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作品名:無鉄砲が成功に繋がる世の中だ 作者:田添田

第1回   第一章・出逢い
青野光一が会長と呼ばれている六十歳絡みの紳士の名前を知ったのは、バー、エリナに通い始めて数ヶ月経ってからであった。
二流以下と云えども銀座に立地するエリナに光一の収入では月二度通うのが許される回数であった。会長と言われる横柄(おうへい)な紳士は、頻繁に来ているらしいが、エリナに光一が行く度に会って居るが口を訊いた事はない、
其の紳士とは十数回以上会って居る筈だが、光一に絡む分けでも無いので騒がしい酔っぱらい位で取り立てて気にする事は無かった、
それに絡まれても困るので成るべく顔を見ない様にして居た、
彼は地声が大きい事も有ってホステスは勿論、その場に居合わせた客の殆どが彼の存在を知って居た、
客の中には親しく喋る者もいれば中には諂う者もいた、大抵は光一が先にエリナに行っているが、会長は怒鳴っているとしか思えない声で江里子は居るか?と店に入って来る、
特にママに対しては馴れ馴れしく其の言動は目に余った、此の店のスポンサーは自分だ、と云わんばかりで嫌(いや)みな言動は傍(はた)から見ていて熟年男の資金力が喋って居る様である。
卑猥な事を云う訳では無いがママの江里子には我が儘の言い放題、勝手気儘な事を喋って居る、虫の居処が悪いと聞くに堪えない暴言もお構いなし江里子に辛く当たった、其れに決してママとは言わず江里子と呼び捨てで有った。
彼の言動は決して店に居合わせた客には勿論の事ホステス達にも良い印象を与えていない。
定かでは無いが万が一オーナーなら客の事も考え店の利益を考慮すべきだ。
そんな思いの中一年近く通った頃から、光一はバーテンの陽介とも気軽に「陽ちゃん」と呼べる仲に成り、若いママの江里子とも冗談とも本気とも付かない意味の無い会話を愉快に交わせる様に成って居た。
光一は江里子と話していると心が弾み、江里子の気持ちがどうあれ自分は今、青春の真っ只中に居ると感じさせられた。
無論光一の独りよがりで多大な勘違いをしているのだろうが、江理子の居るエリナは光一が夜通う何軒かの店の中で最も疲れを癒して呉れ、ママの醸し出すオーラに光一は文字通り虜(とりこ)になって居た。
桜の花の咲く春の夜、会長と云われている紳士が、ふら付く足で乱暴にドアーを開け、小さな玄関に立ち店の中を酔眼で見回した。
「江里子は居るか?江里子は」と、
例の地声で聞き苦しい声を上げた。
此の紳士は何時もの様に江里子と呼び捨てにして店内を見回した。
江里子は三人の客を相手に奥の席に座っていたが、その声に慌てて客に会釈をして、玄関に居る会長の傍に行き迎えた。
「お客様に、ご迷惑でしょう、今夜も酔って居るのねえ」
江里子は以外に、店のママとして客に媚びるような歓迎は無く、ぞんざいな言葉遣いで会長を少し睨む様に彼の前に立っても、いらっしゃいませとは言わなかった、不機嫌に上背の有る会長の腰の当たりを、抱える様にしてカウンターの丸椅子に押し倒す様に坐らせた。
やや乱暴な振舞にも会長は気にする事も無くされるが儘、陽介に水…水と叫び、だらしなく肘を付いた。
江里子はバーテンの陽介に伏し目で頷き;「ご免なさい…、陽ちゃん…お水お願い…」
江里子は会長の心を鎮める様に一言ずつ区切りゆっくり言葉にした。
陽介は会長に氷と水をグラスに入れ一度入れた水を流し,又水を入れ、目礼はしたものの、「いらっしゃい」と彼も云わずに、無愛想にカウンターに置いた。
其の仕草は気に入らない舅(しゅうと)に不機嫌を顕(あら)わにした様に見え、光一は瞬時にママと陽介は夫婦ではと勘繰(かんぐ)った。
会長は光一の隣に座り、光一に気を遣う事無く左右に身体を揺らしながら:勝手な事を喋り出した。
「江里子、若い彼氏は見つかったか?うーむ今夜も美しいぞ…綺麗だ、妙な男に騙(だま)されちゃいかんぞ、なあ陽介」
陽介は、ついでの様に自分の名前を云われても動じる事無く、無言で何かを作って居た。
陽介に相手にされないと分かると会長は、横に座って居る光一に目を向け、暫く眺めて居たが、鋭い眼光を残し江里子に顔を戻した。
江里子は首を伸ばし、会長越しに光一を覗き見ながら、恥ずかしそうに言った。
「ご免なさいね、呑んでばかりで:今夜も飲み過ぎて居るのよねえ」
と、矢張りママにしてはぞんざいに云った;、
「会長、今夜も少し飲み過ぎだわ、これ以上は他のお客様にご迷惑よ」
江里子は会長と話しながら、光一に気を遣ってか、奥の席に付いて居るチー子に手招きで合図をした。
「毎夜遅くまで飲み歩いたのでは身体が参って終う、今に死んじゃうわよ」
