和音が聞こえ残った。 翌日、光一から連絡が無く、今日こそは電話が来るかと彼からの電話を、日毎待ち詫びる落ち着かない日が四日続いた。
こんな気持ちに成るのなら鍵を渡して置けばよかったと後悔をした、何度かこちらから携帯に連絡を仕様かと思ったが、銀座のママ…江里子のプライドが許さなかった。 純情そうで可愛い坊やだと思って居たのに、電話も掛けて来ない…と、苛立ちともやもやした気持ちの中、金曜の男の日がやって来た。 流石に仕事を離れた気持ちで、金曜日は江里子に取って落ち着かない夜となった。 そんな日に限って、父が大事な客だと云って早い時間から五人の客を連れて来た。 例に依って父は江里子、江里子の連呼で席に張り付け座らされた。
五人の内二人は日本語が少しと云うフランスのバイヤーで有った、当然の様に通訳を兼ねた接客をさせられた、いい加減飽き飽きし出した九時過ぎになって、待ち兼ねた光一が遣って来た、江里子は直に気が付いたが、何故か父に知られたくない気持ちがして光一の傍に行く事を控えた。
光一はホステス達の顔を見る事も無く江里子を目で追い、右手の奥の席にカウンターからは、後ろ向きに座っている姿を横目で確かめ、何時もの丸椅子に腰を下した。 いらっしゃい、の女達の声に光一が来た事は知って居る筈なのに傍に来る様子は無かった。 会長の席には三人の女性が付き後の二人も四人客の席に付いており、光一には江里子以外に付く女性は居なかったが見向きもされなかった、
光一は男の僻みからか先日のセックスに対する不満から、光一を軽視し無視しようとし て居る様に思えた、江里子との間に壁が出来たと気詰まりを直感した、矢張り電話をするべきで有った…と後悔した。 仕方無く陽介を相手に飲み始めた、暫くして江里子はカウンターに遣って来た。 「いらっしゃい光ちゃん」 何か客に出す物を作って居る陽介に気付かれない様に、光一の手に鍵の様な小さな物をそっと渡した、光一はカウンターの下で受け取り手を広げ鍵である事を確認した。 光一は江里子の顔を怪訝そうに見て… 「これは……」 と声にはしないが顔で問いかけた。 江里子は頷き満面の笑みで答えた。 「先に……ね」 光一の耳元で囁き…陽介に…… 「光ちゃんに私からボトル一本プレゼントね」 と云った。陽介は咎める事無く「はい」と、ナポレオンを棚から下ろし光一の前に置いた。 光一は驚き慌てて、ぴょこんと頭を下げ江里子の顔を見て…丁寧に 「頂いても良いのですか?」 と怪訝そうに云った。 江里子は光一に何か書いたメモをボトルの下に差し込んだ、光一は素早く抜き取り読んだ。 「先にマンションに行って居て下さい、成るべく早く帰ります」 と書かれて有った、先に…ね…の意味は此の事か、と流石の光一もにやついて終った。 「今夜のお客様は会長の大事な友人ですのでチー子と飲んで頂戴、ご免なさい」 とチー子を呼び元の席に戻って行った。 光一はチー子と適当な冗談を言って一時間足らずでエリナを後にした。 店を出て暫くすると江里子から携帯に電話が掛かって来た。
「光ちゃん、私、エントランスのオートロックナンバーを書き忘れたわ、貴方覚えて無いでしょう六桁なの、012-018…母の命日です十二月十八日覚えてね」 光一は頷き繰り返した、そう言えばエントランスのオートロックナンバーは知らされていなかった。 「012-018ですね、ああ、それから冷蔵庫に何かありますか?僕が手料理を作っておきます、ケーキも買って帰ります」 光一は、帰りますは可笑しい、未だ二度目なのにやはり伺うだろうと気が付き言い直した。 「先に伺っています、何も買わないで帰って来て下さい」 「あら、お料理出来るの?」 「まあ何とか,美味いかどうかは食べて見てのお楽しみです、勿論江里子ママの様にはいかないと思いますが?」 すき焼きの材料を支度して置いたのだが分かるかしら…と思いながら… 「そう、楽しみだわ」と電話を切った。 光一は話をしている間、又店に戻りたく成ったが、それでは二人の仲が周りに知られてしまう、マンションでと誘われた以上マンションで待つのが良い、光一は誰も居ない独り住まいの女の部屋に、鍵を預かったと云えども気が惹けた。 光一は時間も有る事だし、銀座を当ても無く歩きケーキを買い地下鉄で広尾に向かった。 玄関の前で光一は不安と戸惑いの入り混じった複雑な心境で012-018とオートロックのキーを叩いた、重そうな厚いガラスのドアーがごとがた音をたて徐(おもむろ)に開いた。 何もやましい事は無いのだが、辺(あた)りを見回し中に入った、人の気配の無いのを確認、素早くエレベーターに乗った。 それに未だ、七O六号室の部屋の扉を開けなくてはならない、幸いエレベーターは七階まで止まらずに着いたが、此処でも左右を見て無人であるのを確かめ、足早に七O六号室に辿り着きキーを使って身体を滑り込ませる様に入った。
