K君が何時ものようにその店に行くと、ママが声を潜めて言った。「昨日彼女が一人で来たわよ」、「それでお客さんと揉めたのよ」と、「彼女に、(K君には言わないで)と頼まれたけど、K君には義理が有るけど、私、彼女には義理が無いから」と、そして「それ以上はお客さんとの関係もあるから言えない」と言った。
何のことか解らずK君はそのスナックを出て、電話ボックスから彼女に電話した。「昨日、Pに行ったんだって、何しに行ったの?」「ママが言ったの?」と彼女、「誰でも良いだろ」とK君、「貴方が居ると思って」と彼女、「僕が夜学に行っていることは知っているじゃない」とK君、「それであそこで何をやらかしたの?」とK君。
K君にとって、「スナックP」は自分のテリトリーだと思っているので、たとえ彼女でも自分の許可無くそこに進入したことをK君は怒っていた。
「本当のことを言えよ」とK君、「コーヒーを飲んだだけよ」と彼女、そして「そんなに私のことが信じられないのなら当分会うのを止めましょう」と彼女が言った。「分かった、もう終わりだな」と言いながら、K君は乱暴に電話を切った。
「何で彼女はあそこに行ったんだろう」、「揉めたと言うのはどう言う意味だろう」K君には解らないことだらけだった。
次の日、K君はまたPに行った。ママに彼女と別れたと報告した。「別れたの、それが良いわ、K君の手に負える娘(こ)じゃないから」と意味深なことを言った。そこに客が入って来た。「あ、丁度良いわ」「マモルちゃんこっちこっち」とママはその客を呼んだ。
「マモルちゃん、こちらが昨日話したK君」「K君、こちらSマモルさん」とママに紹介された。「マモルちゃんK君に話してあげて」とママ。
「実は彼女はこの先にある(夜の川)と言うバーのナンバーワンホステスなんですよ」と彼、K君は吃驚しながらも「でも彼女美容師のはずですが」とK君、「そう、あの美容院の美容師全員が(夜の川)で働いているんですよ」とSマモル氏は言った。「揉めたと言うのは?」とK君、Sマモル氏はママに目配せしてから「あれは掛け代金のことでちょっと」と言った。「でも電話すると9時半ごろには何時も自宅にいましたよ」とK君。「それなら今は、ホステスは辞めているんでしょう、僕が知っているのは去年の話ですから」とSマモル氏。その出会いを切っ掛けにSマモル氏とK君は急速に親しく成って行った。
Sマモル氏は男のK君から見ても、魅力のある人物だった。年齢はK君より7歳年上の29歳、話題も豊富で、東京G大のピアノ科を出ていた彼は特に音楽に詳しかった。彼はジャズメンだった。バンドではトランペットを吹いていると言っていた。しかしその頃、彼のバンドは休止状態だった様だ。彼がどの様にして生計を立てていたのかはよく分からない。年上の看護婦と同棲していた。
彼は女性関係が派手だった。知り合った頃、彼は米軍の将校の奥さんと交際していた。その彼女の旦那が転勤で本国に帰ることになり「貴方と別れたくない」という彼女の熱烈なラブレターを訳してK君たちに聞かせた。もう飽きたから丁度良かったと笑っていた。
そんな彼を若いK君たちは英雄視していた。特にK君と同級生のSジュンイチは彼を尊敬していた。その他、国税庁の若い職員などが彼の周りに居た。
K君は彼女の正体を知ってしまった。その事が有って初めて家の前で彼女と会った。彼女は今までのように笑いかけてきた。しかしK君は目を逸らせた。彼女の顔色が変わった。それ以来、彼女もK君を無視するようになった。
その頃、J美大学に通っている従妹がK君の家に下宿していた。その従妹がKちゃんに彼女が出来たと言うので前の美容院に見に行った。その時は「綺麗な人ね」と言っただけだったが、別れたと聞いたらK君の従妹は、あの時、彼女に電話が掛かってきて、その相手に彼女が「(M君、お久しぶりー)何ていっちゃって、水商売の人みたいだった」と言った。「Kちゃん騙されているのじゃないかと心配したのよ」とも言った。
スナックPではK君は悪い女に騙されそうになった哀れな男と言う図式が出来上がっていた。彼女のことをK君が口にすると、ママたちは「悪い夢を見たと思って、早く忘れなさい」と言う雰囲気だった。
年が改まって1月の終わりに銀行でK君が入金伝票を書いていて、ふと目を上げると彼女が目の前に居た。K君は、思わず「やあ」と言ってしまった。すると彼女が「元気」と言った。その時、別れて3ヶ月しか経っていないのにK君は懐かしさがこみ上げてくるのを感じた。「今日は混んでるね」とK君は言った。「そうね」と彼女は答えた。「じゃあ、またね」と言って彼女は銀行を出て行った。彼女は暫く前からK君を見ていたようだった。
