「お帰りなさいませ、ゴシュジンサマ」 扉を開けたとたん猫なで声でそんな台詞を言われたら、どこのメイドカフェかと勘違いされてしまうが、紛れもなくここは俺の家である。あるいはよほど物好きな女房か、極度の変態癖を持つ亭主がいるとゴシップの種にされかねないが、生憎と俺に配偶者はいない。 なら彼女は誰かという至って普通の、それでいて極めて重要な疑問を思い浮かべるだろう。機会があればぜひ俺にも同じ質問をさせて欲しい。 「……で、君は何をしているのかな?」 メイド服で朗らかにスマイルする彼女にそう訊ねる。 「あれ? おかしいな。男の人はこういう格好で出迎えてもらうと喜ぶってデータにあったんですけど」 「どこで得たデータか知らんが、そのものさしで世の男性を測らないほうがいい」 失礼にも程がある。 靴を脱ぎ、玄関をあがる。たかだか1Kの物件は、玄関から続く人二人すれ違うのがやっとの廊下を抜けてしまえば、そこがもうゴールである。 廊下を抜ける間、彼女は黙って俺の後ろについて歩く。 わずか四畳の空間に辿りつく。人は起きて半畳寝て一畳あれば十分というが、現代人が生きていくには四畳でも手狭である。まして一人でなく二人ともなれば、いよいよ檻に閉じ込められた動物も同然である。 「先にご飯にします? それともお風呂にします? あるいは、願い事にします?」 「しれっと変なものを混ぜるな」 ペロッと舌を出す。いたずらがバレた子供か。 彼女が一体何なのかという事については話せば長くなるのだが――つまりは願いを叶える妖精らしい。妖精といえば御伽噺に出てくるような体が小さく、耳が長く、羽が生えているものを想像するだろう。俺でも同じものを想像する。しかし彼女はまんま人間である。言われなければわからない、類人猿よりも人間に近しい妖精である。 そんな妖精が俺の前に現れたのは、ほんの2週間ほど前のことだ。 『あなたはダメな人間です。そんなあなたを救うべく、わたしが願い事を一つ叶えにきました』 それが第一声であった。 ダメな人間の烙印を押されていた時点で、かなり救いがない。 そもそもダメという評価の基準がわからない。会社での営業成績は、抜きん出てはいないが抜き落ちてもいない。品行方正で、罪に手を染めた経験も全くない。学校の廊下ですら走らなかったのは自慢の域である。親への孝行を忘れたこともなく、毎月の仕送りや季節の変わり目にはしっかりと帰省するようにしている。 非の打ち所がないほど優れてはいないが、非難を受けるほど劣ってもいない。 それが俺である。まったくもって、どこにケチをつけられてしまったのか。 スーツを脱ぎ、ハンガーに通す。 「おかけしておきましょうか?」 餌をねだる子犬のように、大きな猫目がハンガーを見つめてくる。 「別に、頼むほどのことじゃないから」 ハンガーを壁に掛け、ベッドの上に放っておいた部屋着に素早く着替える。女の子の前で、堂々と下着でい続けられるほど体裁を捨ててはいない。 枕もとのヘアバンを拾い、前髪をあげる。 「ん? 何をなさるんですか?」 「何って、晩飯を作るんだよ。君も食べるんだろ?」 パーカーの袖をまくる。するとわずかな床の隙間に座っていた彼女が飛び上がった。 「わー待って、待て下さい! それはわたしがやります!」 俺を押しどけてキッチンに立つ。 「いいよ別に、頼んでないだろ」 「いいえ、このままではわたしのアイデンティティに関わります!」 彼女のアイデンティティとは何だろう。働くことか? 日本人みたいな妖精である。 キッチンを彼女に占拠されてしまったので、仕方なくベッドに腰を下ろしてテレビをつける。番組なんてどうでもよかったから、つけたそのままにしておく。箱の中では最近の草食系男子についてどう思うか、団塊世代のおじさんに聞いている。ホントにどうでもよかった。 「はーい、できましたよー」 しばらくして、キッチンからそんな声があがる。次いで、近くのホームセンターで買った小さなちゃぶ台に料理が運ばれてくる。メニューはご飯に味噌汁、鮭のバター焼きに肉じゃが。お袋の味オンパレードみたいだが、そもそもその食材をどうやって手に入れたのだろうか。 「先に食べていてもらって構わないですからね」 彼女はフライパンなどの先にかたせるものを流しに出していく。 「料理をこしらえてくれた人間を置いて箸は伸ばさないよ。君が来るまで待つ」 そう言うと、彼女は一度こちらを見て、 「きゃはっ、じゃあ――」 嬉しそうにエプロンを外しながら部屋に戻ってくる。 「一緒に、いただきます!」 「いただきます」 合掌して、料理に手を伸ばす。初めに口に入れた味噌汁は、合わせ味噌の後味がしっかり舌に残る絶妙な按配である。鮭の焼き加減も程よく、軽く箸を置いただけで身がほぐれていく。汁の染み込んだジャガイモなんかは、田舎の母親を思い出させる。 しかし妖精がお袋の味を極めているというのも、中々シュールなものである。 「あ、願い事お聞きします?」 「醤油いります? みたいなノリで言うな」 違和感ってレベルじゃない。 「こう言えば、ついポロッと願い事を言ってくれるかなーと」 「どんなうっかりだよ」 「だってなかなか言ってくれないじゃないですか。このままじゃ、願い事を聞くより先に春が訪れちゃいますよ」 イカシたことを言うやつだ。 「なら手っ取り早く願い事を増やしてくれ」 「人類のみなさんは必ずそれを言うんですね。