父が3年兵になった5月ごろから満州国のパトロール隊とモンゴル共和国のパトロール隊との間でハルハ河とノモンハン廟のある丘の付近で散発的な小競り合いが発生して両者の後ろ盾である日本とソ連の全面的な衝突に発展したそうです。ハルハ河は満州国の主張する国境線で、ノモンハン廟の丘がモンゴルの主張する国境線だそうです。この付近は不毛の砂漠で命をかけて取り合う場所ではないので満州側もモンゴル側も当初話し合いで解決しようとしたのですが日本もソ連もそれを許さなかったそうです。日本側には恐らくこの前年に発生した張鼓峰事件以来ソ連に目に物を見せてやろうと言う思いが有ったのだと言う事です。ソ連側には近い将来起こるであろう独ソ戦に備えて、アジアとヨーロッパの両面作戦を避けるために一度日本を叩いて置こうと言う思惑があったという事です。
ソ連はノモンハン事件の最中、1939年(昭和14年)の8月に電撃的に独ソ不可侵条約を結びました。その秘密議定書でポーランドを独ソで分割して占領することを約束したそうです。これは多分両面戦争を避けるためにポーランドと言う国の半分をドイツと言う狼に与えて時間稼ぎをしたのではないかと思います。1939年9月1日に始まったポーランド侵攻で捕虜のポーランド軍将校4000人がカチンの森で虐殺された事件は長くドイツ軍の仕業と信じられていましたがソ連崩壊後ソ連軍が行った事が判明しました。 (ソ連のポーランド進攻は、ノモンハン事件の停戦の翌日、9月17日に開始されました。)
ノモンハン事件も長く日本軍はソ連の戦車部隊に蹂躙されて多数の戦死者を出して大敗したと言う事になっていましたが、ソ連崩壊後に公表されたソ連側の資料(注2)でソ連の死者数と負傷者数は日本側より多いことが判明しました。(日本側の損害はもっと多かったと言う人もいます)またソ連軍はノモンハンに戦車500両、装甲車300両あまりを投入したがその内の350両が日本軍によって破壊されたそうです(ソ連側資料)。一般に火炎瓶攻撃が功を奏したと思われていますが、ソ連側資料によれば破壊された戦車の80%は速射砲をはじめとする砲撃に依るものだったと報告されています。航空機の損害はソ連側250機(ソ連側資料)日本側180機程だったそうです。このように現場の指揮官、兵隊たちは奮闘したのに停戦後、敗戦の責任を取らせるために指揮官たちに自決を強要したそうです。自決を強要された指揮官たちはさぞ無念だったと思います。
ノモンハン事件は5月から6月上旬までの第一次と7月から9月の停戦までの第二次に分けるそうです。十分な補給を受けたソ連軍の8月攻勢の前に矢玉の尽きた日本軍は劣勢に立たされ23師団は壊滅して、モンゴルの主張する国境線の外に押し出されてしまいました。善戦したとはいえ自己の主張する国境線を守ることが出来なかった日本の負けは明らかだと思います。
父の部隊に増援の為の要請が来ました。父から聞いた話では、隊は父の中隊に有った3門の砲の内の1門を増援に回す事にしました。それに父たちの砲が選ばれてしまったのです。他の隊からもそのようにして集められた人員と共にノモンハンに汽車で向かったそうです。10日間ほど掛かってノモンハンに到着しました。到着すると生き残りの兵隊たちが「敵を討ってくれ」と泣きながら言って来たそうです。何日に到着したのかは父から聞いていなかったのですが、この泣いていた兵隊達が8月26,27日の戦闘で壊滅した23師団の生き残りだったとしたら、父たちが到着したのは8月末か9月初旬であったと推測されます。
|
|