その言葉に会長は江里子の両の肩に手を置きしみじみ江里子を眺め、意外に親が子に諭される様に「うん」と素直に短く答へ、陽介の差し出した水を一気に飲み干した。
江里子は会長の呑みっぷりに…
「駄目、駄目よ、一気に飲んじゃ:そんな飲み方はお水でも身体に障るわ」
江里子は水の飲み方を咎(とが)めた。
「うむ,分かっておる江里子は最近小(こ)煩(うるさ)くなってきたぞ、益々誰かに似て…」
と、最後まで云わず、ぼやきながらも何処か嬉しそうに江里子の肩に置いていた手を放し、江里子を優しく見た。
「いらっしゃい、会長、私達がうんとサービス致しますから奥のお席に参りましょう」
ホステスのチー子と結城美子がママに眼で合図をされカウンターに遣って来て会長を誘った、
会長もこれ幸いと美女二人を相手に、大袈裟に両手を広げ二人を抱えた。
「おお、美子にチー子か、向こうで飲むか?」今迄江里子、江里子と連呼して置きながら嘘の様に、江里子には振り向きもせず、小柄なチー子と美子に支えられ、彼女達の胸の当たり迄手を回し嬉しそうに奥の席に行った。
江里子は丸椅子を一つ詰め光一の横に座った。

「ご免なさいね、地声があんな風だからお客様にご迷惑を掛けて終って…」

「いいや、何度かお目に掛かって居ますから…それに大分お酒を召し上がっておられる様ですし、酒を飲めば皆ああなります、ご本人はあれで結構楽しんでおられるのでしょう、気を遣わないで下さい、」
光一は初めて会長と隣り合わせに座り何処か別の場所で会長に会って居る気がして居た。
暫く考えて居たが思いだせない、光一の勤める会社のグループの会長に似て居るが、酒に酔って居るとは云え、其の醜態振りはイメージを重ね合わせるのは余りにも違い過ぎた、似ても似つかない、他人の空似以外考えられない、
最も仮に佐々会長であっても丸三の親会社の三田商事の会長で光一が会える存在ではなく、グループの会報での写真でしか見て居ないのだ、佐々会長に会ったのは入社の時と創立記念のレセプション以外、其れも遠くから眺めるだけの今の立場の光一である。当然光一は疑う事すらしなかった。
光一は変に勘繰り江里子との関係を知りたくなった、別に知ったから明日からどうなる物では無い、ママの影の部分に対象物の無い疑心暗鬼の解消、其れと只の野次馬根性とでも云うか、興味本位で会長と彼女との関係を訊ねて見たく成った。
光一は大きく呼吸をしてブランデーグラスを、如何にも意味有り気に見詰め、ぼそっと誰に云う分けで無く、独り言の様に問い掛けた。
「失礼だが、お店のスポンサー?」
流石に貴女の…とは云えずお店の…と云った。江里子は光一の問いには答えず苦笑しながら
「光ちゃん、私にも戴けない?」
光一には滅多に云わないセリフを、江里子は甘える様に言った。
「ママが飲むって珍しいね」
と言いながら光一は陽介にグラスを二つ貰い、ボトルを持ち上げた。
「陽ちゃんも、どう」
と二つのグラスにブランデーを注いだ。
「飲まなければ話せないって事なの…?」
光一は注いだグラスを持ち上げ二人の顔を見た、三人は決め事の様に光一が注いで呉れたグラスを持ち上げ、チンとグラスを合わせ擦れ合う音を確かめ「乾杯」「頂きます」と、言って三人は微笑みながらグラスを口に持って行った。
光一は、江里子と会長の幸せの為に…のキザなセリフを頭の隅に押しやり、会長と云う歯の立たない相手に嫉妬を感じつつ江里子と目を合わせた。
江里子が右手で酒の入ったグラスを少し持ち上げ眺める姿は、本当の年は知らないが、年齢より少し大人ぽっく見える。
物思う目は潤み瞳がグラスの一点を見詰め話すべきか否かと揺れ悩んで居る、心の葛藤がブランデーグラスを眺める瞳が濡れて見える。
自分を縛り自由を奪われて居るのか、はたまた会長との夜の姿態を思い浮かべて居るのか、と思うと光一は江里子に対する恋心が会長に対する嫉妬で頭が混乱していった。
其れにしても江里子の悩む姿は悩ましく神秘で魅惑的だ、光一は江里子と下品な年寄りの仲を引き離すと云う具体策は持ち合わせない、唯若さと純粋にナイトとしての男気だけが全身に漲る。
グラスに触れる江里子の唇が其のグラスにルージュの跡を残す、そっとハンカチーフで拭く様は優雅で何ともセクシーだ。
光一で無くても男なら抱締(だきし)めたくなる、両手でグラスを包み込む彼女の所作に光一の目は暫く時を止めた、
伏し目に成ると長い睫毛が白い下瞼(したまぶた)に照明が当たり影と重なり、より大きな目を思い浮かべ更に美しくする、江里子に世の男性が魅了させられる瞬間だと光一は思った。
若い光一はうっとり見とれ、人並に抱き寄せたい衝動に駆られる、誰も居なければ力ずくでも、と月までも邪(よこし)摩な思いが身体の隅で蠢(うごめ)く、和服の袖が曲げた肘迄(ひじまで)だらりと落ちる様に下がり、両手でグラスを包むように持つ仕草は無防備でバー疲れを癒すOLの様で、江里子の表情はママらしさがなく、素人っぽく表情があどけない。光一には愛らしい求め描いた女神に映る。
