「今皆は作業中で、もう空ける時間だから間もなく降りてくると思うわ」とイネさんは言った。「作業中に迎えに来て貰って申し訳ありません」と竹さんは言った。「今はそれ程忙しくないから・・・」とイネさんは言った。その時6,7人ほどの人達が2階から降りてきた。その中の年長の一人が「着いたの・・・良く来たわー、待っていたのよ」と言った。
イネさんが「此処の責任者のクラさんです」と彼女を紹介した。彼女は「待っていたのよ、明日あたり毛蚕(ケゴ)が孵って忙しくなるから・・・」と言った。竹さんは「(毛蚕)って何ですか?」とイネさんに聞いた。竹さんは農家の出だが竹さんの村では蚕は遣っていなかった。従って竹さんは蚕を見た事が無かった。クラさんが言った「竹さんはお蚕を見た事が無いの、仕事を覚えるまで苦労するわね」とガッカリした様子で言った。そしてイネさんに向かって「この人は貴方に任せるから宜しくね」と言い、更に「二階を見せてあげると良い」と言った。竹さんも「宜しくお願いします」とイネさんに言った。
イネさんに連れられて二階に上がった。二階には交代したばかりの、別の組の人たちが居た。「今度うちの組に入った竹さんです」とイネさんが竹さんを紹介した。竹さんも「宜しくお願いします」と挨拶した。この建物には三つの組みが有り、それぞれに8,9人の人達が居て、その組ごとに早番、遅番、夜勤と入れ替わりながら24時間体勢で蚕の世話をしていると言う。
二階には数段の棚が有り、その棚の上の木箱に和紙が敷いてあり、その中に無数の小さな灰青色の卵が有った。イネさんが「卵がこの色に成ると翌日には孵化するのよ」と言った。この色に成るまで9日から13日経っていると言う。卵の孵化には25度以上の温度が必要だと言う。(温度計は江戸時代に体温計を参考に養蚕用として開発されていた)「孵化すると小さな毛虫になるの、それをケゴ(毛蚕)とかギサン(蟻蚕)とか言うの」と言った。
夕食の時、部屋の皆に正式に紹介されてその晩は寝た。翌朝、朝食を済ますと竹さんとイネさん、他に2名の同室の人とが工場の隣に有る桑畑に桑の葉摘みに出た。指に小さな鉄の刃を付けて若い桑の葉を一枚づつ摘んでゆくのだ。その日はとても強い風が吹いていた。イネさんが言った「これが(上州のからっ風)と言うのだ」と。そして「今はまだ良いのよ、2月3月はもっと酷いのよ」と言った。「でも、この風が質の良い桑の葉を作るの、もしこの風が無ければ蛆蝿が桑の葉に卵を産み付けて、その蛆蝿の卵を桑の葉と共に食べた蚕が蛹に成る時、その蛹を蛆蝿の幼虫が食い殺してしまうの」と言った。
その日、皆の背負った籠は満杯なのに、竹さんの籠は半分も入っていなかった。竹さんが「済みません」とイネさんに言うと、イネさんは「遣ったことが無いのだもの仕方が無いわ、直ぐに慣れるから」と慰めてくれた。建物に戻って二階に上がると昨日の卵が孵って無数の毛虫が刻んだ葉っぱの中で蠢いていた。まだ孵っていない卵が別の棚に有った。夜勤の人達が選り分けたのだという。竹さんは「大変な作業だな」と思った。
採ってきた桑の葉を細かく刻むように言われた。イネさんが「毛蚕は大きな葉は食べられないので細かくするの」と言った。葉を刻む作業は蚕がかなり大きくなるまで続くそうだ。今食べている葉は夜勤の人達が刻んで与えて行ったと言う事だ。竹さんには、毛蚕が毛虫を連想させて気味が悪かった。
しかし2日半程すると毛蚕達は桑を食べるのを止めて動かなくなった。その日は夜勤だった。イネさんが「眠りに入った」と言った。この状態が1日ほど続き、その後脱皮して毛がなくなるそうだ。次の日、棚を見ると無数の小さな芋虫が居た。その芋虫は段々白くなってきた。この状態を1齢と言うのだそうだ。蚕は2齢、3齢と2、3日置きに桑を食べる時間と眠りを繰り返し、脱皮して大きくなっていった。