K君は思った。「自分はバーの客ではない、水商売の女性と付き合ったわけではない。堅気の女性としての彼女と付き合ったのだ、人がなんと言おうと自分が良ければ良いのだ」と、K君は決心した。
そしてその晩電話した。「もしもし、Kと申しますが、K子さんおいででしょうか?」「はい」と彼女の母、ちょっと間を置いて「いままで居たのですけど、出かけたようです」「解りました。またお電話します。」K君は居留守を使われたと思った。彼女は駆け引きをしているのか、それって水商売のお姉さんたちのやっていることと同じだとK君は思った。K君はPに来るお姉さんたちの駆け引きを色々見聞きしていた。
次の日、夜学の同級生と食事会だった。時間が来たので中座して電話ボックスに行った。昨日と同じ時間に電話すると、今度は彼女が直接出て「お久しぶりー」と明るい弾んだ声で言った。K君は思った「俺はバーの客のM君と同じかよ」と。K君は無性に腹が立った。そこでK君は言った「近くにいるのだから昨日の様に挨拶ぐらいしようよ」と。「じゃあ」と言って電話を切ろうとすると、彼女は急に言葉を、「です言葉」に改めて「OOさんは元気ですか?」とか「あの名前は忘れたけれど、あの大きな家のお嬢様は?」とか次から次に質問をぶつけて中々電話を切らせなかった。30分程してK君は「友人を待たせているから」と言って無理に電話を切った。
2月にK君の家でテントの張替えをやった。テント業者が「若旦那、人手が足りないので、ちょっと手伝ってくれませんか」と業者が言った。K君が2階に上がってロープを持って待っていると向かい側の中華ソバ屋の前からK君のほうに向かって大きな声で「大変ね!」と彼女が言った。その様子をソバ屋の店主が、この二人、どんな関係なのかと言うような顔をして、K君の顔と彼女の顔を交互に見比べていた。買い物でもあるのか、彼女は美容院と反対の方向へ走って行った。彼女の「電話してよ」と言うメッセージだとK君は思った。でもあえてそのメッセージをK君は無視した。K君は彼女が自分をバーの客と同じ様に扱うのなら、もう終わりにしようと決心していた。
2月の終わりから3月にかけて20日間ほど、4年生の集中授業のための合宿が有って家を空けた。帰ってきて暫くしたある日、前のそば屋の主人と話している彼女の声が聞こえた。「色々お世話になりました、今月で辞めるんです」と彼女、「そう元気でね」とそば屋の主人、「何で辞めるか聞けばいいのに・・・もしかしたら自分に聞かせるために言っているのかな」とK君は思った。電話したいと言う衝動に駆られたけれどK君はそれを押し留めた。そして彼女は居なくなった。
4月のある日Pにいると、彼女と仲の悪いあごのしゃくれたA子がもう一人の同僚と入って来た。K君は彼女たちに背を向けた。隣で彼女たちが話し始めた。「お嬢さんぶっているけど、あんな食わせ者はいない」「あんな女に騙される馬鹿な男もいる」などと彼女の悪口だけではなくK君の事まで、K君に聞かせるように言っていた。「ママが分かったでしょう」と言うような顔をした。ママがなぜそこまで彼女を嫌うのか分からなかった。ママの嫌いなタイプの女なのかも知れないとK君は思った。
5月に彼女と仲の良かった沖縄出身のHがK君の店に来た。「彼女の実家の電話番号を教えてくれない」とK君に言った。「私、電話帳を無くしてしまって」と言った。K君は嘘だと思った。彼女の電話帳が無くても、店にだって電話帳は有るだろうし、要するにK君に「彼女今どうしていますか?」と言わせようとしているのだと、K君は思った。だからK君はあえて彼女のことは聞かなかった。「僕も電話帳を書き換えたので彼女の電話番号は分からない」とK君は答えた。彼女はがっかりした様子で帰って行った。これで終わったとK君は思った。
K君はSマモル氏と益々親しくなった。彼はK君の店にも来るようになった。店番をしながら二人で話をしていると、A子が店に入って来た。そこにSマモル氏が居るのを見て、目を丸くして何も言わず出て行った。その事はHを通じて彼女にも伝わるだろう。その時、彼女はどう思うだろうか。自分が彼女に「コケ」にされたと思っているK君は、そのような状況に陥った彼女に対してサディスティックな快感さえ覚えていた。
スナックPには色々な人が出入りしていた。主に水商売関係のお姉さんたち、それにオカマ、なかに池袋のPルコの中にある高級ブテッツクRの女性店長M世がいた。彼女は終電で帰って来て、Pで酒を飲みながら夜食を食べ、客に出す葉書を書いていた。彼女は最先端の洋服を着てとても格好良かった。その彼女がK君たちのグループに合流したのも、やはりSマモル氏に関心が有るからだろうとK君は思った。彼女は美人で明るく、そして正直な女性だった。