少し濃いめにルージュを唇いっぱいに塗り、太めに描かれた眉、大きな瞳は少女漫画に出てくる主人公の様で肌の白さが美しく二十歳なかばと思わせる程だ、
漫画に登場して来る女性はセクシーさと純情を兼ね備えた美女に描かれて居るが、惚れた慾目か江里子に品位を感じる。
客観的に見て彼女の酒の呑み方は、酒が好きで飲んで居るとは思えない、寧ろ何かに反抗した娘が、背伸びをして私もお酒は飲めるのよ…と、ちょっぴり虚勢を張って飲んで居るとしか思えない、意地悪く見れば如何に形よく艶っぽく見せるか、美しく演技をして居るだけの様に感じる、寂しい表情が今夜の様な夜には時々顔に現れる、
心に何かを秘めた悩み苦しみが有るのであろう、人間だれしも悩みの無い者は居ない、江里子は健(けなげ)気にも悩みを表に出さず、普段はママに成り切っている、自分を演出している姿を客に気付かせる事無く、客を楽しませている姿はママとして誠に相応しい、店に一日の疲れを癒そうと持ち込む男達を卒無く喜ばせて居る、
客の中には酔いに任せて不埒な盲動を行う者にも毅然とした態度で、さり気なく店のママで有る事を認めさせ、エリナと云う小粒ながら自分の城で自信を漲らせ優美な花を咲かせて居る。
光一も幾つか過去に恋愛をやり過ごして来たが、今の光一は片思いながら、こんな江里子を盲目的に愛している、見返りを求めずと云えば嘘に成るが彼女を純粋に愛している。
光一は初めて此の店に来た時から、店のママとは知らずに、一人のホステスとして彼女に一目惚れをしていた。
江里子も若い客と云う事で立場上、年長(ねんちょう)に見せ店主らしく振舞って居たが、光一は何時頃からか、そんな江里子の年齢は自分と余り変わらない様な気がしていた。
六人掛けのボックスが奥に三つ、カウンターには六つの丸椅子が有るだけで、部屋に似つかわしくない豪華なシャンデリアが、隅々まで鈍く照らして居る、見様によっては不自然に目立つだけで、其れを除けば小じんまりした薄いグリーンで統一された落ち着きのある上品な雰囲気の良い店だ。
若くして銀座にバーを経営しているとは大した者だとエリナに来る度毎に光一は思う、ママには失敬だが女の美しさは大業(たいぎょう)をも成し得る、歴史は夜作られると云うが、女性の偉大な存在感を痛感させられる、さりとて光一は女に生れたいとは思わない。
ママと分かってからは尊敬と自分との距離を感じ同時に脳裏に寂しさが宿り、諦めと恋心が四分六で同居した、光一は彼女との不成熟の恋に対し時が忘れさせて呉れるだろうと、一時エリナ通いを遠のいた事が有ったが反対に切無さと思慕の念は募り三月と持たなかった、片思いは募る一方であった。
当初店に通い始めて三度目位迄は、店主である江里子に光一は貫録負けをしていた、それでも五度六度と通う内に江里子への興味が片思いに変わって行った、近寄り難いオーラを感じながらも、無い物ねだり的に表面には出さないが、小さなファイトを芽生えさせ自身の心に焚きつけた。
其の内に店のママらしい振る舞いを、随所で見せられると、光一の手が届く相手で無い事をその都度思い知らされた、偶に来る外国人相手に英語、時に仏語、で相手をする江里子には自分の能力の無さを知らされた、外国語に堪能で無い事も夜の文化的教養に於いても光一は江里子に負けて居た。
光一はそんな時諦めなければと思うのだが、彼女の偉大さに益々慕う心は深みに入って行く、外国人と流暢な仏語や英語で話している姿を見る度に光一と江里子が遠い存在と成って行く、其れでも余り広くない店に江里子と一緒に同じ部屋の空気を吸って居ると思うと、それだけで光一は癒された。
早くに亡くした母が普段は和服を着て居た事も有り町で母と同じ位の年恰好で和服姿の女性に出会うとふと思い出してしまう、光一が思い偲ぶ母は三十五六歳の姿の侭で年老いた姿では無い、帯の上の膨らみには、母に抱かれた幼い頃の頬の感触が思い出させる。
今夜の彼女の髪は黒髪を無造作に結い上げ、丸い珊瑚の簪が差し込まれて居る、黒髪の中で逞(たくま)しさの半面孤独さを物語って居る様に見える、着物はベージュの地色で薄いピンクの薔薇(ばら)の花が肩から胸元にかけ三輪、緑の葉と蔦(つた)の模様が裾にまで描かれている、博多帯をきりりっと締め、三十半ばの気品あるママさ
ん振りだ。昔なら錦絵に成るであろう。
そんな江里子を眺めていると若かった在りし日の母と重なる、当然、母では無い彼女だけに異性として独占欲が湧いても手が届く様で届かぬ、己の不甲斐なさと激しいジレンマは理性で抑え込むしかない、光一の脳裏に彼女が焼き付き昼間でも時に居座る事が有る、気が付くと光一は江里子を思い忍んで居る、光一は金の許す限りエリナに通う様になった。光一にとって相手にされないと知りつつも、収入が許す月に二度が三度と金曜日の男はエリナへと回数が増えて行った。
