その頃、埼玉の工場は完成しつつ有った。そしてK君達若夫婦の住む住宅の建築確認も降りて着工の予定だった。工場の機械を買うために機械屋から見積もりも取っていた。資金を借り入れるために、その見積もりを金融機関に提出しようとしていたその時、大変な情報が入った。それは取引先の問屋が自前の工場を建設すると言うものだった。K君も両親も愕然とした。直ぐ、問屋の社長に父親とK君は会いに行った。
社長は「心配するな、Kさんの所の実績を減らすような事はしない」と言った。「これからは問屋、特に菓子問屋は殆んど無くなるだろう、これからの時代は製造業か、小売業しかこの業界では生き残れない、うちもその準備をしているのだ」と言った。社長の計画では工場を建設すると同時に、小売の店舗を増やして売り上げを伸ばして行こうと言う計画だと言う事だった。
K君は思った。「それなら心配する事は無い、社長に付いて行けばうちも大きくなれるだろう」と。しかし父親の見方は違っていた。「社長の思惑道理に進めばその通りだが、見通しが外れれば、こっちに仕事は来なくなる」と言った。(後に父親の予想は当たった)予定通りに計画を進めようと主張するK君と、それは危険だから計画を縮小しようと言う両親との間で対立が起こった。K君が嫁さんに意見を求めると「あなたが良いと思うようにしたら良い、私は何処にでも付いて行く」と言った。「良い女房だ」とK君は思った。その時、K君の嫁さんの妊娠が判明した。
ある日、母親が言った「お父さんと相談して、工場には私たちが行くことにした」と。「何故」とK君が言うと、母親は「乳飲み子を抱えたシンちゃんにパートさんが使えるだろうか・・・子持ちのシンちゃんは戦力にはならないよ、工場は回らなくなるよ」と言った。さらに、母親は「私たちなら事務所ででも生活できるし・・・」と言った。
確かにパートさんを使った経験も無い妻にそれが出来るか不安だった。しかも子供の面倒も見なければならない。K君も段々親の言っている事が正しいと思うようになった。父親は言った「3年、俺たちが工場に行く、そして見通しが立ったら当初の計画を実行し、交代しよう」と。K君は同意した。しかしその約束は果たされる事無く、25年後K君の父親は工場で死んだ。
昭和49年2月11日、K君に娘が生まれた。奇しくもその日は、あの祖母の命日だった。8年前、祖母の死によってドイツ語を落とし、そのことでS君と親しくなり、結果、妻と出会い、その妻が祖母の命日に娘を産んだ。K君は不思議な縁を感じた。K君の娘はとても可愛い子だった。その娘のためにK君はタバコを止めた。以後35年間K君は一度もタバコを吸った事は無い。
借金の負担を軽減するため、住宅の建築は中止した。工場の機械も必要最小限のものだけを新しくして、他は東京で使っている古いものを持って行く事にした。工場内の事務所と倉庫にする予定の20坪位の場所を住宅に作り変えた。古い機械の設置はK君と父親の二人でやった。新工場が稼動したのはK君の娘が生まれた年、昭和49年6月だった。K君は東京から工場に通う事になった。毎日は戻れないので、週のうち半分は工場に居て、半分は東京に居ると言う生活になった。K君の居ない間は嫁さんの母親が泊りがけで来てくれた。K君の母親は「シンちゃんヤスの事、頼むね」と、末っ子で、大学生のヤスの事をK君の嫁さんに頼んで、工場に引っ越して行った。
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