「ふーう」と長い息を吐き、息を吸い込むだけで吐くのを忘れて居た事に気付き、酸欠に成って居る自分に、我ながら小心者で有る事を認めざるを得無かった。 光一は奇麗に掃除の行き届いた部屋を見回し江里子の肌の温もりを思い出しながら冷蔵庫の中を見た。
美味そうな牛肉深谷葱、白滝、焼き麩、エノキに豆腐、とすき焼きの材料が入って居た。江里子は金曜日の男の為に、すき焼きを二人で食べ様と買い物をして置いて呉れたのだろうが、これでは腕の振るいようが無いと光一は苦笑しながら葱を洗い切り、他の材料も水洗いして皿に盛った。 江里子は十二時十分に帰って来た。 「只今、お待たせ」 江里子は手を洗いテーブルにセットされて居るすき焼きに感激、 「直ぐ食べられるのね、光ちゃんすき焼き…って分かったのねえ…嬉しい」 ガスに点火仕様とする光一の手を自分の首に回し、光一を押し倒し口付けを求めてきた。今迄見せた事の無い江里子の積極的な変貌と行動に驚きながらも、少しアルコールの匂いのする江里子の口臭も気にせず光一も負けずに応えた。
此の侭ベッドインかと思われたが、江里子は空腹だったのであろう、気を持ち直して… 「一週間って長いわ、毎日、此処へ帰って来てくれないかしら?ねえ…良いでしょう」 江里子の甘える声に光一は、此の部屋に辿り着く迄の思いが脳裏を掠め、曖昧に返事をして江里子を促し…… 「ね、食べよう…お腹が空いているでしょう」光一はガスに火を付け、肉を鍋に入れた、野菜豆腐も入れ「甘口?」と、訪ねた、 「ええ、少し甘めの、甘辛口かしら」 「そう,甘めの濃い口だね」 光一は鍋奉行宜しく煮始めた、江里子は光一の手際の良さに見惚れながら、新たな光一を見出し、一緒に暮せそうな、いやもう何年も暮らしてきた生活感を感じた。 考えて見れば母が亡くなって以来十年、一人暮らしを強いられ、傍目には自立をしていた様に見えて居ただろうが、只、一人で暮らして居たに過ぎない。それも父や義母から逃れる為の自己中心的な行動であり、父の経済的な支援の上で成り立っているのだ。 「良く煮えてきたよ」 光一の言葉に江里子は取り皿に卵を割った。 「ええ,頂くは…」 江里子は肉を、器に溶いた卵の中に入れ、頬張った、嬉しくて涙が出そうな気持ちを抑え、 「いい…お味,美味しいわ」 光一も肉を口に入れ、 「うん、」 と頷き上下に細かく首を振り、 「美味い、肉も上等だし、君の様な美人と差し向かいでは云う事なし、申し分ない」 江里子は…君の様な美人…のセリフにあらためて他人を感じさせられ、未だ遠くに居る冷たい壁の有る事を知らされた、江里子は咎める様に光一に云った。 「何処の誰に、気を使って居るの?江里子と呼んでいいのよ」 光一は慌てて否定した。 「女人の館に留守に上がり込み家政夫の真似をした性かなあ」 「ふふ…家政夫…ね…夫の方ね…」 夫の言葉に力を入れ、じゃれあう様な会話をしながら、互いに食事の後を思い浮かべながら腹の空いた二人は見る見る鍋を空にした。 「ご飯を入れておじやに仕様か?」 「ええ、子供の頃父が、卵の溶き具合にこつが有る、と云って作って呉れたわ」 「では、今夜は僕が作ります」 光一は子供の頃を思い出して居る江里子に… 「会長と同じ様に作れるかなあ…」 と云ってご飯を鍋に入れた。 ぐつぐつ煮えたところに卵を割り、火を止めた。「思い出すわ、此のタイミング父と同じ様だわ、卵を割っておじやを掻きまわす事が料理だと思って居る父が、苦虫を噛み潰した顔で真剣に作って呉れたのを思い出すわ」 江里子は茶碗に、おじやを注ぎながら幸せな気持ちに浸った。 自分で食事を作り、鍋を空にする事は有り得ない事である、光一にしても同じ思いで有った、結婚生活へと進み、子供が一人二人出来たとする、それは立派な家族と成る。 未だ江里子にとって夢でしかないが、現実への一歩にしたい気がしていた。 空(から)のすき焼き鍋を見ながら、子離れを強いられた娘が親離れをしていく。 万物の生き物が子孫を残すと云う使命は、それらの霊長である人間も当然子孫に対する執着は義務的行為として成さざるを得ない。 幼い頃から両親より節度ある喜怒哀楽、理性有る行動、礼儀を弁(わきま)え向学心を以って日々精進せよと教わって来た、全ての人々が其の通りの教育を受けて居るとは限らない、地域や社会の変化に依って異なるが、江里子も東京での概(おおむ)ね同一の教育を受け、外国生活でその土地、地方のマナー、身近な親や先輩の習慣を身に付けて来たが、江里子は六十億分の一の男を愛する事で、物の見方が大きく変わり善悪は兎も角大人に成って居る気がしていた。 跡片付けをしながら江里子は、照れながら改まった訊ね方をした。 「お風呂にします?」 光一は先週の江里子の裸を思い浮かべながら弾む心を抑えて短く返事をした。 「うん」 光一は返事をして洗い物をしている江里子の後ろ姿に改めて見惚れた。 二人はシャワーで無く湯船に湯を満たしゆっくり湯船につかった。 