光一は江里子の顔を唯、見て居るだけで癒された、閉店で追い出される間際に店を後にして一人で帰ると云う、みすぼらしくも侘しい金曜の夜の連続であった。
光一の彼女に対する気持ちは日増しに強く成りどうし様も無かった、幾度か見る夢の中でも叶わない儚(はかな)い片思いの恋人で、冷たい残雪の中を振り向きもしないで遠ざかって行く様な人でしか表れて来なかった。
親しくなれば成る程彼女は光一を客から友人として扱われていく、思い切って自分の気持を打ち明け様と思うが、大声で笑い飛ばされるか拒絶されるのでは無いかと恐れ躊躇する。
さりとて誘う勇気も無く只のエリナの客でしか会いに行けない、恋愛の難しさを自問自答、其の都度侘しさを思い知らされ諦めて居た。
だが、一方の江里子も初めて店に来た光一を見て熟年の客が多いエリナの客の中で光一は若い事も有り、珍しさと彼の涼しげな顔立ちが江里子好みで有り当初から気に入っていた。
彼が店に来だして半年もすると、今夜も来ないかなあ?と思う夜が度々有った。江里子も仕事柄、客に心を安々と見せる様な、軽薄な言動は当然慎み、寧(むし)ろ光一の若さに警戒すら持って接していた。
今は「光ちゃん」と気安く呼べる、好青年と分かっても自分の思いを素直に告白する立場ではなく当然言葉に出す事はしなかった。
光一は月に二度金曜の夜に来るが、江里子は一日位早く顔を見せても良いのに…と何時しか思う様になって居た、勿論毎日では無いが木曜の夜や金曜の夕方から少し、意味も無く苛つく日が何度かあった。
光一が珍しく木曜日に行くと、江里子は自分の思いとは逆に;普段使い慣れない、がさつな言葉で迎え…、
「あら、今日は木曜日よ」
と来ては悪い様な言い方をして光一を迎えた。江里子は顔には出さないが…仕舞った…何故素直に喜びを表せないのか、と胸の内で後悔をしていた。
「じゃあ帰ろうか、明日出直すよ?」
光一も思いとは反対に負けずに言い返した。江里子は慌てて光一の腕をとり、彼女の勝気さが成せるのか光一の腕をピッチと抓り、光一を驚かした。
光一は「痛い」と少し大袈裟な素振りをしながら、ソファーに案内してくれる江里子に寄り添った、心地よい香水の香りが女盛りを誇張して居るかの様で光一を迷わせた。
「意地悪だわ」
と云いながら嬉しそうであった。江里子は待ち焦がれた光一が、やっと現れた事で心ではママでは無く一人の女として光一の横に座るだけで気持ちが安らいだ。
幼い男の子が好きな女の子に素直に表現出来ず、反対に虐める心境と似ており江里子の純情故の表れで光一を抓ったのだ。
江里子の恋心は妙に小娘に戻り光一に対して口が重くなる、間の悪い会話が続いて仕舞って、光一を困らせ自分も対処に窮した。
何回か其んな経験をさせられると気になって、エリナには金曜日と光一は決めてしまった。その性で会長と逢う機会が少なかったのであろう。チー子達と大きな地声で仲良く飲んでいた会長が、何時までも光一の傍から離れず江里子が自分の席に来ない事が、気に入らないのか、急に立ち上がり何事か二人に云った。
会長に寄り添って居る二人を再び抱き抱える様に連れてカウンターに遣って来た、ふらつく足を利用してか大袈裟な振る舞いで、会長は江里子と光一の間に割り込む様に身体を入れ立った、仕方無く江里子が席を譲った。
「江里子お前の今の恋人は此の男かい?」
無作法に光一の顔を覗き込んだ。
「お客様に失礼だわ、今夜は帰ってお休みになれば、それに毎晩じゃ身体に良くないわ」
会長は江里子を無視して…
「おい、君は幾つだ?」
唐突な問い方で有る。随分無礼な男だと思ったが江里子と、どの様(よう)な繋(つな)がりが有るかも分らず、それに親が娘の婿探しをしているかの様な問いかけが気になり、何と無くママの年齢と比較して居る様に思えた、
ママの年を知った処で光一には何程の事も無いが知る事で、男として遠ざけられた江里子との気持ちが、何故か一歩彼女との間が近くなる気がした。
若し年の差がそれ程違わなければデートに申し込む事も出来るかも知れないと、光一は一計を案じると言う程では無いが、言葉を選び試みて見た。
「はい、江里子ママより少し若く二十九歳になります」
会長は光一の答え方に好感を持ち光一をまじまじと見詰めた。
「何、江里子と一つ違いか?うむ…で、サラリーマンの様だが、何処の会社に勤めている」
何とも横柄な態度で有るが、ママの歳が一つ上と分かった事で光一を冷静にした。
然し酒場のカウンターで名刺を出し、名乗るのも常識を逸っする様に思い、黙って江里子の顔を見返した。
江里子は気を利かせた積りで改めて紹介した。
「丸三商会にお勤めよ…」
