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作品名:お竹さん(前編) 作者:カズロン

第7回   ヤス次
竹さん達の作業が終わった頃から各農家の作った蚕種が続々と運び込まれて来た。文字の書ける竹さんは帳面付けの仕事に駆り出された。農家の名前と住所、蚕種の等級、枚数などを書き込んだ。少ない農家で百枚、多い農家で五百枚程の蚕種を持ってきた。蚕種を持ち込む農家は、群馬県の農家が多かったが、中には埼玉県の農家も有った。

その中に埼玉県、M里村の農家から来た兄弟が居た。上岡と言うその兄弟は100枚ほどの蚕種を持って来ていた。M里村は本庄市の隣に有った。兄は25歳位で弟は20歳位だった。兄は饒舌だったが、弟は無口だった。兄が言った「ヤス次、お前が差配さんと交渉してみろ」と。「差配さん」と呼ばれる会社の人が蚕種に等級を付ける係りだった。その「ヤス次」と呼ばれた若者は差配さんの前に立ったが、差配が「これとこれは1級、これはらは2級、この30枚は3級、他の40枚は等外」などと言っても黙っていた。竹さんは会社の人間で有るにも関わらず「もっと主張すればよいのに」と内心思った。

みかねた兄の方が「これの3級は酷い、等級外の中にも3級が有る筈だ」と主張した。その主張が通って何枚かの等級が上がった。兄は弟に言った「嫁を貰ったら分家して一家を構えるのだからもう少し確りしないと家が潰れてしまうからな」と。「まだ嫁なんて・・・」と弟はぼそぼそと言った。そして竹さんを見て赤くなった。なんて情けない男だと竹さんは思った。そのまま竹さんはその兄弟のことは忘れてしまった。

蚕種の製造が終わると蛹を取り出した屑繭を真綿にする作業が始まった。この工場で出た屑繭だけでなく、農家からも屑繭を会社が買い入れていた。水の中で繭を広げて、それを干して白い油揚げのような形【袋真綿】に整える。これは中々技術がいる作業で、竹さんは上手く出来なかった。イネさんが「これが上手く出来るようになれば嫁の貰い手が有るよ」と言った。そして「遅くても良いから丁寧に遣る事が上達の道だよ」と言った。(この真綿が所謂紬【つむぎ】の原料になる、今でこそ紬は高級品だが、江戸時代、紬は屑繭から作るる庶民の反物だった)

八月にお盆休みが有った。近郊から来ている人達は実家に戻ったが、竹さん達のように遠くから来ている人達は会社に残っていた。竹さんはイネさんに「地元の盆踊りに行かないか」と誘われた。同郷の人達、数人と浴衣を着て出かけた。

盆踊りの会場では数人の若い男たちが待っていた。その中にあの兄弟の弟の方が居た。イネさん達は以前からその男達のグループと知り合いらしく、親しそうに話していた。イネさんが竹さんをグループに紹介した。そのヤス次と言う男は竹さんを見るとまた赤くなった。以前から相手が決っているらしく、一組、二組とカップルが消えて行き、気が付くと会場には竹さんとヤス次だけが残ってしまっていた。

「何でこんな男と居なければ成らないのだ」と竹さんは内心思ったが、他に知った人もなく、仕方が無いので一緒に居た。ヤス次が言った「竹さんは名古屋から来たんだって」と。「何で知っているの?」と竹さん。「イネさんのこれから聞いた」と親指を立てた。「実はこの前あんたを一目見て好きになってしまった」「それでイネさんのこれに頼んで渡りをつけて貰ったんだ」と親指を立てながら言った。竹さんは「私は何とも思わなかったけれどね」と言いながらも「好きだ」と言われて悪い気はしなかった。

明治11年、島村勧業社は東京出張所を京橋区日吉町に開設していた。明治11年には東京出張所の扱いで7万枚の蚕種が売れた。しかし翌12年は商いが盛り上がらず、5万枚が売れ残ってしまった。そこで勧業会社設立の当初の目的、ヨーロッパとの直接取引をする事でこの状況を打開しようと、社長の田島弥平と幹部二人がその5万枚の蚕種を携えてイタリアに向かった。しかし2万枚が売れ残り、余り利益は出なかった。13年には5万6千枚、14年には2万8千枚をイタリアに送ったが前回と同様、多くの売れ残りが出てしまった。という訳で島村勧業社の業績は悪化の一途を辿っていた。

竹さんは別にヤス次と付き合っている心算は無かったが、休みの日などにグループで出かけると、何時も二人が取り残されて二人で居るので、周囲には必然的に二人が付き合っていると思われていた。その様な状況なので竹さんは他の男に声を掛けられる様なことも無かった。ヤス次は竹さんが頼めばどんな無理な事も遣ってくれた。まあ今風に言えば「足シー」のような存在だった。二人の関係は進展もなくその様な状態が長く続いていた。

会社の業績は悪くなる一方であった。15年頃になるとリストラが始まった。幸い竹さんは仕事が出来ることと、読み書きが出来る事が幸いしてリストラされる事は無かった。

竹さんは18歳に成っていた。その頃会社では輸出に見切りをつけて、蚕種を国内販売に切り替えると共に、糸繭の生産を始めていた。竹さんも糸繭生産部門に配置転換された。

会社の業績の悪化は竹さんもひしひしと感じていた。ヤス次に「首になるかも知れない、そうなったら名古屋に帰らなければ成らない」と弱音を言った。ヤス次は「そうなったら俺が貰ってやるよ」と言った。竹さんは「それも良いかな」と思った。名古屋に戻ってまた自分が伯父達の争いの種になると言う事もさりながら、戻って果たして自分の居場所が有るのだろうかと言う不安で気持が滅入った。

明治17年、会社は全従業員を集めて会社の解散を発表した。竹さん、二十歳の春であった。ヤス次に「会社が潰れた、いよいよ名古屋に戻らなければ成らない」と言うと、ヤス次は「親が(他国者は駄目だ)と言っている、もう少し待ってくれ、今親を説得しているから」と言った。「なにそれ、あたしが何時あんたに貰ってくれと言った」と竹さんは強がりを言って怒った。ヤス次はおどおどしながら「必ず親を説得するから」と言った。

残務整理が終わって従業員の殆どが故郷に戻っていった。竹さん達も5月の下旬に帰る事になった。同郷の者たち一同纏まって帰る事にした。高瀬船で東京に出て、東海道を歩いて帰る事になった。

ヤス次は迎えに来なかった。会社の門を出る時、何時もヤス次が来る道の方を見て、思わずヤス次を探している自分が情けなかった。「とうとう来なかったね」とイネさんが言った。イネさんの「良い人」も来なかった。イネさんは「あんな五反百姓と一緒になっても苦労するだけだから・・・」と寂しそうに言った。

船着場にヤス次が居た。「親の許しが出た、一緒になろう」とヤス次は言った。竹さんは何も言えずに頷いた。

前編 終


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