「ね、亜里砂の靴下、とってよ。鴨居にかかっているでしょ、ちがう左じゃない、右のほう。それ、それ・・・」 朝7時半。甲高い早苗の声がマンション5階のリビングに響き渡った。 「これでいいんか?」 正幸は、パジャマ姿でゆっくりと面倒くさそうに立ち上がり、5歩ほど歩いてリビングに入ってテレビ脇の鴨居にかかったハンガーから小さな赤い靴下を右手でつまみ、洗濯ばさみからはずして、早苗に手渡した。 「だから、早く支度しなさいて言ったでしょう。いつもこうなんだから」 眉間にしわを寄せ、夫に礼もいわずに早口でまくしたてる母親の顔をじっと見つめながら、6歳になる娘のかおりが、靴下を母親から受け取った。 昨晩からの雨は一向にやまず、都心のマンションの窓をたたいている。 「わかったよ。そんなにいわないでよ」 かおりが、赤いランドセルを背中にしょいながら、早苗に言った。 いつもの朝の光景だ。 付けっぱなしのテレビから8時を告げる時報が耳に入った。 皺になったパジャマをスーツに着替える。ネクタイを結び、食卓の上に置かれたカップを手にして、冷めたコーヒーをすする。
「行って来るよ」 「行ってらっしゃい」
がちゃり、とドアの閉まる音がして、エレベーターに向かった。下からやって来たエレベーターが5階で止まる。3人も乗れば一杯ではないかと思うほど小さなエレベーター。築20年だから、こんなものだろう。この先まだ20年、ローンが残っているが、家賃を払い続けるよりはましだと考え、思い切って買ったマンションだ。 湿気に満ちた箱の中にはいると化粧品の香りが鼻孔をくすぐった。下の階に住む若いOLがつい今しがた、のっていたのだろう。
傘を右手でさして、歩いて3分のJRの駅に向かう。踏切が鳴り始める前に渡らないと、新宿行きの電車に間に合わない。始業は10時だが、30分前にはデスクに座るのを日常にしている。部下は煙たがっているだろうが、これは習慣だ。
踏切の中程まで来たところで、案の定、警報機が鳴り始めた。遮断機で車の流れが止まったところで、小走りになって道路を渡り、改札をくぐった。すぐにプラットフォームに電車が滑り込んできた。
若者のウオークマンの音が耳障りだ。シャカシャカと流行歌かラップの音楽が漏れている。気に障っているのは自分だけなのか周りを見渡したが、だれも乗客は気にとめる様子はなく、皆、つり革につかまり、じっと目をつむっている。
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