少し窮屈だが、体の密着する部分が多く若い二人には刺激と成った、互いにすき焼きの香りも気に成らず唇を重ねた、光一のペニスは若さの象徴とでも云うか見事に天を仰ぎ江里子の身体を求めた。湯船の中で二人は立ち上がり其の侭淫行に走った。日常の苦労を全て忘れ頭の中を無にして、江里子は光一にしがみ付いた。 光一の生暖かい異物がぬるりと江里子の股間に侵入して来るのが分かる。 「うーんああ…」 江里子の切な声に光一は激しく江里子を揺する、その顔は何かを探し求め様として居るのか、美しく歪んだ顔が堪(たま)らなく可愛く思えた。 暫く湯船での行為は続けて居たが、江里子には快楽の喜々は訪れて来なかった、辛抱仕切れない光一は果てた。 「少し眠ろう、英気を養う為に…回復は明日への幸せとなる」 光一は意味の分らない事を云った、江里子も唯頷き、バスルームを出てベッドに向かった。 二人は紫のカーテンに手を合わせて… 「お休みなさい」 と云って光一と江里子は先週と同じ様に抱き合って目を閉じた。 光一は左手を江里子の手枕に差出したまま直ぐに眠って終った。 朝の光がカーテンの隙間から洩れて光一の眼を射(さ)した。 左手が動かない、しびれて居る、江里子の頭が載って居た為だ、静かに外し左手を何回か回しながら洗面所に向かった。 新しい歯ブラシとチュウブの歯磨きがタオルの上に用意されて居た。 歯を磨き出したら江里子が目を擦りながら近付いて来た。 「おはよう、早いのねえ」 「もう九時を回って居る、早くは無い」 「でも今週も頑張るのでしょう」 「そうだ早く口を洗って、出来れば顔も」 「お風呂に入ろうか?」 「うん、でも、昨日の疲れが出ちゃうのではない」 江里子は光一の股間を見ながら… 「様にならないって事ね」 江里子の口から大凡(おおよそ)似合わないセリフを訊き、光一は少し驚いたが澄まして… 「まあねえ」 と苦笑しながらタオルで顔を拭いた。 「男の朝は強列だから覚悟してね、一気に大学生に戻れるのだから」 江里子は夕べの光一の大きさに驚いたが今朝はもっと凄いと云うのだ、股間にボールが挟まって居る感触が未だ残って居る。 それに先週程の痛さは無いが違和感は消えずぎこちない歩き方をしていた。 「そうなの?」 江里子は語尾を上げ期待薄の様に気の無い返事をした。 「顔を洗って何か朝ご飯を作ります」 光一はベッドに潜(もぐ)り込み「うん」と云った侭、又眠って終った。 どの位眠ったか、頬っぺたをスプンで叩かれている夢を見て目が覚めた。実際に叩かれて居たので驚き慌てた。 「ご免又眠ったらしい…」 「起こすのが可哀想に思え寝顔を見て居たわ、優しい、良い寝顔だったわ」 光一は両手で江里子を迎え様としたが江里子は首を振り、 「食事ができたわ」 江里子はガウンを着て居たが中は素っ裸の様だ、光一は立ち上がりながら、よろめき江里子の胸に手を入れた、案の定ガウンの下は何も着て居らず素っ裸である。 光一は朝の剛球を味あわせたくなり、そのまま江里子を抱き上げベットインした、くどい前戯より回数を選び突入した。 光一が江里子の臀部に両手を回し持ち上げた、明らかに江里子の表情が何かに絶える様な硬直した顔に変って行くのが分かった。 「痛いの?」 「ううん、様子が変なの、何故かくすぐったいって云うか、でも心地よい感じ」 光一は頷き強く江里子の身体を抱きしめ耳元で囁いた。 「少し腰を浮かして両方の足の指先に渾身(こんしん)の力を入れ両手で僕を抱きしめて」 「こうですか、ねえ…ああ…気持ちがいいわ」 「休まずに力を入れ、腰を左右に少し動かして、そう、いい、江里子いいよ、愛して居る」 光一の言葉に刺激されてか江里子も、 「好き光一さん大好き私嬉しいわ…あら、いい気持ちだわ…あら、どうかしたかしら私、気絶しそう、昨夜と全然違うの?」 「僕も良い気持ちだ、いきそう」 「待った」江里子の大声に驚かされ光一は射精を思(おも)い留(とど)まった。 「脳が破裂しそう、陰部から伝わる凄い昂揚が、うねりとなって全身に襲い掛かって来るわ、こう云うのを、いっくう…って云うのねえ、貴方、私いくう…光一さんいい」 二人は一緒に果てた、暫く江里子も光一も動く事が出来なかった。 「此れがセックスなのねえ」 江里子は感慨深げに呟いた。 同時に此の快感を五十歳で母を亡くし一人身に成った父から奪おうとしていた自分の卑劣さと愚かさに気付かされた。 母の生存中は仕事にも家庭にも良き父で有った、寧ろ母の方が父に対して我が侭であった気がする。今の義母が母の生存中からの付き合いで有ったか、どうかは定かではないが、母の死後も自分を此処迄育て、帰国後の我が侭を訊き入れバー・エリナまで開いて呉れた。父の経済的な負担は幾許(いくばく)で有ったであろうか、父と義母達の新婚生活の都合と言えば其れ迄だが、六年もの間留学させ、それに必要な費用、全て支援して呉れた。 父の負担の大きさは今の江里子には賄(まかな)い切れる金額では無い。 