あれから15年の月日が流れた。私は47歳になった。亡くなった父の後を継いで院長に成っていた。姉の子、姪のI子が国立大学の医学部に合格した。跡継ぎが出来たと言って、父は私の時以上に喜んだ。しかしI子の卒業を見ずに父は亡くなった。私はI子を可愛がった。自分の子供が居なければ姪は可愛い存在だ。そのI子が自分の指導医だった男と結婚した。私は我が事の様に嬉しかった。
この15年間の日本国の凋落振りには目を覆いたくなる事ばかりだ。2009年に成立した新政権は国内的には垂れ流しのばら撒き行政を行い膨大な財政赤字を生み出し、外交面では悉くアメリカと対立して、首相の「アメリカの核の傘はいらない」発言の結果、アメリカの「日本に核の傘は提供しない」と言う声明によって事実上「日米安全保障条約」は解消された。それは取りも直さず周辺国に日本、切り取り自由のお墨付きを与える事になった。
まず動いたのは中国だった。かねてより、中国が領有権を主張していた尖閣諸島(中国名魚釣り島)に軍を上陸させて占拠した。日本政府は抗議したが無視された。次に動いたのが韓国だった。対馬に軍を上陸させ対馬を占領してしまった。韓国人が以前から対馬の土地を買い漁っていた。この遣り方はユダヤ人がパレスチナの土地を奪ってイスラエルを建国した遣り方と同じだ。尖閣諸島の時は無人島と言う事もあり、また遠くの出来事として国民も意識的に目を背けていた。そうしなければ国民の自尊心が保てなかったからだ。しかし対馬が占領されるに到って世論は激昂した。この対馬の占領は裏でアメリカが糸を引いていると言ううわさが有った。
自衛隊を送って対馬を取り返せと言う世論に「そうすれば戦争に成る」と言う連立政権内のS党の「戦争だけは回避しなければ」と言う主張によって、それは見送られた。無為無策の政府に国民は怒り、呆れた。だが、私はその選択は正しいと思った。韓国にはアメリカが付いていた。アメリカの支援を受けた韓国と戦争したらもっと惨めな結果に成っていただろう。日本政府は島に居た自衛隊員に抵抗せず武装解除に応じるよう命じた。それを良しとしない一人の隊員が武装解除に抵抗して射殺された。韓国は対馬の住民に韓国籍を取るか、そうでなければ対馬から退去する事を求めた。
今度はロシアが動いた。北方4島を返還するから代わりに北海道の三分の一をよこせと言うのだ。これは第二次大戦前、ソ連がフィンランドに同じような要求をして結果、「冬戦争」と言う戦争が起こったのと同じだ。これは昔、歴史好きの父に聞いた話だが・・・≪ソ連はフィンランドの重要工業地帯と広大だが何も無い森林地帯の交換を要求した。フィンランドは武力衝突と言う不測の事態を避けるため自国の軍を国境から引き離して戦争を回避しようとしたが、ソ連はフィンランド軍に砲撃されたと口実を作って50万の大軍をもってフィンランドに攻め込んだ。此処に到って、総司令官マンネルヘイム指揮下の16万の国防軍と国民は立ち上がりソ連軍に徹底抗戦した。結果ソ連軍は20万人の戦死者をだして敗退した、しかし国力の違いからこれ以上の戦争継続は不可能だと悟ったマンネルヘイムはソ連の要求を呑んで休戦した。結果として戦争して何も得る事は無かったが、国民の自尊心と独立はまっとう出来たわけだ、ソ連はこの戦争の敗戦に懲りて二度とフィンランドを攻める事は無かったと言う≫
この頃、多くの企業が海外に出て行った。株価は暴落し、失業率は15%を越え、円安は200円を超えていた。此の侭行くと昔のように360円まで行くのではと言われていた。そんな状況の中で、H女史が民族主義政党「民族党」を創ってその党首に就任した。最初は弱小の政党として余り注目されていなかったが、過激な民族主義的主張が日本の現状を憂えた若者を中心に支持されて急速に党勢を伸ばしていった。民族党は若者からなる「行動隊」と呼ばれる組織を作った。彼らは特殊警棒を持ち民族党の主張に反対するマスコミ人や政治家を暴力で脅した。警察内部にもシンパが居るらしく彼らに対する取り締まりは手緩かった。
|
|