父は停戦後水分河の原隊に復帰してそれから半年位して除隊したようです。夜襲の日の事がよほど恐ろしかったのか二度と戦場には行きたくないと思ったそうです。人から軍需工場で特殊技能工の資格を取ると召集が有っても即日解除になると言う話を聞いて、中島飛行機(現富士重工)に勤めていた従兄弟に頼んで口を利いて貰い、その中島飛行機の太田工場(尾島工場)に勤める事が出来ました。
魚屋が畑違いの工員になったのだけれど根が器用な人だったのですぐに特殊技能工の資格が取れたそうです。終戦まで重爆撃機連山の製作に参加していたそうです。連山はアメリカのB17をコピーしたものと言われています。終戦までに4機が試作されたそうです。父が亡くなる数年前NHKの番組でこの連山が取り上げられ、調査の為にアメリカに運ばれる連山が飛び立つ画面を見て「俺があの飛行機の脚を作った」と誇らしげに言っていたのを思い出します。
父は大正6(1917)年の生まれです。ロシア革命の年に生まれた父はソ連という国家より長生きして平成11(1999)年に82歳で亡くなりました。まさに激動の20世紀を生き抜いた人でした。
最後に次のエピソードを紹介しておきます。ノモンハン事件のソ連側の最高指揮官は独ソ戦の英雄ゲオルギー・ジューコフ元帥(ノモンハン事件の時は中将)でした。彼が第二次大戦後にアメリカの雑誌のインタビューで「閣下が経験した最も厳しい戦いはどの戦いでしたか」と言う質問に元帥は即座に「ハルハ河の事件」(ノモンハン事件)と答えたそうです。
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