女は二夫に見(まみ)えず、と云うが男ならいいか?と理屈を捏ねては、父に反抗した事に申し分け無さと、己の幼稚さを恥じ入り今更ながら父に謝罪の念が沸々と湧いて来た。 夫婦って何であろう、貞操観念、独占欲、家族そんな文字がぐるぐる頭の中を行きかう、周りには多少不文律と見られても、性本能が独り歩きして他を寄せ付けず互いに一つ一つ欲望が満たされ愛を育む生活は男女の絆は我が子にも勝るものである、父達をもっと早く許さなければいけなかったと江里子は思った。 江里子は此の男と生涯の道を歩むかは未だ不確実であるが、近い将来可なり高い可能性が有ると強い期待感を持った。 義母の存在を除けば当然、父と娘の絆は江里子の幼い頃からと変わって居ないが、光一と結婚すると成れば父の庇護を受ける事無く独立し、互いに別の道を歩む事に成る、其れは光一を間に父との距離が遠く成る事にならうが、それぞれの立場から互いを冷静に見詰め、江里子は義母と父を世間一般の夫婦として認められる気がした。 人間の本能の欲望が一つ、一つ満たされる事により理性の範囲が広くなる。個人差はあるにせよ、法に反しない限り男女の在り方は自由で有る、江里子にとって義母で有っても父には妻で有り後妻と云う呼び名以外社会の秩序を乱し後ろ指を指される事ではない。 江里子は三十歳にして男女の昼と夜の顔を普通の主婦よりエリナを通し理解している筈であった、江里子自身の性に対する蕾(つぼみ)が膨らみ花開く事で、父の夫婦生活が本能に忠実で有ったと理解、認めなければならないと思った。 元は一つ家(や)だった父と娘が、二組の塒(ねぐら)を持つ事により、今迄の別居では無く核として独立独歩の歩みをして、親達も若い未熟な頃成長したと同様に、子も成熟して行く、互いを認め合い安堵して見守り過ごしていく事が正常なのだ、誰もが健康に於いては不(ふたし)確かで有るが、少なくても今の親の矍鑠(かくしゃく)とした姿を喜び、歳月の差こそあれ老いて何れ自分も逝く宿命を持った者同士、その生き様は当人の自由で、他に類を及ぼさない限り父の思いの侭の姿は父の生き方を中傷する事は出来ない、娘と云えども立場は第三者なのだ、少女趣味的な批判、反発ではなく二人の人生を娘として過去も未来も江里子は認めるべきであったと悔いる、父と娘の信頼こそが社会的プライドを高める事と成る、自立した者同士が其の環境に相応しい地位を得る。其の環境に誇りを持ち常に進化する事で有り、自立は親と子の巣離れで有り、人間のみならず世の生物の親離れ、子離れは定めで有る。遠い親戚より近い他人と云われる様に、親類縁者と云えども交流の希薄さから、元を辿れば…と云うだけの儚い血族関係と成って行く事も珍しくはない。其れは兎も角、江里子も光一と云う相棒を得て一国一城の核の完全自立を互いに確約した以上、人生のスタートを親に知らせる義務が有る、其の上で親と子の絆、信頼を築き尊重し合い大人の社会人として認めて貰わなければならないのである。 江里子は父を反面教師とし、純潔を守る事で父に反抗してきた。夜の仕事をして分かった事は男の姿の莫迦さかげんで有る、昼間は紳士然とした社長部長も、夜は唯の男…酷くは女に対して財力をちらつかせては野獣と化す。 卑猥な話に、娘と変わらない歳のホステスに世辞を使い、一夜の遊興に耽け享楽すら求める、彼等の最終目的は尽きる処、男女の情交なのだ。江里子は光一と交(まじ)わった事で、妙に父や義母、夜の紳士達に対する気持ちが、今迄の嫌悪感が客観視でき蟠(わだかま)りが消えた、其れに今肌を合わせて居る光一を愛おしく思った。 義母は父を労わって呉れ、後妻と云う言葉と江里子を除けば、仲の良い熟年夫婦で有る事に違いないのだ、如何に自分の存在が邪魔で有ったかを思い知らされる、今後も父を宜しくと云わねば成らないと思う気がした。 江里子はゆっくり光一の身体から離れて、軽くキスをした。 「お風呂に入る?」 江里子は見た事も無い明るい表情で光一をバスルームに誘った。 「此処へ、引っ越して来ない?」 「何時から?」 「明日でも…早い方がいいわ」 「大家との契約も有るから、身体だけなら…」 「ええ…それでも良いわ、もう離れたくないの、昼は仕事だから仕方が無いけれど一日も離れたくないわ」 江里子は観念的に夫婦とは女が一つでも二つでも若いのが望ましいと思って居た、一つ年上と云う事で、善悪(よしあし)は兎も角光一に言葉に成らないハンデを感じていた、光一を放したくない気持ちとエリナでの馴染み方に、若い客と云うだけで粗略な扱いが有った事はいがめない、体を許し合ったからと云って、今更旦那様と云う感覚は持ち難く気恥ずかしさが有った、情交とは妙な魔性が潜んで居た、性欲に対する男女の逆転は年齢を忘れ女性が本来持つ母性愛とは異なり、快楽を教えて呉れた男をひと時も離したくない独占欲が江里子の心に宿った、江里子の様な職業の女は夜の男の醜さを見て居るだけに、三十に成らんとする男の過去に女の影が無い筈が無い、他の女に取られる事も貸す事も許す事は出来ず光一を毎夜傍に置きたかった。 