第一次大戦後の混乱の中からドイツではナチスが台頭してきた。ドイツ国内では、ナチスは共産主義と対立していた。ヨーロッパでは当初ナチスは共産主義の防波堤に成りうる勢力として、英国王室などはシンパシイを持って歓迎していたという。なぜなら、第一次大戦中に起こったロシア革命によってロシアのロマノフ家の人々が無残にも殺害された経緯をみて、英国王室だけでなくヨーロッパの王室にとって、明日は我が身と思ったのだろう。ナチスは少なくとも選挙を通じて合法的に政権を手に入れた訳で、共産主義よりましな存在と思われていた。しかし、英国の政治家チャーチルだけは共産主義もナチスも危険な存在であると主張して、両者に対抗するため、準備することを主張していた。しかし、英国の政界ではチェンバレンらの主張する融和政策が主流であった。融和政策とは敵対する国の主張や意図をある程度尊重して、話し合いで問題の解決を図ると言う政策である。抑止政策の反対の概念である。融和政策に反対するチャーチルは戦争屋と呼ばれ国民には不人気であった。ロシア革命を扱った映画としては、1965年の「ドクトルジバゴ」、1971年の「ニコライとアレクサンドラ」がある。
ここでナチス=国家社会主義とは何か、ナチスの党要綱には不労所得の禁止、大企業の収益の分配の要求、社会保障制度の充実、高利貸しの撲滅等の政策を公約にして、大規模小売店を国有化し、小規模商店を保護すると言う中産階級に配慮した政策を打ち出した。また第一次大戦敗戦の結果、自信を喪失していたドイツ国民にドイツ人の人種的な優位性を説いた。ユダヤ人の金持ちの多くが賃貸住宅の家主や高利貸しなどの不労所得者だったので、ユダヤ人がドイツ人の富を奪っていると言ってユダヤ人を迫害した。このように特定の民族や国を憎しみのターゲットにして、国内の矛盾から国民の目を逸らすと言う遣り方は、今もどこかの国が行っている。ユダヤ人迫害の様子を描いた代表的映画にチャップリンの「独裁者」が有る。
ナチスは政権を手に入れると、第一次世界大戦の戦後処理の一環として取り決められたラインラントの非武装地帯に進駐した。フランスもイギリスも融和政策のもと、それを黙認した。それに味をしめて、ドイツ人が多数派のオーストリアを併合した。ナチスが次に目を付けたのはチェコスロバキアのズデーテン地方である。その地域にドイツ人が多く住んでいることを理由に、チェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求したのである。オーストリアにおいても、ズデーテンにおいても、その地域に住むドイツ系住民の要請によるものと言う体裁をとった。これは最近ロシアに併合されたクリミアの場合と同じである。 オーストリア併合を舞台にした映画に「サウンド・オブ・ミュージック」が有る。
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