ほっと息を吐くと、白い煙が澄んだ夜空に昇っていった。 腕時計に目をやる。午前二時三十分。 草木も眠る丑三つ時は、身も震える怖さよりも、身を刺す寒さに身震いした。ときおり吹く風が、唯一露出した顔面をいたずらに撫でる。バイクには乗らないけど、ついついフルフェイスメットが欲しくなるような、そんな寒さだった。 まだ天井は夜闇の帳がされたまま。ひっそりとした暗がりの公園を一人で歩く。点在する古びた街頭だけが、辺りをほのかに照らしていた。 街が寝静まったこんな時間に公園に来ているのには、もちろん理由があった。 ――三月十四日。 そう、その日は世の男性が、女性にお返しという名の貢物をする日だった。 俺もそうだ。廃棄物もとい義理とはいえ、もらったからにはお返しをしなければいけない。ここでこの義務を放棄しようものなら、どんな制裁が加えられようかわからない。 でも……。 顔を上げ、空を仰ぐ。 あの日以来、妙に一緒になることが多くなった彼女――阿井江。 以前に比べ話す機会は格段に増えたし、一緒になって作業することも増えた。こっちからも呼ぶし、あっちからも呼ばれる。 そんなこんな過ごしていく中で、今まで知りえなかった彼女の姿を見ることができた。潔いスポーツマンだと思っていたら、意外と打算的だった一面。打算的だと思ったら、意外と肝心なところですっぽかす一面。 そんな一面、あの日あの出会いがなかったら、きっとずっと知らずにこれからもただのクラスメイトのまま過ごしていたと思う。そういう意味でも、あの出会いにはとても運命的なものを感じ得なかった。 そのことをいつか話したら、ロマンチストなこと、と笑われてしまった。
約束したベンチまでやって来ると、想定外のことにフリーズした。 ベンチには、すでに阿井江の姿があった。いやそこで合流する約束だったのだから、いてもおかしくはないのだが、俺が言っているのはどうしてすでに彼女がそこに座っているのかということだ。約束した時間より三十分も早い時間。興奮して早く家を出てしまったなんて、そんなかわいい理由じゃないはずだ。 「そりゃあこんな日のこんな時間に呼び出されるんだもん。何かあるのは明白だし、先に来て段取りを潰しちゃおうかなって」 それが彼女の言。いやはや、早速打算的な彼女の一面を垣間見てしまった。 ちなみに彼女の見立ては、半分正解で半分ハズレだった。 「とりあえずまだ時間があるんだけど、何か飲む?」 近くにあった自動販売機で二人分の飲み物を買う。 「どっちにする?」 ホットのミルクティとミルクココアを差し出す。 「子供っぽいチョイスね。ミルクティの方でいいや」 なんだか余計なことを言われた気がするが、気に留めないで置く。差し出した飲み物を受け取ろうとして、彼女の手が止まる。 「……まさかと思うけど、これでお返しとか言わないよね?」 どんだけ安い男なんだよ。 「安心していいから早く受け取ってくれ。熱い」 飲み物を渡して俺も彼女の隣に腰をかけた。木製のベンチは座ると、ヒヤッとした感触が尻から伝わった。 ぎこちない手つきでプルタブを開けながら、閑散とした公園を眺める。 「でも本当にこんな時間に呼び出しって、一体何のつもり? 正直女の子をこんな真夜中に人気のないところに呼び出すのはあまり感心しないよ? それに、もしおまわりさんか何かに見つかったら職質受けるよ?」 たぶん俺らの場合、職質ではなくて単純な身元確認だと思う。こいつは何か前科でも持っているのか。 「大丈夫だって。ちょっと行けば国道の走ってるような場所だし、警察だって今日くらいは空気読んで野暮なことは聞かないだろ」 だといいけど、と彼女はミルクティに口をつける。 「……それに、たぶんちらほら人も見えてくるから」 ボソッとそう言って、ミルクココアに口をつけた。 深夜の公園は本当に物静かで、黙っていると怖くなるくらいひっそりとしていた。ときおり吹く風が葉をゆさゆさと揺らして、それがまたその手の雰囲気を醸し出す。 ぽつぽつと立つ街燈の光が、澄んだ空気に乱反射していた。 「でもびっくりした。こんな風に呼び出されて」 静けさに耐えかねたように、彼女は手の中で缶を回しながらゆっくりと話し始めた。 