光一は、酔客相手に争いも大人気無い、それに江里子より身元を明かされては、今更隠す必要も無くなった。
光一は、此処は反対に礼儀正しく丸三の社員として羞じない挨拶を仕様と思い、光一はゆっくり椅子から降り軽く会釈をして、会社の名刺を差し出した。
「青野光一と申します、斯様な場所でのご挨拶は無粋かと存じますが、お顔は此の店で何度かお見受け致しております;其れに我社のグル―プの会長に似て居られます」
「そう言えば会って居たなあ、若いのに礼儀正しい無粋と言えば私の方だ」
会長は:えへん…と空咳をしてポケットから名刺入れを出し自分の名刺を光一に渡した。光一は名刺の肩書を見て驚いた、
三田商事株式会社会長佐々正二と書かれていた。
三田商事と言えば丸三の親会社である、佐々の名前は何度も見聞きしたが、此の様に間近で逢うのは初めてである、
いや正確には会ってはいるが話した事は無い、話せる相手では無いのだ、其れは会った事が無いのと同じで有る、光一にとっては雲の上の存在なのだ。
その雲上人が目の前に座っている、光一は差し出された名刺を穴が空く程見て、この人が三田商事の佐々正二会長なのだと何度も心で繰り返した、然も自分が挨拶をしている、光一はサラリーマンにとっては思いも掛けない光景の中に立たされて居た。
光一は当然の様に直立不動で低頭した。
「失礼致しました」
「君、水戸の黄門様じゃあ有るまいし、高が名刺一枚で、そう改まられても困る、それに折角の夜の一と時を阻害したのは私の方だ、済まない事をして居るのは私だ、許してくれ」
江里子は少し苛立つ様に会長を促し、
「会長、もう宜しいでしょう…」
と美子達に目を遣った、会長は何故か頷き安堵した様に、江里子に目を移した。
「美子さん、チーちゃんお願い」
チー子はママに促され会長の腕を引っ張り、会長を再びボックス席に連れ戻して行った。
光一は佐々会長とマンツウマンで話す機会は今後、永遠に無い気がして、もっと話したい気持で有ったが、江里子は気を利かせた積りで光一の手を取った。
其の行為が自分と佐々の関係を知られたくないのか、会長を美子達に任せる遣り方に業とらしさが感じられた。
光一は両手を組みカウンターに置き、大人気無いと思ったが皮肉を込めて云った。
「やっぱりママ…佐々会長がママのスポンサーだったのだね?」
光一は余計な事と知りつつ確かめたい気持ちが光一らしからない言葉を云って仕舞った、後悔をしたものの何故か頭の中は夕立が通り過ぎた後の清々しい気持ちに成った。
会長が相手では光一が百人掛っても敵わない。
然し、江里子は然したる驚きも恥じらいも見せず、普段と変わらない視線を光一に向けてさらりと云った。
「そうね、そんな言い方も出来なくは無いわ」江里子はブランデーグラスからバーテンの陽介に目を移し寂しそうに笑った。
光一は江里子の全面否定を何処かで期待して居たが、あっさり肯定されては、それ以上訊き出す事に躊(ためら)躇いと莫迦らしさを感じた。
其れに今度は陽介との関係が疑われ新たな疑心暗鬼に苛(さいな)まれた。
江里子が会長に此の店を出して貰った事は今の会話で間違いないだろう、光一は下衆(げす)の勘繰りと云われても、今度は矢張り陽介との絡みが、可なりの確率で有る様に思へた。
銀座の華やかに見える酒場も夜の蝶の群れも、ネオンも全てが金の力で動いて居る事は確かだが目の当たりにさせられると、此の三人も最も如何わしい三角関係なのか?虚しさは拭えず、今の自分の力量の無さに己を優いた。
余りにも江里子との距離の遠さに道化だった自分の愚かさと同時に羞恥心で此の場を一刻も早く立去りたくなった。
さりとて直ちに立ち去るのも大人気無い、と恥じらいを隠し話題を茶化し変えた。
「陽ちゃんは僕より三つ位上かなあ、偶にはママと食事位はするのだろう?」
何とも空々しい会話で有る。
会長の話し振りからママは三十歳、陽介が三十四、五ならば会長公認の恋愛中?若しくは夫婦で有るならば、陽介の会長に対する無愛想さも納得できる、或いは会長に隠れた関係で業とよそよそしくして居たのでは?と陽介と江里子の関係を怪しみ、妙な勘繰りは益々頭の中に広がり、幾分嫉妬心を露に訪ねた。
陽介は苦笑しながら光一の心の中を覗き見るかの様に、目を大きく見開き…
「二十八です、其れに主従の間柄です、打ち合わせだって有ります」
と疑惑を打ち消す様に真面目に言い切り暫く間を置いた。
光一は妙に安堵して一瞬の空白を楽しみながら陽一の次の言葉を待った。
「ママは年寄りには興味が無く、本当は若い人が好みの様ですよ」
と云い意味有り気に笑った。
「と、言う事は僕にもチャンスが有り、ライバルが陽ちゃんを含めて大勢居るって事?」
陽介は仕事の手を休め、光一を揶揄するように微かな笑いを浮かべながら言った。
「そう言う事です、詰まり会長は俗っぽい彼氏では無いと云う事になります」
