これらの事は凡そ30数年前にK君がおセイ伯母から聞いた話だが、K君=筆者は、この話をベースにまた小説もどきを書こうと思い資料探しを始めた。しかしどう調べても「ナカ女中」と言う言葉はインターネットに無かった。
また当時の「種屋」と言うのは、大根やほうれん草の種を売る種屋ではなく、蚕の卵が付いた和紙を売る人のことを言うのだと言う事が分かった。種屋はその蚕の種を生産する農家から蚕の種を集めて養蚕農家に売り利ざやを稼いでいた。江戸時代は信州の種が良いとされていたそうだ。
埼玉県本庄市の向こう、利根川の対岸現在の伊勢崎市境(当時は島村)に明治5年地元の有志達によって蚕種(かいこだね、正式にはサンシュ)を生産する島村勧業社という会社が設立されたと言う事が分かった。従業員数は200余名で、渋沢栄一とも関係が有ったそうだ。
島村勧業社は輸出用の蚕種を生産することを目的に創られた会社で有った。富岡の製糸場は教科書にも載って有名だが同じ時期に創られた島村勧業社を知る人は少ない。
明治5年当時「蚕種」1枚の値段は洋銀4枚に値したと言う。しかし輸出ブローカーに買い叩かれ、生産者の取り分は少なかった。その不平等を是正するため、ヨーロッパとの直接取引を目的に島村勧業社が設立されたと言うことだ。(しかし当初は体勢が整わずヨーロッパとの直接取引は出来なかった、それが出来たのは明治12年以降のことで有ったと言う)
一般には絹は東洋のものでヨーロッパでは作られていないと思われているが、1800年代フランスやイタリヤでも養蚕は盛んに行なわれていた。しかし1848年微粒子病の発生によりヨーロッパの養蚕業は壊滅的な打撃を受けていた。健康な日本の蚕種はヨーロッパで重宝された。アメリカは捕鯨のために日本に開国を迫ったが、フランスは自国のシルク産業を守るため、健康な蚕種を求めて日本に開国を迫ったとも言われている。
K君=筆者は、おセイ伯母は子供の頃、祖母の竹ばあさんから「本庄の向こうを流れる利根川の向こう岸、島村の種屋に女工として勤めていた」と言ったのを、名古屋弁と上州弁のイントネーションの違いもあり、子供心に「本庄の種屋のナカ女中」と聞き違えたのだと推測した。でもそれなら「伊勢崎の種屋」と言うのが普通なのだが・・・
しかし調べてゆくうちに、この島村勧業社の所在地は利根川の向こう岸ではなく、群馬県の飛び地で、利根川の埼玉県寄り、本庄市に隣接した場所に有ったという事が分かった。それならお竹さんが「本庄の島村と言う種屋」と説明しても不思議では無いだろう。
世界遺産伝道師教会の記事によれば、この島村勧業社は明治5年に渋沢栄一の指導の基、田島武平、田島弥平、栗原勘三等によって創立されたとある。初代社長には田島武平が就任した。
最初の頃はヨーロッパへの輸出で莫大な利益を得た事も有ったが、明治14年頃に成ると蚕種相場の暴落により膨大な赤字を計上して明治17年(15年説も有る)に会社は解散したとある。(蚕種相場の暴落はフランスのパスツール研究所が微粒子病の特効薬を開発したためとも言われている)恐らく15年に解散を決め、大部分の従業員を解雇して、残った従業員が残務整理を終えたのが17年だったと言う事なのかも知れない。
明治5年は富岡の製糸工場が出来た年である。その富岡製糸場の建設にも渋沢栄一が参加していたと言う。K君=筆者の考えでは島村勧業社の組織はこの富岡製糸場に準じたものではなかったかと思う。「勧業」と言うのは産業を奨励すると言う意味で、この会社は群馬県の産業奨励事業の一環として創られたようだ。おセイ伯母の「全国から若い娘が集まった」と言うのも富岡製糸場と同じだ。富岡製糸場では8時間労働、週休制を導入していたと言う。
明治後期から大正に掛けての女工哀史の世界とは雲泥の差であった。(女工哀史については工女たちの境遇を否定的に捕らえすぎていると言う批判も有る。10時間から16時間働かされたと言っても「工場での生活は自分の家で農作業をしているよりも楽だった」と言う工女の証言も有る。長時間労働は寧ろ、現金収入の欲しい工女自信の意思で行なわれたという説も有る。まあそれだけ農民の暮らしが貧しかったと言う事だが・・・)さて、お竹さんが関東へやって来た訳は何か、おセイ伯母から聞いた話ししか手掛りは無いのだが・・・
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