成長するのに従って竹で編んだ平たい籠に桑の葉を敷いて蚕を移すなどの作業で大忙しだ。4齢、5齢と成長するうちに、段々桑を食べる時間も眠りの時間も長くなっていった。5齢の蚕は体重が1齢の蚕の1万倍になると言う事だ。この時は全員で桑の葉を摘んでも間に合わないくらい蚕の食欲は旺盛だ。5齢では桑の葉は刻まず直接蚕に与えている。刻む作業が無くなりその分楽になったが、桑の葉を摘む作業は半端でなく忙しかった。
5齢目の蚕が8日程して桑の葉を食べなくなった、クラさんが「上簇して」と言った。(大きな平たい蓋状の物の上に椎の小枝が重ねて入れて有る中に蚕を移す作業を上簇と言う)上簇された蚕は、まもなく小枝の中で足場糸を吐き出し、繭を作り始める。そして繭の中で蛹に変わる。12日程したら繭を取り出し、小刀で繭の端を切り中の蛹を取り出す。雄と雌を分けて別々の部屋に取って置く。
(江戸時代は繭を吊るして置き、蛹が自分で繭から出てくるのを待って、自然に交尾させ卵を取ったと言う。糸を取る場合はこの繭を湯に付けて中の蛹を殺し、絹糸を取る、一つの繭から約1500メートルの絹糸が取れると言う、また足場糸や出来の悪い屑繭が所謂真綿になると言う)
この頃には竹さんは桑の葉摘みでも、他の作業でも先輩たちに引けは取らなかった。責任者のクラさんも「一月で一人前になった、竹さんは飲み込みが早い」と言って喜んだ。繭を作った蚕は10日から14日で蛹が羽化して蛾になる。部屋の温度を調節する事によって雄と雌の羽化の時期を合わせる。そこまでは早番の人達が遣った。交代して、蛾が卵を産み付ける為の産卵台紙を敷いた枠の中に雌の蛾と雄の蛾を(雄を若干多く)入れると直ぐ交尾を始めた。2時間程してクラさんが「割愛して」と言った。雄と雌を引き離す。これを割愛と言う。誰かが「あたし達はこんなに好きあっている連中を無理に引き離しているから、罰が当たって縁遠いかも知れないね」と言った。皆がいっせいに笑った。
4時間ほどすると雌は産卵を始める産卵は夜の事が多い。雌は産卵台紙の上に満遍なく卵を産み付けて行く、一匹が産む卵の数は500個前後だと言う。卵の表面に糊状の粘液が付いているので乾けば台紙から落ちる事は無い。産卵台紙の大きさは江戸時代から1尺2寸(36.3センチ)かける7寸5分(22.5センチ)と決まっているそうだ。産卵台紙1枚に付き200匹の雌を入れる。枠は漆で塗装してある。何故枠に漆が塗って有るのかイネさんに聞くと、イネさんは「蛾が滑って枠の外に出られないようにして有るのだ」と教えてくれた。油を塗る場合も有るということだ。産卵台紙1枚に10万個近くの卵が産み付けられる計算だ。
時間が来たので夜勤の組と交代した。夜勤の組の人達は、今夜は大変だ。この作業が終わるのは明日の昼ごろだと言う。このような作業を何回か繰り返して竹さん達はこのシーズン、おおよそ1500枚の蚕種を生産した。(今年生産した蚕種は25度以上の温度でも孵化する事は無い、蚕種は冬の寒さを経験しなければ孵化しない。この後大正時代、冷蔵庫に入れたり、酸に漬けたりして蚕種を孵化させる技術が確立して、年に3回繭を取る事が出来るように成った)
ひと段落して、職場長が言った「今年の蚕種の輸出目標は6万枚だ」と。竹さんは「おかしいな」と思った「この棟だけで生産できたのは1500枚だから7棟全部を合わせても、生産高は1万500枚のはずだ」と。その事をイネさんに言うと、「実はこの会社は主に蚕種を売るのが目的の会社で、作るほうは大部分を農家に遣って貰っている」とイネさんは言った。そして「自分達が作った蚕種は等級の基準になるのだ」と言った。そして「農家に蚕種製造のための資金の貸し出しも遣っている」とも言った。
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