然し、如何せん仕事に於ける時差は侭に成らない、光一にしても二年前江里子と遭遇してから、腐れ縁的な女性が居たのだが光一の煮え切らない態度に諦め他の男に嫁いでしまった、以来異性とは雪解けの春の様に跡形も無い、江里子に対する気持ちは江里子に似た同じ思いで有るが、さりとて光一が会社を辞めエリナのマネージャーに成るわけにもいかない。 「金曜の夜、店に来て毎週末は広尾で過ごして月曜の朝は、広尾から出勤って云うのは駄目かしら?」 光一は、そんな江里子の顔を眺め、本心なのか信じ難い気持で有った。 「子供が出来たらどうします?」 江里子は迷わず光一の顔を真っ直ぐに見て… 「産みます…」 光一と江里子の間に、隔たりの無い晴れやかな空気が漂い二人は見詰め合い、一瞬の沈黙の後光一は迷う事なく言った。 「江里子、結婚しよう生涯の妻と成って呉れ」 江里子は澱みのない大きな眼を光一に向け、 「ええ、夫と最初から決めて居ます」 二人は必至と抱き合い熱い接吻をした。 江里子は自分の年齢を忘れて居た、二十二三に戻った様で甘酸っぱい熱烈な恋愛の雰囲気に溶け込んで居た。光一が自分より年上に思え、夫婦の成立は年齢では無く互いに頼り、頼れる気持ちを持ち支え合ういが大切なのだと互に云い聞かせ一家が築ける気がした、ウーマンリブの世の中、女性上位も意外に好結果な生涯を得られる様に思える、昔から「かかあ殿下の家庭は上手くいく」と云われて居る。 江里子は端正な光一の顔を眺め、納得したかの様に彼の耳元で呟いた。 「貴方が好き…大好きよ、だから私から離れないで、何時迄も一緒よ、死ぬ迄ねえ…」 涙を大きな目に溜めて何時迄も光一の首に手を回し光一の眼を見詰めた。 「ああ、約束しよう江里子も同じだよ、僕の給料で貧しくても暮らすのだよ、派手な事は出来ないが、今の社会で暮らせるだけの給料は貰って居る、苦労を掛けるだろうが頑張って生きて行こう」 江里子は今迄待って居て良かったと心から思った、光一の一言一句に誠意が漲(みなぎ)り永遠の愛を感じ、大きな目から又涙が溢れ、光一の顔が潤(うる)んで見えた。 光一は会長が気に成り逢わねば成らない、過日、店で礼を正し挨拶をして置いた事で罵倒される事だけは免れるだろう、が不安の思いが光一の脳裏を埋めた。 「会長には何時(いつ)会いに行こうか?…」 「ええ、貴方の都合でいいわ」 「早い方が互いにスッキリするだろう、此の間カウンターで紹介された時の事も有る,勘の鋭い会長の事だから、あれ以来気にされて居ると思うよ」 「ええ…そうですね、父は一目で見抜く鋭い野獣的感覚が備わって居ます、多分次にエリナに来た時は私を見て…女にされたな…と云うでしょう覚悟はしています」 「思い切って明日の朝、会社に出社する前に寝起きを襲って見てはどうか?」 「ふふふ……別に悪趣味じゃ無いけど、若い妻と抱き合って居る時刻に急襲するのも悪くないわねえ」 江里子は光一との事を思い出しながら父の姿態を想像して、火玉を全身に受けた様に体が熱くなるのを覚えたが、ひと頃の様な義母に対してジェラシーは感じなかった、江里子は熱い眼差しで光一を見詰め頷いた。 「それ程悪趣味じゃ無いが、こう云う話は午前中でしょう、其れに早い方が良い」 「ええ,そうねえ分かったわ、何れ通らなければ為らない道だから、何時迄も、くよくよするのも嫌だわ」 流石に江里子は素早い、その場で直ぐに父に電話を入れた、会長は江里子の言葉に、頷いて居る様子であった。 翌日二人は池田山の会長の家と云っても元々江里子も住んで居た家で、勝手知っての気軽さから彼女は自然な振る舞いで、鍵を使い母屋の勝手口から入って行った、間もなく玄関を開け客として光一を迎え入れた。光一も彼女が鍵を持っていて何の不思議も無いわけで何と無く安心して頷いた。 江里子は改めて笑顔で光一に会釈した… 「お早うございます、いらっしゃいませ、どうぞお上がり下さい」 光一は改まった江里子の変わり身に苦笑しながら軽く会釈して玄関に入った。 「おはよううございます」 江里子の演技に合わせ軽い挨拶を交わした。 「此れ、お口に合うか、どうか分りませんが会長にお渡しください」 と昨夜広尾の明治屋で買ってきたコニャックを差し出した。 江里子は真面目な顔で両手を出して、 「お気遣い頂きまして有り難うございます」 光一の差し出すコニャックを受け取った。 「江里子、玄関先では無いか、何時迄田舎芝居をしている、一緒に来たのはエリナで会った青野光一だろう」 江里子の立って居る処より少し離れた後ろから、グレー一色のガウンを着て立って居た。早朝と云う事でも有り不機嫌な会長は怒った顔で噛み付く様に、例の大きな地声が玄関に鳴り響いた。 