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作品名:お竹さん(前編) 作者:カズロン

第4回   蒸気船
娘一人で旅をするのは危ないという事で、カツ叔父が知り合いの県の役人に話したところ、政府から愛知県に派遣されていた役人の一家が任期切れで東京に戻ると言う、その一家に話を通してくれた。その役人は「同行するだけなら」と言い、快く同行を承諾してくれた。

しかし、東京へは船で行くと言う。船賃が15円掛かると言う。ナツさんが妹の支度金としてその勤め先から10円預かってきていた。それは旅費の意味も有った。歩いてゆくなら関東まで10日余り、10円で足りるのだが・・・2人の伯父達から餞別として10円ずつ貰った。足りない分はその中から出す事にした。カツ叔父が「金は掛かるが、早く着くし、娘一人の旅も心配もない」と言った。船なら3日で横浜に着くと言う。

名古屋の市内で叔父の知り合いの役人、鈴木某と東京へ帰ると言う役人の一家に引き合わされた。高橋と言うその役人は30代半ばの人で西洋人の着る背広を着ていた。その奥方妙様は二十七、八の人で上等な絹の着物を着て幼い男の子を連れていた。竹さんは木綿の着物だった。「宜しくお願いします」と竹さんが言うと、奥方がニッコリ笑って「宜しくね」と言った。優しそうな人達だった。見送りに来たカツ叔父が「奥様のお手伝いをしなければ駄目だぞ」と言いながら、「使って遣ってください」と奥様に向かって言った。奥様は微笑んだ。叔父達と別れ、小船で三重県の四日市に向かった。(明治3年から三重県の四日市港と横浜港を結ぶ蒸気船の航路が開設されていた)

奥様たちは2等の個室で、竹さんは3等の大部屋だった。慣れない船旅で酔ってしまい甲板で吐いていると奥様が通り掛り「大丈夫」と言いながら背中を摩ってくれた。「坊ちゃんは大丈夫ですか」と聞くと、「旦那様が見ているから、旦那様は子供好きだから私は助かるわ」と言って笑った。奥様は元々直参の娘で旦那様は佐賀藩の出だと言う。

奥様が言った「鈴木さんから聞いたのだけれど、お蚕の仕事で関東に行くのね、絹の輸出はこの日本にとってとても大事なことなので頑張ってね。貴女達たちが作った絹を輸出してそれで得たお金で外国の物資を輸入して日本は近代化出来るのだから・・・」と言った。竹さんはそんな事を考えてみた事も無かった。女の人が国の事を考えているという事が新鮮な驚きだった。

横浜に到着して、竹さんは初めて汽車に乗った。汽車は一時間弱で新橋駅に到着した。そこから徒歩で浅草の三筋町と言う所にある高橋様のお屋敷に向かった。「爺や」と呼ばれる六十がらみの男の人が出迎えてくれた。この屋敷は奥様の実家で、両親亡き後、この「爺や」がこの家の留守を預かってきたと言う事だ。その晩はこの屋敷に留めてもらうことに成った。奥様が「本庄まではどうやって行く心算なの?」と聞いた。竹さんは「中仙道を歩いて行きます」と言った。

奥様は「若い娘の一人旅は心配だから」と言い、船で行く事を勧めた。「此処から二里ばかりの江戸川に船の乗り場が有るから、そこから関宿と言う所まで行って、倉賀野行きの高瀬船に乗り換え、利根川を遡れば本庄まで安全に行ける」と言った。「関宿で一泊しなければ成らないが(爺や)の親類が関宿で旅館を遣っているのでそこに泊まると良い」と言った。

翌朝、奥様が爺やさんに「船着場まで付いて行ってあげて」と言って、爺やさんが案内してくれる事になった。そして旅館への紹介状と此処の住所を書いた葉書を渡した。「無事に着いたかどうか知りたいので無事に着いたらこの葉書を出して」と言った。竹さんがその宛名を、声を出して読むと、奥様が驚いたように「竹さんは字が読めるのね」と言った。

(明治5年学制が制定され、明治8年には全国に23000余りの小学校が作られたが就学率は30%にも満たなかった。特に農村部の女子の就学率は低かった。明治12年頃、農家の娘で字が読めるものは殆んど居なかった。就学率が98%に成ったのは明治の終わりごろだと言われている。)

竹さんも就学年齢時は、まだ小学校は無く従って学校には行っていなかった。父親が「お前はこの家の跡取りなのだから読み書きの一つも出来なければ困る」と言い、一通りの読み書きと算盤を自ら教えていた。小学校が出来た時(明治8年)、国から就学率を上げるようにとの通達が村に来た。竹さんの父親は村の幹部として自分の子供を学校に通わせなければ成らなくなった。そんな訳で竹さんは11歳で小学校に入学した。親の亡くなった年に小学校を卒業していた。奥様にその経緯を伝えると、奥様は「これからの時代読み書きが出来る事は役に立つわよ」と言った。

次の日の朝、奥様に別れを告げ、爺やさんと共に船着場に向かった。奥様は「勤め先に電信を打って置くから」と言った。(明治12年頃には全国的に電信網が完成していた)矢切と言うところに有る船着場には大小様々な船が集まっていた。その中に「通快丸」と言う蒸気船が有った。この船は前の年(明治11年)に就航したと言う事だ。竹さんは爺やさんに見送られ一人でこの船に乗った。

蒸気船は速く、まだ明るいうちに関宿に着いた。大部分の乗客は其の侭「通快丸」で銚子方面に向かった。その旅館の主人に奥様の紹介状を渡すと主人は「ああ高橋様の・・・」と言い、手厚くもてなしてくれた。食事を運んできた女中が「明日朝、高瀬船に乗れば夕方には本庄に着くよ」と言った。


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