それはできません、願い事を願われても困ります」 ひどく種族そのものをバカにされた気もするが、確かに短絡的な願いである。 「じゃあ一生俺の身の回りのお世話をする、とか」 「妖精の独占はダメです。だいたい、お世話したくたってみんなあなたがやっちゃうじゃないですか」 もっともな意見だった。 「じゃあ何もしなくていいよ」 「うがぁぁぁぁっ!!」 器用に倒れて、体をピクピクさせる。陸に上げられた魚みたいだ。 「まぁ願い事があればちゃんと言うよ。何も今すぐになくちゃ困るものでもないだろ?」 「そ、それはそうなんですけど……」 アイデンティティが、と呟くのが聞こえた。最近テレビか何かで覚えたばかりなんだろうか。 「というかですね、実際問題わたし思ったんですけど」 何かをひらめいたように、彼女が顔を上げる。俺はとりあえず、彼女のずぼら箸を注意しといた。 「しっかりし過ぎです、あなた」 ついに正しいことを注意される日が来てしまった。 「もっと他人を、主にわたしを頼って下さい。妖精のアイデンティティが疑われます」 ここまで来ると、もはや使いたいだけのように思えてくる。 「そう言われても、自分でやれる範疇のものは自分でやるのが俺の考え方だから。自立したわけだし、他力本願に生きるよりいいだろ」 「正しすぎる! それでもあなた本当にダメ人間なんですか!?」 そもそも俺は一度もそんなこと言っていない。 むしろ言われなき汚名を払拭したい。 「わかったわかった。俺のダメなところは、ダメなところを認識していないところだ」 「むむ、哲学的ですね」 彼女がうーん、うーん唸っている間に、ご飯をかき込む。 「……でも、やっぱり不思議です」 考え込んでいた彼女は、頭を捻りながら言葉を紡ぎだす。 「これまで色々な人の願い事を叶えてきましたけど、共通していたことはみなさんちゃんと願い事を持っていたことです。それどころか願い事が多すぎて、どれを叶えてもらうか悩むくらいです。それなのにあなたは願い事がないときた」 言って味噌汁を口に運ぶ。 「真面目な話をするか食べるかどちらかにするべきだ」 「今の人生をもっと豊かにしたいって思ったりはしないのですか?」 真面目な話をとったみたいで、彼女はそう話しを続ける。 観念して、俺も箸を置いた。 「誰もが満たされているなんて愉快な考えは持っていないが、別に満たされていないとも思っていない。多くを望まなくても、今あるものの尊大さをしっかりと噛み締められれば、願いなんてものは次から次へと生まれないよ」 断っておくが、本来俺はこんな青臭いことを言う人間ではない。まったくもって柄でない。こういう話は一代で会社を築き上げたような偉い人間が、同僚でも部下でも連れて酒を片手に語らうものだ。 「じゃあ以前はあったってことですよね?」 質問してきた彼女は、なぜかきちんと正座していた。そこから、何か手がかりでも見つけようとしているのか。 「そりゃああったさ。持久走大会で1位になりたいとか、志望大学に合格したいとか、人並みにはな。でもそれって自分の努力しだいでどうにでもなるだろ?」 彼女は赤べこみたいにうんうん首を縦に降る。その間抜けな姿が、少し可愛らしかった。 「かといって世界から飢餓と暴力を無くし、人々が互いを愛し合える世の中を創って下さいなんてのは、ミス・アメリカかなんかが優勝インタビューで言えばいいだろうし。願い事ってそういうんじゃなくて……もっとこう、純粋なものだと思うんだよ」 気づけば置いた箸を手にとって、フラフラと遊ばせている。何かをいじりたがる、俺の悪い癖だ。 「成功でなくてもいいから、チャンスが欲しい、とか。好きになってもらわなくてもいいから、一緒にいさせて欲しい、とか。永遠でなくてもいいから、今を生きさせて欲しい、とか。そういったすぐ足元にあるはずの幸福を求めることが、願いなんじゃないかな」 意味もなく、意味のない情報を垂れ流すテレビを消した。 部屋が静まり返る。沈黙が、静寂に拍車をかける。 「か、かっこいい」 「……うるさい」 顔面が紅潮していくのがわかる。なまじ真剣に聞かれていただけに、よけいきまりが悪い。 「あー、んもぉ、今のナシだ! ナシナシ!」 とうとう耐え切れなくなって、両手を大きく振った。じっとしていられず立ち上がる。 「おっと!」 何かを察したのか、俺が動くより早く彼女が冷蔵庫に手を伸ばす。 「はい、どうぞ」 その手には、冷えたビールが握られている。 「…………」 「大丈夫です、これは願い事とは関係ありませんから」 「じゃあ、なに?」 「わたしがしたかったからです。幸運のビールですよ」 ニコニコしながら差し出す。そんな大層なことを言ったって、品はスーパーで特売されていた市販のビールに過ぎない。 でも口にしたビールは、いつもより少し爽やかに感じられた。 「そういえば……仮にだ、俺が願い事を言ったとして、それを叶えたら君はどうするんだ?」 食器を流しに持っていく彼女の背に、そんなことを聞いてみる。 「どうもなにも、また次のダメな人の願い事を叶えにいくだけですよ」 わかっていたことを聞くのは確信犯だろうか。 あるいは、どうしようもないロマンチストだろうか。 「そうか……じゃあ俺の願い事は叶わないな」 「ふぇ、何か言いましたか?」 「別に……」 零れかけた言葉を、ビールと一緒に流し込む。 彼女に告げる日は、きっと来ないだろう。 願い事は、もう叶っているのだから。
|
|