中庭から差し込む朝の光が逆光で、玄関の扉を閉め立って居た光一は、命迄は取られまいと腹を括って居たので、会長の姿が遠景の中の人影にしか見えず、グループの総師と云う威圧だけが光一を覆っていた。 会長は視線を江里子に戻し、舐める様に江里子の全身を眺め…唐突に言った。 「江里子、遂に女にされたなあ」 視線を光一に移し、暫く無言で光一を睨んだ。 嫉妬とも憎悪とも付かない、父と娘の遠くなる距離に、複雑な寂しさと憂いを含んだ目で見詰められた、三田コンチェルのトップ佐々正二の威風では無く、娘を取られた寂しい父親の姿が肩を落とし、目だけぎょろつかせた言動に怒りが表れ江里子と光一を交互に見比べ、光一に鋭い眼光を残した、気不味い静寂が数秒流れ、江里子にも光一にも僅かな十秒にも満たない時の流れが数分に感じられた。 江里子は流石に恥じらいを隠しきれず項垂れ父の顔を見て会釈した。 「お早うございます、起こして仕舞った様ですわねえ、お知らせしたい事が有りまして伺いました」 其れでも江里子の口からは思いとは逆に、此れでお互い様、ヒフテーヒフテーと云った強気の言葉で父を見返す様に云った。 会長も臆せず頷き、江里子に低い声で云った。 「応接間に来なさい」 会長は江里子の顔だけを見て苦り切った表情で云った、が光一は無視されていた。 江里子はスリッパを揃え光一の前に出した。 「どうぞお上がり下さい」 江里子は完全に此の家の一人に成って居た。光一は靴を脱ぎ揃えてスリッパを履いた。 会長の…来なさい…と云う言い方が親子で有り、親が娘を叱る時の口調其のものに聞こえた、つまり光一は粗大な息をする人形的存在であった、此の家は江里子お前の屋敷なのだ、改めて先程の芝居の意義の真意を確かめる為、江里子に其の続きを聞こうと云う静かだが鋭い重圧がその場に漲って居た。 光一は応接間に通され改めて佐々の姿を見て、先程見せた寂しい江里子の父でもエリナで酔っぱらう佐々でも無かった、初めて光一の存在に気付いた様に、無言で光一の心底を見抜こうと又も厳しい目を見けられ、江里子との情交を見透かされ憤怒の極限に達している気がした、光一は今後義父に成る人と云うより親会社の会長の地位でしか、接する事が出来ない思いが強くなった、其れだけに会長の存在感と其の威圧は光一を委縮させた。 会長を前に江里子、光一と並び座った。 応接間には既に秋子夫人が、お茶の支度をして待って居た。 くすんだブルーの淡い地色に、細かい桔梗の花の地紋だけの、上品な御召(おめし)縮緬(ちりめん)に細めの博多帯を締めて居た。 光一の母が色は違うが御召縮緬は好んで着て居たので、光一は一瞬母を思い出した、それにどう云う訳か江里子にも顔立ちが似て居た。 整(ととの)った顔立ちに色白の美人である。江里子とは九歳年上、然し若作りの性も有り、二人に取って五つ六つ上のお姉様と云う感じである。佐々会長の好みの良さが伺える。 江里子は秋子夫人の美貌にライバルとしての嫉妬が、心の底に有るのでは無いかと思われた、俗っぽく云えば悋気(りんき)とも取れる。 光一は会長夫人として丁重に挨拶をした。 「初めまして丸三商会の営業課に勤務致して居り青野光一と申します、本日は早朝より突然伺まして重ね重ねの御無礼、お許し下さい」 秋子夫人は慣れた物言いで、 「主人が気安いものですから他のお人も時間を気にせず良く来られます、珍しい事では有りません、お気になさらないで下さい」 光一は「恐縮です」と頭を下げた。 秋子夫人は光一を観察してゆっくり江里子の方に顔を向けて、 「江里子さんお久し振りですね、お元気?」 江里子は別居して居ても会長が元気に生きて居る内は此の家は自分の家で有る、庭石にも草木も子供の頃から慣れ親しんだ想い出深い物ばかりで江里子は全て己が物と思って居た。義母にも当然認めさせて居たと思って居たのだが、其の思いは水泡に帰した,秋子夫人の江里子に対する態度は来訪者としての言動で、よそ者扱いを顕(あら)わにした、其れを駄目押しする言い方で… 「皆さん、緑茶と紅茶、コーヒーお望みを、仰って?…江里子さんは何がお好きでしたかしら…貴方は煎茶でしょう」 完全にこの家の娘では無く親しい友人かお客様扱いである、会長はそれを咎める事も無く、夫人の顔を見ないで極…自然に云った、 「うん、僕は煎茶をくれ」 秋子夫人は頷き光一を見た、江里子は闘争心も露(あらわ)に幾分苛立つ物言いで秋子に云った。 「あたし達も煎茶でいいわ…それに少しお腹がすいているの…何か頂く物有る?…」 女中に云いつける様な言い方をした。 「いや待て、用向きによっては食べ物を変えねば成らないかも知れない」 「はい、江里子さんはお寿司がお好きだったのよねえ」 矢張り秋子の言葉にも険が有った、こんな早朝鮨屋は営業している時間ではない、我が家には貴女が食べる物の無い事を江里子の好物をあげ拒否した。 光一は腰を浅くソファーに下し膝を揃えて、覚悟を決め訪問の趣旨を告げた。 