「お父さんHさんから葉書が来ているよ」と言いながら郵便受けから取り出した自分の手紙類の中から娘のN子は含み笑いをしながら一枚の葉書をK君に手渡した。葉書には時候の挨拶と共にこの3月で定年を迎え、故郷に帰る事、母親が年末に亡くなった事が印刷してあり、手書きで「50年を経ての生家です、期待と不安、半々です」と書いてあった。
「そう言えば今年は年賀状が届かなかったな」とK君は思った。彼女とは卒業以来、45年にわたって年賀状のやり取りをしていた。そうか、お母さんが亡くなったのかとK君は納得した。Hさんが定年後母親と暮らす事を楽しみにしていただろうと想像してK君は心が痛んだ。母親が生きていれば故郷も彼女をスムースに受け入れてくれたのではないかと思った。
彼女は大学の同級生だった。N大の文理学部は付属から上がって来る学生が多く、クラスの中では必然的に付属は付属で固まり、付属以外の高校から来た連中は彼ら同士で固まった。最初10人程のグループだったが、学校を辞めたり、他のグループに行ったりして、最終的には7人のグループになった。彼女は九州のO県の出身で、父親は小学校の校長をしていると言っていた。母親も教師だと言っていた。彼女はグループの中の紅一点だった。グループの中でも彼女は勉強ができ、そして真面目だった。グループの男達の多くは授業をサボる事が多く、試験の時、彼女のノートに助けられた。
今のようにコピーが普及していない時代、試験の前に彼女のノートを借り、一人がそれを写し、彼女のノートと写したノートを他の者が写すという方法で試験の準備をした。グループの男達は、1年生の時から彼女には世話になっていた。
3年になると教員免許を取得する為の教職課程を取るものもいた。K君は家の仕事が有ったので教職は取らなかった。何故かHさんも取らなかった。親の職業に対して何か思うところが有ったのかもしれない。教職を取った者は全員、社会科の教員免許を取得したが、一人を除いて教師になった者はいなかった。その一人T君は学園紛争で大学が休校になっているのを利用して、他大学の聴講生となり足りない単位を取得して、小学校の教員免許を取り、S県の公立小学校の教師となって、後に校長にまで登りつめた。
3年生の年度末試験の最終日、午後は教職関係の試験が2科目あった。昼休み午後の試験が終わったら新宿で打ち上げをやろうと言う話になり、K君とHさんは試験が終わるまで待っている事になった。午後の試験が始まって間もなく、Hさんが「Kくん私とデートしない」と言った。「私、見たい映画が有るのだけど・・・3時間半もここで待っているのも辛いから」と言った。Kくんはデートと言う言葉に気持ちが昂ぶってドギマギしてしまった。K君にとって、女性と二人だけで映画を見るなどと言う行為は生まれて初めての経験だった。
「でも、皆に言って行かなければ・・・」とK君。「試験、始まっているし・・・試験終わるまで待っていたら映画見る時間無くなるし・・・どうせW(新宿の喫茶店)に集まるのだし・・・早く行こう」とHさんに促されてK君は新宿歌舞伎町に向かった。
映画は新宿コマ劇場で観たのだが、どんな映画だったかK君は思い出せない。それ程K君は舞い上がっていたわけだ。その後、二人はWに行って皆を待っていたのだが、いくら待っても、誰も現れなかった。携帯電話のない時代だった。大学に近い所に住むY君の家に電話するとY君が出て「君たちも居ないし、疲れたので解散になった」と言った。どうやら試験も不首尾だった様だ。その後、彼女の下宿に招待されたと言うような艶っぽい話も無く、二人でラーメンを食べて新宿駅で解散した。
|
|