江里子は微笑みながら二人の会話を聞き流し、急にチー子の方を見て、光一の心の中を見透かす様に寂しく云った。
「光ちゃんも若い女の子が好みでしょう?」光一は即座に江里子の言葉を頭から否定する様に気負った云い方をした。
「それは無いです、特にママに対する感情は違うママは若くて美しい、私はママがママで無ければと何時も思って居ます、ママの存在が僕にとって距離が有り遠過ぎます。
貴女は厭だと言われるかも知れないが、僕は江里子ママが好きです、陽ちゃんは仕事で何時も傍に居られる、羨ましい:陽ちゃんに悪いが江里子ママと一度でも良い外で食事がしてみたい、相手にされないと知りつつ二人だけの時間が持てたらどんなに嬉しい事かと思って居ます」
光一は陽介の後ろの棚に並んで居るボトルに目を遣りながら一気に喋り捲くった。
江里子は黙って光一の足元を見つめて居たが、
「光ちゃん、貴方にそんな風に言われては私本気にするわよ」
江里子は如何にも営業;其の物で、光一にしな垂れ掛りおどける様に云った。
光一は真面目に告白した事に場所柄、気恥ずかしさと江里子の受け止め方に不真面目さを感じ、今迄の真面目くさった自分が恥ずかしく成り今云った言葉を打ち消す様に、それに三十に成らんとする男の沽券(こけん)と嫉妬を込めて、江里子に少々毒付く様に返した。
「そんな事を云って家に帰れば、お髭(おひげ)の濃い怖そうな、ご主人が待ち焦がれて居るのは?無いのかなあ」
酒の肴に合わない喋りを否定する様に、おどけた言い方で自分の居場所を作った。
「あら:良くご存じねえ、見られたかしら?あの鬚が堪らないのよねえ」
江里子は暫し瞑目して何かを打ち砕くように首を激しく振り笑った。
光一は生涯を期して懸命に喋った言葉が、谷合の激流に捨てられた思いで頭を掻きながら陽介に云った。
「陽ちゃん氷を入れてお水頂戴、ママの今の言葉に当てられ熱が出る、独り者の僕には毒だよ、妙に想像しちゃう」
「あら、何を想像されるのかしら…」
光一は江里子が鬚男と絡み合う姿態を思い浮かべたが、其れを否定する様に幾度か首を振り其の姿態を思い切り自分の妄想だと打ち消した、其れが目の前に居る陽介で有れば未だ許せると思った…
「陽ちゃんもママに、ほの字なのだろうね?」
陽介は急に、まじになり強く否定した。
「勿論です、こんなに良い女性を何時(いつ)迄も一人にして置くなんて女神に対する冒瀆(ぼうとく)です、でも残念な事に僕には家内がいます、生まれて三か月の赤ん坊もねえ」
「結婚して子供も居るのですか?」
「残念ながら僕は失格、…不倫なら兎も角?」
「それは無いでしょう、ねえママ?」
「それどう云う意味なの?私だって女盛りだもの、不倫をする勇気位あるわ、いけないかしら?私も熱い血が流れて居る生身の女よ、ねえ陽ちゃん」
光一に揶揄と挑戦を込めて江里子は甘えた目を陽介に向け、其の侭光一の目に移した。
光一は全身に稲妻が走り固まって終った、が
暫く見つめ合い驚いた様に大袈裟に云った。
「ええ、ママが不倫ですって…」
光一はさも驚いて嘆き、江里子の顔を見詰めて真面目くさって云った。
「それはママがバージンだとは、思わない」
と、光一は当然だと云わんばかりに言い切った、だがその言葉の終わらない内に光一は江里子に太(ふと)腿(もも)をぴちっと痣(あざ)がつく程抓(つね)られた。
「痛い、うう…」
抓られた光一はママの職業柄、余り失礼とは思わず云ったのだが…傷を付けて仕舞った様だ、我慢するしか無かった。
江里子は気の強さを顔に表わし大きい瞳で光一を睨んだ、光一は夜の社会では常識的な会話をしたと思って居たので意を介し兼ねた。
「今夜は帰してあげる、でも光ちゃん今の言葉許さないわ、憶えて置きなさい」
一つ一つの言葉は強いのだが,何故か江里子の甘へる様な声が耳の奥に残った。
光一は掴み処のない期待感が身体を覆(おお)い、びりびりっと電気が脳天に走った気がした、意味の分らない血が騒ぎ身体が熱くなった。
「今、チーちゃんと変わるわ」
と立ち上がる江里子に光一は、江里子の腕をとり、抓られた太腿を摩りながら…
「今夜は帰るよ、ママと話せて楽しかった、太(ふと)腿(もも)の痛さが薄れないうちに帰ります」
光一は立ち上がり金を払った。
「ふふ…、抓られて嬉しそうね」
「いや、又抓られては叶わない、今夜は退散する、痛かったよ」
光一は一応会長に挨拶をして玄関に向かった。江里子は光一と一緒にエレベーターに乗り一階の玄関迄送って呉れた、その間エレベーターから一階の玄関まで光一の左腕をしっかり掴んで少女の様な普段見せない態度を示した。
「私光一さんが好きになりそう貴方は土曜日曜とお休みでしょう?」
組まれた腕から衣服を通して、光一は江里子の肌の温もりを感じ江里子が急に身近に成った様な錯覚を覚えた。