「佐々会長、何とかご承知頂きたいお願いが有って朝早くから押し掛けて参りました。実は江里子さんを私のお嫁さんに頂きたいのです、どうかお許し下さい…」 会長はズバリ言われて暫し絶句した、唐突で光一の単刀直入な申し入れは事後報告的で佐々は虚を突かれた。 二人揃って朝早く来たからにわ、目的は其れで有ったのだろうが、可なり心の準備はしていた積りの佐々も、光一の率直な物言いに面食らった。 さりとて、はい、どうぞとも云えない、況(ま)して駄目出しは娘との確執も有り彼女の性格上、逆にたった一人の娘から絶縁もされ兼ねない。 「内山君の処に、勤めて居るのだったねえ」 佐々は話題を光一の身元調査に変えた。 「はい、丸三商会の営業です」 「君こんな、じゃじゃ馬の何処がいいのかね」 江里子の欠点を露呈して見た。 光一は江里子と顔を見合わせ微笑み…それは承知の上と…同時に頷いた。 「はい、生涯の伴侶としてお互いに話し合い納得の上で決断しました」 「ほう、上手い答えだ、お互いに嫌に成ったら別れるのか?」 佐々は皮肉を込めて云った。 「いいえ、その様に単純な思想は私の脳裏にはありません、通常の教育と理性は身に付けて居ます、それに何でもよく話し合いを怠らず致します、人生は再び帰らず、過ぎた過去は大事に経験とし未来への礎(いしずえ)に致します、今を如何に大切に守るか、現状維持こそ未来に繋がると信じています、現在を大切にする事をモットーとして、生活そのものを全て楽しみに変え、生涯喜怒哀楽を与えられた天分として丁寧に生きて行きます」 「優等生の答えだねえ、浮気はするかねえ」 佐々は優等生の光一を冷ややかに眺め、少しからかう様に云った。 「今は全く考へもしません」 「将来、考える事も有り得る、と解釈しても良い訳だな」 「即答をしなければいけませんか?」 「聞きたいねえ、江里子はバーの女で有る以上、男女は互いに夜の蝶と成り戯れ惚れ合うのは毎晩だからねえ」 「結婚と云う形式は女を妻、夫人に変えます夫婦が離婚すれば、妻は只の女に戻ります」 「成程…道理だ」 「どんなに偉くても、書類には夫…妻と書き 独身者は女…男です、人生の振り出しを繰り返す年齢でも有りません、家庭を大事にして広い社会に男として立ち向かって行きたいと考えて居ます」 佐々はこれ以上の会話は江里子の前だけに、佐々の生活姿勢に触れられそうで、佐々自身が寂しくなる、それより融和し互いを理解し合った方が得策に思えた。 「理屈だね、秋子美味い酒を持って来なさい」 「はい…おめでたいお話に成りそうですわ」 「彼らはもう、成っておるわ…」 苦笑いをしながら、確かめる様に二人を見て、 「そうだろう江里子、女にされて居るわ」 江里子は恥じらいも無く父を睨み、悪戯娘らしく堂々と言った。 「いいえ、私から差し上げたのです、三十路に成って彼氏も出来ないなんて人生が哀れすぎます、詰らなく無味乾燥に思えたのです」 江里子は少し間を置き小首を傾げて、父の顔に押さえつける様に云った。 「えーえっ…」と云って憎まれっ子の様に… 「同類相哀れむと云う類似した環境から交際が始まりました…が、光一さんは良い性格で素晴らしい男性である事が分り日増しに江里子の方が好きに成りました」 佐々は秋子との事を其れと無く指摘していると気づいた、藪蛇に成らない内に佐々は又も話題を変えた。 「おい、朝からのろけか、それに同類相哀れむとは何か?」 会長が穏やかな表情で軽く流し、目だけは江里子に向けて、光一のグラスに酒を注(そそ)ぎながら問(と)い質(ただ)した。 「ふふふ…光一さんも若い義母が実家に納まって居られるって事です」 江里子は義母に対して全てを自分に言い聞かせ納めた積りで居たが、父の言い回しが気に入らなかった。 旗色が悪くなった会長は秋子夫人に素知らない顔で言った… 「秋子鮨屋はそろそろ始めて居るだろう、皆でつつこうや」 「はい、どうでしょう、ネタは昨日の物でよければ無理をさせます」 江里子はすかさず、 「私の携帯で電話をします」 江里子の携帯には近所の富士寿司の番号が登録されている。 「あら、ご存じでしたの?」 皮肉たっぷりな言い方に、江里子も負けてはいなかった。 「子供の頃から私の役目でしたから」 会長は笑いながら、 「そう、江里子は電話が好きだったね、今の様に携帯が未だ無くてあの頃は今も有る固定電話だけであった、小さい頃は背伸びをして母さんの邪魔をしていたな」 江里子は秋子の前で父に母さんと言わせた事で…秋子に勝ち誇った気がした、それに父は母の事を未だ忘れて居なかった事で、江里子の胸がキュッと熱くなった。 流石に会長も秋子には礼を欠いた発言だと、はっと気が付いたのか秋子を無視した様に光一に話し掛けた。 「内山君とは顔を合わせるのかい?」 「いいえ、私は年に何回かです」 「うむ、係長だったな…」 「はい、それも営業二課の誤(あやま)り役です」 「誤り役…そんなにしくじりが多いのか?」 