流石のSマモル氏も仲間内のM世に手を出すような事は無かった。ある日、Sマモル氏がK君達を自宅に招いて鍋パーテーをやると言い出した。K君は用事が有って遅れて行ったのだが、その日、Sマモル氏の奥さん(同棲相手)をはじめて見た。細面の色の白い美人だった。この鍋パーテーはSマモル氏がM世に自分を諦めさせる為、と言うより自分自身に歯止めをかける為にやったのだとK君は思った。その帰り道「本当に奥さん居たんだ」とM世がぽつりと言うのをK君は聞いた。後にM世はSジュンイチと結婚した。
知り合って1年以上経った頃、K君は長い間、聞きたいと思っていた事をSマモル氏に聞いた。「マモルちゃん、彼女と寝たの?」、K君が唐突に聞いたのでSマモル氏は「え?」と聞き返した。そしてK君が言っている意味を理解して言った。「彼女とは寝てないよ」と。
暫く沈黙が有って、Sマモル氏はK君に言った「昔、執念深い女がいた」「何度もアパートに訪ねて来て、仕舞には大家や不動産屋にまで行った」と。そして「夜中に友人が女と居るところにまで来た」と。Sマモル氏は以前「バンド仲間の友人と二人で引っ掛けた女を連れ込む為だけの部屋を借りていた」とK君たちに話した事が有った。K君はその部屋のことを言っているのだと思った。
女を部屋に連れ込んで、窓を開けて窓枠に腰掛けながらSマモル氏は女に「何してるの、早く布団敷きなよ」と言った。女はためらっていたけれど、「ここまで来て何だよ」とSマモル氏が言うと、女は覚悟を決めて布団を敷いて横たわったという。さらにSマモル氏は言った「ホステスのくせしてバージンだった」と。
「部屋に連れ込んだからと言って押し倒したら強姦に成ってしまうから、俺は何時も布団を敷かせるんだ、そうすれば和姦だ」と以前Sマモル氏が言っていたのをK君は思い出した。
こんな形で彼女が弄ばれたのだと言う事を聞かされてK君の心は痛んだ、そして彼女は自分を騙した男を追って後先も考えずPに乗り込んだに違いないと思った。「マモルちゃん酷い事をしたんだね」とK君が言うと、「そんなことは無いよ、男が遣りたいことは女だって遣りたいんだから」とSマモル氏は答えた。
Sマモル氏は言う「K君のように女を美化していては、女だって疲れるよ」「女だって男だって遣りたいことは同じだよ」と。そして明日、良い所に連れて行ってやると言った。
翌日、K君の車に乗って、連れて行かれたところは、荒川を越えたK市の駅の近くにあるストリップ劇場だった。場末のその劇場では踊り子がかなり際どい踊りと言うより、それ以上の事を遣っていた。K君は初めてそれを見た。Sマモル氏は言った「どんな上品な女だって、ここの女と同じだよ」と。「同じって?」とK君は聞いた。「身体の構造が同じだという事だよ」とSマモル氏は言った。
次に、K君は、その劇場の側に有るトルコに連れて行かれた。Sマモル氏が従業員の男に何か話していた。K君が待合室で待っていると小柄なスタイルの良い清楚な感じの女性が迎えに来た。「どうしてこんな娘がこんな仕事をしているのだろう」とK君は思った。
個室に案内された。部屋には浴槽と洗い場があり、そこにベッドが置いてあった。女性は気さくに話しかけて来た「初めて?」、女性は料金の説明を始めた。OOだけなら3000円、ここまですると5000円、K君は女性が話し終わる前に財布から一万円札を取り出してベッドの上に置いた。場末のその店では一万円は破格の金額らしく女性の顔が輝いた。「今日はサービスしちゃおう、普通は取らないんだけれど」と言いながらブラジャーを取った。綺麗な胸だった。
ことが済んだ。虚しかった。K君は早く此処から出たかった。女性はコーラを入れてくれた。「いま、私の出勤日を書くから、それを飲んで待っていて」と言い、手帳を見ながら名刺の裏に数字を書いていた。コーラを飲み終わったK君が外に出ようとすると女性が「名刺忘れちゃ駄目よ」と怒ったように言った。彼女の気分を害したと思ったK君は満面の笑みを浮かべて「また来るね」と言った。自分は二度と此処には来ないだろうとK君は思った。そして彼女もこの客は来ないと思ったようだった。K君は、この日、山本周五郎の「砂と柘榴」の柘榴の意味を知った。
帰り道、Sマモル氏は「あの女、彼女に似てただろう、K君好みの女を頼んでやったんだ」と言った。K君は似てないと思ったけれど、「そうだね」と答えた。
K君は聞いた「マモルちゃんは大勢の女性と寝ただろうけど、虚しいと思った事は無いの?」と。Sマモル氏は答えた「あるよ、何時も虚しいよ」と。遠くを見るような目でそう言った彼の横顔を見ながら、彼には人に言えないような女性との暗い過去が有るのかも知れないとK君は思った。
この章おわり
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