「実際のところ、お返しのことなんて流されるんじゃないかって思ってたから」 彼女は意外そうな、それでいて少し嬉しそうな、そんな表情を見せた。 「俺ってそんなに甲斐性なしに見えるのか?」 そう聞くと、跳ね起きるように彼女はてのひらを振った。 「い、いや別にそういうつもりじゃなかったんだけど。……渡し方が渡し方だったじゃない」 あれはあれで、彼女なりに思うところがあったらしい。 さっきまでの態度とのこのギャップ。主導権を握っているフリをして、そのくせ自らの言動が与える影響におっかなびっくりしている。そんなギャップがいじらしくもあって、心地よくもあった。 「……正直おいしかった?」 聞きづらそうに、答えづらいことを聞いてくる。 「よかったな、渡した相手が俺で」 「な、何よそれ! まずかったって言うの!?」 「うまかったって言ったら、嘘になるな」 ぐうの音も出ないと、彼女は頬を染めて悔しがる。でもすぐに、納得したように下を向く。 「まぁ仕様がないよね。チョコ作るのなんて初めてだったし、作ろうって決めたのも直前だったし」 言い訳か後悔か。漏らした言葉を飲み込むように、彼女はミルクティを飲み干す。 「でも……」 俺は残ったミルクココアをかき混ぜると、 「嫌いじゃなかったけどな、俺は」 一気に流し込んだ。 気がつくと、周りに数組のカップルたちが現れる。 「ね、ねぇ、なんかカップルが集まり始めたんだけど」 彼女は不安そうに、俺の服の裾を引っ張った。 「うん……そろそろ時間だからな」 腕時計に目をやって、そう答える。 途端、弱々しく光を発していた街燈たちが、一斉にその輝きを失う。公園中の、街燈という街燈が消灯される。裾を掴んだまま、小さく悲鳴をあげる彼女。 「ちょ、ちょっと、何これ!? どうなってんのどうなってんの!?」 突然のことに取り乱す彼女。 「大丈夫だから、落ち着いて」 あたふたする彼女の手を握る。それでとりあえず、彼女の混乱は収まった。 彼女の手を握ったまま、ゆっくりとベンチから腰を上げる。つられて彼女も立ち上がる。 俺は腕時計の画面ライトを点灯させた。そしてゆっくりと、カウントダウンを始める。 「……5…4…3…2…1――」 次の瞬間。俺たちは、無数の煌きに包まれた。 公園の木々にデコレーションされた数え切れないほどのイルミネーションが、カウントダウンと共に一斉にライトアップされた。あまりの輝きに、深夜であることを忘れてしまいそうだった。溢れる光の洪水に、公園は彩られた。 「わ、わ、わ」 その光景を前に、彼女は口をパクパクさせた。そのあまりにマヌケな姿に、思わず笑いが込み上げてしまう。 赤、青、黄etc。色鮮やかなイルミネーションを前に、しばらく俺たちは言葉を失ったように立ち尽くした。いや、あまりに少ない俺たちの語彙では、この光景をうまく伝えることができなかったんだと思う。それくらい目の前に広がる光景は幻想的で、神秘的なものだった。 イルミネーションが消えるまで、俺たちは手を握ったまま幻想世界に佇んだ。 「三月十四日、午前三時十四分……ハッピー――」
しばらくするとイルミネーションは消え、公園は再び静寂の闇に包まれる。強い光を受けたせいか、まだ目がチカチカしていた。 俺たちは手を握っていることも忘れたまま、放心していた。心ごと、あの世界に置いてきてしまったみたいに。わずか十数分だけ訪れた幻想を、まだ胸に焼き付けていた。 「……どうだった?」 ようやくそう話しかけると、 「うん……きれい、だった。とっても、きれい、だった」 たどたどしくそう返し、握る手に力を込めた。俺は、そっか、とその手を握り返した。 「いつか誰かとこうやって見に来たかったんだ。このイベントをさ」 戻った夜闇にようやく目が慣れてきて、何度かまばたきをする。目の前にあるのは、いつも通りの公園だった。 「ありがと。その相手が私で、嬉しい」 繋いだ手から伝わる温もりが、冬の終わりを感じさせた。大きく吸い込んだ空気が、高鳴る鼓動を和らげる。 そして俺たちは、互いの顔もよく見えない暗闇の中で、どちらからともなく顔を近づけた。
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