私の父は昭和12年に召集され満州、黒龍江省の水分河(注1)と言う所の守備隊に配属されました。12年の召集と言うのは父から聞いたわけではなく、あくまでも推測です。ノモンハン事件の休戦から半年ほどして除隊になったと父に聞かされていました。ノモンハン事件の休戦が昭和14年9月16日ですので当時兵役は3年だったと言うことから推測したわけです。
初年兵のころ父の鼾に癇癪を起こした三年兵が寝ている父に洗面器の水を頭から掛けたそうです。父は中隊長に「自分の鼾で班の皆に迷惑を掛けるのは申し訳ないから炊事場で寝ることを許可して欲しい、また自分は元々魚屋なので包丁さばきは得意だから炊事班の手伝いもします」と直訴しました。父は召集される前は魚河岸に勤めていました。中隊長は「お前は戦友思いのなんと良い兵隊なのだ」といたく感激して炊事場で寝ることを許可してくれました。父が言うには炊事班なら味見と称してつまみ食いも出来るだろうと言う下心も有ったと言うことです。水を掛けられた事を逆手に取ってこのような行動をする父は結構要領の良い人だったようです。
2年兵になるとかなり自由がみとめられ休みの日には多くの兵隊が遊郭、いわゆる女郎家に行くのですが、父は生家の近所に女郎遊びで梅毒に罹り鼻の欠けた人がいて、その人に「女郎遊びは止めろ俺みたいになるぞ」と言い聞かされていたので、女郎家には行かなかったそうです。他にも宗教上の理由などで、何人かの人が女郎家に行かず隊に残って居たと言うことです。
通信隊の鳩兵をやっている同年兵に鳩の肉をご馳走になったそうです。美味かったけれど軍の備品である鳩を食べて大丈夫だろうかと喉を通らなかったと言うことです。でも鳩兵は未帰還鳩として処理すれば良いのだと言って笑っていたそうです。
そんな訳で鳩の味を覚えた父は休みの日に隊に残っている何人かを誘って野鳩を撃ちに出かけました。現在の自衛隊なら弾一発無くしても大変な問題になるのでしょうが、当時の軍隊は射撃練習をすると言えばある程度そういう事が許されていたようです。ところが鳩を撃った弾が軍の非常用の電話線に当たって電話線を切ってしまいました。そのことが問題になって上等兵への昇進が遅れてしまったのだそうです。その頃の父はそのことでかなり腐っていたようです。
その件について父の中隊長から中支(中国大陸中央部)に居る伯父(父の兄)の所に手紙が来たそうです。「○○ちゃんの中隊長から長い手紙を貰ってどう返事を書こうか困った」と伯父から聞いたことがあります。弟さんは良い兵隊でこの事件は事故で弟さんに責任はないから心配しないようにと言う趣旨だったと言うことです。
中隊長がなぜ3歳しか違わない兄である伯父の所に手紙を送ったかと言うと、父と伯父は早くに親と死に別れました。父が2歳のとき母親を亡くしました。7歳のときには父親を亡くしてしまい、二人は後妻さんに育てられました。当時は長子相続ですので長男である伯父が戸主となっていた訳で、本来なら親に送るべき手紙を戸主である伯父に送ったわけです。父には腹違いの弟と妹がいました。死んだ祖父は牛馬商をしていたそうです。朝鮮から牛を仕入れて農家に売ってかなり儲けたと聞いています。
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