「ええ、少々持(も)て余して居ます」
「お一人?奥様は?」
「えっ;未だ独身です、其れに父は実家です」
江里子は光一の実家と云う言い方が気になり、義母を思い浮かべた。
「御実家には若しかして後妻の義母(ははうえ)上が居られるのかしら?」
「ええ、そうです若い母です」
「まあ、お父様はお幾つ?」
「五六歳…でも、どうして父の…」
江里子は自分の境遇に似て居るのでは無いかと、店の若い客として袖摺り合うだけでは余りに寂しく思えた。今更傷の舐め合いでも無いが、自分好みの好成年でも有り共通した嘆き,儚さを語り合い互いに慰められるのではないだろか?と思った、それに青野と云う苗字にも興味を持った、
佐々と連れ立って来る客の中に青野清三専務が居る、あるいは倅さんでは?青野さんは父と特に仲が良い:そんな疑問も有り、もしやと思いながらこの侭別れ難い気がした、先程店で此の青年が告白して居た様に、江里子も二人だけの時間を持って見たくなった、
寒々としたマンション生活の孤独感は父の性と思い込んで居る江里子に取って、互いの身の上話をしたとしても解決する事には成らない、さりとて其の無駄な時間を作り境遇の似た光一に喋る事に依り自分の心が開け落ち付ける気がした。
来週の金曜迄待てば店に来てくれる筈である、が江里子は自分の過去に追い立てられる何かを感じて、今夜、もう一度会いたいと思った。
「光一さん今夜、貴方とお話がしたいわ、遅くなっても良いかしら?…」
「私は明日土曜日で休みですし構いません」
江里子は頷き光一の正面に回り向かい合った。
「並木道の六丁目の角に三坂ってスナックがあるの、必ず伺うから待って居て下さらない」
「はあ、三坂…ですね」
江里子は光一の不審そうな顔を自分の顔に引き寄せ耳元で囁いた。
「遅くなっても必ず伺います」
光一は時計を見て…
「はい、では私はする事が無いので今から行って待っています」
考えもしない夢の様な言葉に舞い上がった。光一は彼女と組んで居る腕を惜しそうに解き六丁目に向かって緩やかに歩き出した。
江里子は自分の境遇に似た光一を急に愛おしく思えて靠(もた)れ合う気持ちが湧いてきた。
江里子も同じ様に父を義母に取られたと言う思いが心に残って居る。
三十歳にも成って今更と思わぬ事も無いが、其の為に米国に三年留学させられ、帰国して直ぐに、フランスへ三年と矢継ぎ早の留学には流石の江里子も、新婚生活を邪魔されたくない、父と義母の策略であったのではと、気を回さざるを得なかった。
数か月の商社勤めでは英仏の二カ国語が堪能である事で重宝されたが,家庭内での、ぎこちなさが江里子を夜の銀座へと向かわせた。
二十七歳でフランスから帰国して、九歳しか違わない義母と、巧(うま)く行く筈も無く、それに母と認め呼べと父に言われても呼べる道理が無かった。
江里子にしては此処二年半の銀座の生活は、男と女の葛藤を知る事で、父を理解しようと思いながら身心は亡き母の想いを掻き消す事が出来ず、今の父の生活に反発、父と亡き母の間を江里子の心は彷徨(さまよ)其の苦悩で凝り固まって居た。
一人マンションで寝る寂しさは、六年の留学と合わせて九年、母が亡くなって十年孤独の人生が昨日も今日も続いて居る。
父を介した友人、食事だけの店の客、異性と云えば其の辺り迄で、結婚を対象にした男性は一人も無く、此れから先、只雑多なだけの東京の生活は何時まで続くのか、と思うと自分に課せられた男と女の不条理だけが身を焦がす…金銭に不自由は無いが己の人生に天蓋孤独の文字しか浮かばぬ虚しさ、母亡き子の感傷のみで佐々会長の娘であるが故に、人並みの青春を覆い隠し、切なく闇の中に放置されている自分が如何にも哀れである。
江里子は光一を見送った後、店に戻ったが何事も上(うわ)の空(そら)、気の回る陽介にいち早く悟られ、
「ママ酔われましたか?」
と云われる程、落ち着かない時間を過ごした。
「ママ、後片付けはして置きます」
江里子は陽介の申し出を素直に受けた。
「悪いはねえ」
江里子は財布から一万円を出してカウンターに置いた。
「これミルク代にでも:して頂戴」
「済みません、何時も気を遣って頂き申し訳ありません」
素直に陽介は金を受け取り、会釈して財布に終った。
「お疲れ様」
と頭を下げた。
江里子は陽介の言葉に追われる様に、彼に店の片付けを任せてエリナを後にした。
彼女が三坂のドアーを押したのは十一時半を少し回っていた、客は七分の入りで、女客の顔は此れから仕事が始まるかの様に、皆一様に活き活きして居た。
明日への客の争奪戦と云うか、一流の客には一流の女、煌びやかな雰囲気の中に銀座の女の勇ましい姿が其処に有った。
江里子は目(めざと)敏く光一を見付け歩み寄った。
「ご免ね、待たせたわねえ」
お絞りを持ってきたボーイに、
「ココアを頂戴」
「はい、ホットココアですね」
