今年(H26年)二月、K君の母親が亡くなった。94歳だった。K君の母親は子供には迷惑をかけないと言うポリシーのもとに、父親が亡くなると間もなく工場近くの軽費養老院、所謂ケアハウスに自ら進んで入所した。ケアハウスは個室で風呂の無いワンルームマンションを想像して貰えれば正解だ。個人の電話も引けた。トイレと小さなキッチンが付いていて、自炊も出来るし、食堂で食べても良いシステムになっていた。風呂は共同だ。
しかし年齢とともに物忘れが酷くなり、有る時、煮物を煮るのに火を消し忘れてしまいボヤ騒ぎを起こし、室内での調理を禁止されてしまった。その頃からボケが始まったのだと思う。ケアハウスは自活出来ない場合、併設の特養ホームの方に移されることに成っていたが、特養は3人ないし4人部屋だ。K君の母親はそれをとても嫌がっていた。 しかしそうは言っても、自活出来なければ仕方がない。特養に慣れるために月に何回か特養の方に泊まりに行っていた。ところが、運良く法律が変わり、そのホームのケアハウス30床のうち20床が養護施設に変わりK君の母親の部屋も養護施設になり、常時、看護婦さんが看てくれる事になった。費用は少し高くなったが、今まで住んでいた所から出ることなく、住み続ける事が出来る事をK君の母親はとても喜んでいた。
二年ほど前、転んで大腿骨を骨折してから寝たきり状態になってしまい、ボケも急速に進んで、一年ほど前からは息子の顔も判別できない状態だった。今年の一月終わり頃、職員の人から「(医者が今日明日にも危ない)と言っている」と言う電話が有った。親族みんなで見舞いに行った。ケアハウスから病院に送られるのかと思っていたのだが、「最後までここで看ます」と職員の人に言われたので、お願いする事にした。 2月の16日、あの関東の大雪の日、その時が来た。16日の早朝、「お母さんが亡くなりました」と言う職員の人からの電話が有った。K君の母親は家族の誰にも看とられる事なく旅立って行った。 K君と一番下の弟と二人で、車で向かった。大雪の為、電車は止まっていた。ケアハウスに到着するのに通常2時間のところを7時間近くかかった。既に職員の人達によって綺麗に死に化粧がなされ、穏やかな死に顔だった。Kくんは出かける前にネットで葬儀屋を選定し、その葬儀屋の手配で遺体を運搬する業者を手配して貰っていた。その業者の方が早く着いていた。葬儀は肉親と親族、K君の友人数人だけの内輪の式となった。東京の戸田斎場で遣った。
葬儀が済んで、部屋の後片づけが大変だった。老人の一人暮らしとはいえ、13年に渡っての生活の後始末はなかなか大変だった。ケアハウスとの契約の解除、電話の解約、2年前大腿骨の骨折の結果、電話に出る事が出来なくなっていた。K君は「料金が無駄だから電話を止めようか」と提案したのだが、K君の母親は首を振った。気丈に振舞っているけれど、母親も寂しいのだなとK君は思った。かける事の出来ない電話でも、電話が部屋に有れば子供たちと繋がっているような気がしているのかも知れないとK君は思った。
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