妙様は公娼制度の廃止を目指して運動していると手紙を遣した。妙様の手紙には「公娼制度は日本の恥だとか、女を金銭で買う行為は嘆かわしい」とか書いてあった。竹さんには難しい事は解らなかったが「夫がそう言う場所に出入りするとしたら、嫌でしょう」と言う妙様の言葉はよく理解できた。自分は何も出来ないが、妙様の運動を影ながら応援していると書き送った。
明治33年、札幌で画期的な判決が出た。妙様は「これで公娼制度を廃止できる」と大喜びで手紙を遣した。廃娼運動の歴史は明治5年に出された「娼妓解放令」から始まる。明治5年ペルーの機帆船マリア・ルーズ号から逃亡した清国人を巡っての裁判で、横浜の裁判所は、「日本は奴隷制度を認めていないので騙されて奴隷契約をした清国人との契約は公序良俗に反する」として、無効であると判決した。これを不服として、ペルーは国際司法機関に「日本は遊女と言う奴隷を公の機関が認めているではないか」と訴えた。
これに慌てた日本政府は「娼妓解放令」を出し、娼妓を解放した。これにより、売春は娼妓が自前で行い、遊郭の経営者は場所を提供するだけと言う事になった。また娼妓の借金は、今までの遊女は奴隷であり、牛馬の如き者だから牛馬に借金を負わせる事は出来ない従って借金は棒引きと言う事になった。その事により「娼妓解放令」は「牛馬開放令」とも呼ばれた。群馬県は其れを受けて、明治15年の初めての県議会で公娼制度の廃止を決議した。(余談だがその伝統で、群馬県では今でもソープランド等の遊戯施設は無い)
しかしこの法律は建前であって、その後も娼妓の境遇は江戸時代と変わらなかった。明治33年の大審院の判決は「貸し座敷業者と娼妓との金銭契約は有効であるが、それと娼妓の身体を拘束する契約は別である」とし、娼妓の身体を拘束する事は娼妓解放令に反するので無効とした。これにより娼妓の自由廃業運動が盛んになった。
明治37年日露戦争が始まり、竹さんはこの戦争が長引くと息子たちが戦争に駆り出されるのではないかと言う不安に駆られたが、戦争は1年半程で終わった。長女シズは近隣の村の男と良い仲になり17歳で嫁に行った。ヤス太郎20歳、チュウ次は19歳に成った。チュウ次はその頃から本庄の朝霧楼と言う遊郭に出入りするように成っていた。悪い友達に誘われて行ったのが初めで、そこで一目ぼれした女の所に通っていると言う事だった。竹さん夫婦は何度も意見をしたのだがチュウ次は聞く耳を持たなかった。
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