江里子は頷き光一に目を向けた。
「ねえ、母の事だけど実は私も同じです」
江里子は此の一言が云いたくて光一を待たせて居たのだ。一時間も待たせて此の一言だけ伝えれば自分の役目は終わった様に思った。でも、この言葉だけで此の侭別れるのも銀座のママ;いや、大人気無い様に思えた。
ボーイが運んで来たココアを眺めながら、悲しそうな顔で少し考え戸惑いを見せたが、思い切った様に話し始めた。
「私の母は私の二十(はたち)の歳に亡くなったわ、大学を出て直ぐアメリカ、フランスと六年も留学、お陰で二カ国語は何とか喋れるけれど、一人で日本を離れて女が暮らすのは苦労でした、その苦労が義母と父の新婚生活の為だと分かった時には、どうにも遣り切れなかったの、父に対し不純さと不信感で私が邪魔者で有った事を知らされ、親子としての会話がまともに出来ませんでした」
「では、会長がお父上?」
「ええ、そうよ…腹いせとでも言うかフランスから帰って、さる商社に勤めましたが上司のセクハラに遭って勤めが面倒に成り辞めたわ、辞めて直ぐに父に対する反発で銀座の夜のホステスに転身、でも残念な事に三カ月で見つかり大目玉を貰ったわ」
「そりゃそうですよ」
「でも義母との確執(かくしつ)は薄(うす)れる事無く益々父を困らせる事に専念したの、あのバーも私の我が儘で出して貰ったの、条件は義母を母と呼ぶ事、私生活を清潔に結婚相手は父の目に適(かな)う者で有る事の二つだけです」
ココアを飲みながら寂しい目を光一に向けた。
光一は義母の淫らな笑みを思い出しながら…
「今度は僕の番だねえ、僕は只邪魔だから追い出されただけです、共通点は父達の結婚生活には邪魔で有ったと云う事です、でも早く自立出来て僕は良かったと思います」
「辛いと思った事は無いのですか?」
「男は口では強がりを言いますが、寂しさは自分の影から消し切れません、普段から和服姿で過ごして居た母です、江里子ママのように美しくは有りませんが、ママを見て居ると母を思い出します、それが…私の心の中で貴女が恋人に変わるのです、今も困っています、此の店に入って一時間、色々想像しました」
光一は喋りながら今夜はママを抱けなくても接吻位は出来るか:と考えて居た事に顔が赤くなるのを覚えた。
江里子は寂しく微笑みながら、そそくさと立ち上がった。
「出ましょう」
短く云って伝票を持ちレジに向かった。
光一は素早く一万円をレジに置き、
「此処は僕に払わせて下さい」
光一は女性に金を払わせる事は男の恥と父から教育されて居り当然の様に言った。
「待たせたのだからいいのに」
江里子は笑いながら光一に任せて外へ出た。
「車、拾いましょうか?」
江里子は何処とも言わず手を上げタクシーを止め、自分から乗り込んだ。
「広尾に行って頂だい」
車が動き出すと江里子はそっと光一の手の上に自分の手を置いた、寒くは無い筈だが江里子の手は店で飲んだ酒の酔いが醒(さ)めてきたのか、冷(つめ)たく小(こきざ)刻みに震えて居た、光一は黙って江里子の手を握り返した。
車は広尾の商店街の入り口に差し掛かった。
「此処でいいわ、一方通行の出口だから此処からは入れないの」
江里子は運転手に云いながら光一の体を降りる様に両手で押した、仕方無く降り料金を払おうと振り返った時には江里子がガマ口を開け支払って居た、仕方無く光一は江里子の手を引っ張り降りるのを手伝った。
光一はタクシーを見送り躊躇いながらも、江里子の真意を計り兼ねたが、ある種の男の狡さと期待を感じ無言で彼女と並んで歩いた。
江里子は、光一の左腕に両手を強く絡め身を預けて歩いた、光一がふと気が付くと何故か江里子は涙を流し泣いて居た。
「何か辛い事でも?」
光一は労わる様にハンカチを江里子に渡した。「私、嬉しいのです男性に対して此の様な気持ちに成れたのは生れて初めてなのです…」
其処には店での凛とした店主で有りママとは程遠い初な娘の姿があった。
光一は江里子を支える様に抱きながら歩いた。人気の無い真夜中の商店街の夜空には初秋の満月が煌々(こうこう)と光り輝いて居た。
「何故か僕は興奮しています,こんな異常な気持ちは僕も初めてです」
光一は素直に自分の気持ちを江里子に伝えた。彼女は只、頷くだけで黙って歩いた。
江里子の住まいは広尾の商店街の中程を右に曲がって直ぐ裏の、八階建ての真新しいマンションであった。
エントランスはロックされて有り江里子がロックナンバーキーを指で押し光一を促し玄関に入った。
エレベーターに乗り江里子は左手で七階のボタンを押しながら光一に唇を求めてきた。
瞬間の事で面食らったが、光一の描いて居た第一の希望が叶えられ、己が求めたかの様に勘違いをした。


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