「電子部品は輸送上に発生する事も有ります」 話して居る内に握り鮨が届いた。 卓に置かれた鮨を会長は摘まみ口に入れ、 「君達も食べなさい…」 光一の顔を見て何となく嬉しそうに云った。 「結婚すれば光一君は私の倅に成るのだね…そうか倅が一人増える分けだ、秋子芽出度いと云うべきだ、待てよ…お父さんの名前は青野…青野清三って云うのじゃ無いか」 「はい青野清三です、御社の専務を務めさせて頂いております」 「光一さん,貴方は一言もお父様の事を教えて呉れなかったわ」 「おお、青ちゃんだよねえ、青野君か」 「長男は青野一郎です、同じ様に御社の鉄営業の次長を拝命致しております、私は兄と弟の二人兄弟です」 光一は江里子が一人娘で有る事で婿養子も有りうる、期待はしてもいい様に思った。 佐々は何となく光一の値踏みをしていたが其の必要が無くなった、其れより清三が何故三田に入れないで丸三に光一を入れたのか父親の考えを推測して見た。 三田の社内の確執に清三は飽き飽きしたのであろう、社長派専務派、細かくは部長課長とそれぞれ権力を争って居る、それに比べ丸三は内山を頭に統率がとれて居る、息子を派閥の中で苦労させたくなかったのであろう。 八年前と云えば佐々と清三は三田商事の名コンビで正二の二と清三の三を取り鬼の二、三(兄さん)コンビと謳われ、会社の業績を急速に高成長させて居た頃であった。又此処と思った企業同士の合併、買収は熾(し)烈(れつ)を極め猛烈に進めて行った、三田の二三コンビは禿(はげたか)鷹兄さんとも云われる迄名を馳せた。 本来三田商事の佐々が社長から経営権を持つ会長に就任した跡の社長は、青野清三が社長に成るものと誰もが思って居たが、青野は社長も副社長も今泉達に譲り専務に甘んじた。近い将来、佐々に、一度は社長を遣らされると清三は思って居たが、一郎の能力に不安が有り、落とし入れられる事態に成る事を恐れ、社長職を辞退していた。 佐々の二三コンビとしての良心は青野を一度は社長に据える事で友情が果たせ互いに満足出来ると考えて居た。断り続ける清三を再び光一と江里子を絡めれば断る理由が無く成り進められる。 一方、青野清三は、此の時点で佐々会長が清三を社長にさせ様として居るとは?当の清三は夢にも思って居ない。 光一もその当たりの事情は興味も無く、父に迷惑を及ぼすなぞ想定外、只江里子を一心に愛するだけであった。 佐々はこれで次期三田の社長は青野清三に決まった、現社長の今泉仙太郎には気の毒だが丸三の社長にでも成って貰おう、場合によっては今泉の勇退も有りうる、顔には出さないが、佐々の考えは清三中心に瞬時に固まっていった。それに頭の隅に光一を養子に呉れる様に頼んで見様、利己的な考えだが青野を社長に就かせる、佐々はにこにこしながら…上機嫌で二人と話し出した。 「江里子は幸せ者じゃ、若くてハンサムな光一君と夫婦に成れて、向こうのお父さんの知らないのが気に成る…、清三氏の許しだねえ、清三さん許してくれるかね?」 「全身全力で口説きます、昔から父は仕事上の話は家庭に持ち込みません、私達子供の頃から父の幼友達(おさなともだち)以外会った記憶が有りません」 「では社員の一人が訊ねて来た事は無いと云うのかね」 「はい、会社関係の方のお名前は子供の頃から訊かされた事はありません」 光一は答えた。 「当然私の名前も聞かされて居ないのだね」光一は面目無さそうに佐々の顔を見て頷いた。「ええ、大変失礼な事で申し訳有りません」 「立派だ、君の父君はそう云う気骨の有る頑固だが正義感に強い男だ。立身出世の為江里子を選んだのでは無いと誤解されない様に時間をかけ側面から口説いて見様、来週から楽しくなるぞ……兎にも角にも江里子は素晴らしい男性を父さんの前に連れて来た、褒めてやらねばならん、流石俺の娘だ」 「まあ、大変な褒めようです事、女と男は何時どうなるか分りません、安心は禁物です」秋子夫人は、江里子の此の家に対する我が物顔の言動が、気に障るのか少し旋毛(つむじ)を曲げたかの様に不機嫌を顕(あら)わにした。 庭の木々に目を遣り話の中に入る気配を見せなかった秋子夫人に対して、光一自身、粗相は無いと思ったが、江里子に何かが起こればと合図をした、出社時間の事もあり丁重に挨拶をして、お暇(いとま)する事にした。 「そうか会社に行くか、内山君に連絡をして置く少し遅くなるから…とねえ」 「はい、お心ずかい恐縮です、宜しくお願い致します」 佐々会長と義母は玄関から門の外迄出て、二人揃って見送って呉れた。 仕方無さそうな秋子夫人の顔が印象的であったが、光一は少し行って振り返り、未だ立って居る二人に恐宿し立ち止まり向きを変え抵頭した。 佐々が夫人と手を振り、にこやかに笑って居る姿が見えた、遠目だが曇って居た夫人の顔は晴れやかに成って居る様に思えた。
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