クニに子供が生まれた。女の子だった。セイと名づけられた。竹さんはその頃から若夫婦に干渉しないように心がけた。野良仕事はヤス次と若夫婦に任せ、自分は家の中の仕事をする事にした。接触が無ければ争いも無いからだ。赤ん坊が乳離れしてからは育児も自分が引き受けた。しかしクニは娘を姑に奪われたと感じたようだった。それでもクニが姑に逆らうような事は無かった。その後クニは明治の終わりから大正の初めに掛けて3人の男の子を産んだ。
大正3年ヨーロッパで第一次世界大戦が始まった。日本もイギリスとの同盟関係により参戦した。日本は中国の青島に有るドイツの租借地を攻撃したが、戦争の困難さより、欧州の戦争特需による好景気に浮かれていた。
大正4年ヤス次が脳卒中で倒れた。この頃、竹さんは寝たきりのヤス次を看病する毎日だった。そんな中、竹さんにとって孫のセイを女学校に遣るのが夢だった。「セイを女学校に遣りたい」と言う竹さんに対して、息子のヤス太郎は「父ちゃんが寝たきりになって、母ちゃんが父ちゃんの世話をしなければならないから野良仕事の人手が足りない、セイには嫁に行くまで家のために働いてもらわなければならない。だからセイを女学校には遣れない」と言った。竹さんは家の実権が息子夫婦に移ったことを知った。
2年余りの闘病生活の末にヤス次が死んだ。追い討ちを掛けるように翌年、妙様が亡くなった。妙様はその頃世界的に流行していたスペイン風邪にやられた。竹さんは頼りにしていた二人に相次いで死なれ気落ちしていた。竹さんはその頃から時々胸の痛みに襲われた。医者に診せるとチュウ次と同じで、やはり心臓に問題が有る事が分かった。
大正8年クニが女の子を産んだ、ヨシミと名づけられた。心臓病により寝たり起きたりの生活を続けていた竹さんは大正10年心臓病が悪化して57歳で亡くなった。
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