顔を上げると、室内にはもう誰もいなかった。いや、図書委員の生徒が一人二人、カウンターの奥で片づけをしていた。最上階に位置する図書室は、校内の喧騒が少し遠く感じた。静かな教室に、時計の規則的なリズムだけが響いた。 壁に掛けられた時計を見る。午後六時。そりゃ誰もいないわけだ。放課後の図書室なんて受験生の溜まり場であって、それも二月に入ってしまえばみんな自宅学習になってしまうから、必然的に図書室利用の絶対数は減る。残った利用者だって、日の暮れが早いこの時期は早々に退室する。自然、俺みたいに図書室を正規利用しない生徒だけがこんな時間まで残ることになる。 額に手を当てる。机に顔を伏せて寝ていたせいか、額が痛い。さすると凸凹とした布の跡がくっきり残っていた。 俺だって、本来は図書室を利用するような殊勝な生徒なんかじゃない。むしろ授業が終われば足早に下校する、帰宅部の鏡みたいな存在だった。 でも今日は違った。時間を潰すというか、学校の滞在時間を稼ぐというか、チャンスを増やすというか。そういったもののために、わざわざ図書室なんかを利用した。教室ではいけない理由――。
―― 二月 十四日
迷信に怯えるように、はたまた信仰にのめり込むように、男たちはその一日にソワソワする。絶対の自信があれば、構える必要はない。同様に絶対の諦観があれば、やはり構える必要はない。 でも、ほんの少しでも期待してしまうから、こんな努力をしてしまうんだ。 いつも入れっぱなしの教科書を持ち帰って、いつも開けっ放しのロッカーの扉を閉めて。いつもより身支度に時間をかけて、いつもより早く登校して。そうして普段通りに教室に入って、何食わぬ顔で机の中にそっと手を入れてみる。 でも……答えは手を入れる前から、わかっていた。 いつだって感じる、あの錆びたざらつきとヒンヤリとした空気。そしてその事実を認めたくなくて、もう片っ方の手も入れる自分が、ひどくみっともなかった。それでいえば、未練がましく放課後遅くまで待ち伏せている今も、相当みっともなかったが。 つまりこれまでの学校生活で、俺にとって二月十四日が何か特別な日になるなんてことはなかった。ただ特別になるんじゃないかって、一人で舞い上がっているだけ。周りだって今さら、そんなものに大した期待もしていなかった。 「はぁ……アホらしい」 誰が見ているわけでもない、努力ともいえない努力に見切りをつけて、図書室を後にした。
スイッチを入れ、真っ暗だった教室に明かりを灯していく。真っ暗だったという事実だけで、この時間まで待っていたことが徒労に期したとわかる。人知れずやった努力なんて、概ねそんな結果で終わるものだ。 ステージでスポットを浴びるように、順々と教室の全景が浮き上がっていく。その教室の、窓際の後ろから二番目。そこに俺の席があった。学校用のカバンが、忘れられたように置かれたまま。拾い上げようとして、また机の中が気になる。この期に及んでまだそんな幻想を抱いているなんて、まったく未練がましい男だった。 そう感じつつも、屈んで机の中を覗きこんだ――そのときだった。
――ガラガラガラ
教室の扉が開く音だった。腰を折ったまま、視線だけを教室前側の扉に移す。そこにいたのはおそらくどこへ行っても名前の順一番であろう、クラスメイト――阿井江の姿だった。まるで犯行現場でも目撃してしまったかのように、扉を開けたままの姿勢でフリーズしていた。かくいう俺も、彼女が来る前までの姿勢でフリーズした。つまり机の中を覗き込んだまま。 「……言い訳をさせてくれ」 「えっ? 別にいいけど」 何も考えていなかったのに釈明の場を許されて、余計苦しくなる。仕舞いには屈んだまま片足を後ろに上げて、どこかのR―1ネタみたいになってしまった。 まるで一昔前のドラマみたいなシチュエーションだった。 「何やってるの?」 彼女は当然の、そして至って一般的な質問をした。 「カバンを取りにきただけだよ。カバンを持って家に帰る、何も不思議なことはないだろ?」 「何で机の中を覗き込んでたの?」 意図してはないのだろうけど、非常に手痛いコースばかりに投げ込んでくる。そんなに俺を困らせて楽しいか? 答えに詰まっていると、彼女は何かを悟ったようにうっすらと笑みを浮かべた。 「ははーん、そういうことか。次はアレかな、ロッカーに忘れ物がないかを確認しに行くってところかな?」 直球ど真ん中。トドメだった。 「あぁそうですとも! もしこのときこの場に目当てのものがあればなだなんてロマンチックに浸りながら未練がましくも机の中をチェックしていましたよ! 夢見ちゃ悪いかよ!」 「えっ、そこまでは言ってないけど」 フルスイングの果てにピッチャーにドン引きされる。見事なまでに哀れなバッターボックスのピエロだった。 「……そういう阿井江はどうしたんだよ? 俺が来たときには電気消えてたけど、何、なんか忘れ物?」 「えっ!? わたし!?」 気まずくて話題の中心を彼女に転嫁すると、大した質問でもないのにびっくりしたように体を跳ねた。その折、後ろ手に持っていたものを地面に落とす。 「あっ!」「ん?」 慌てて拾い上げるが、その瞬間を見逃すはずがなかった。 「ははーん、そういうことか」 目には目を、言葉には言葉を。台詞、イントネーション、間。彼女から受けた言葉そのままに彼女へ返す。 彼女が落としたのは、チェック柄の入ったピンクの袋だった。口には丁寧に黄色のリボンまでされていた。当然それだけでは何なのかわからないものも、今日本日この日を考慮すれば、十中八九あれしかないだろう。 「えぇそうよ、今日のために頑張って用意して渡そうと思ったけど結局最後の最後まで渡せなくて悔しくなって教室で食べちゃおうって思ったのよ。わるい!」 「かわいいとこあるんだな」 恥ずかしいのか腹立たしいのか、湯気が出んばかりに顔を赤らめた。 結局負け組二人か。 「でもやっぱりあれか。なんだかんだ言っても、女子もまだこういうイベント頑張るんだな。最近は同性者同士でしか渡し合わないんだと思ってた」 「語弊のある言い方しないでよ。それに、それで言えば男子だってまだ性懲りもなく期待してるじゃない」 性懲りもなくとか、身も蓋もないこと言うなよ。 彼女は教室に入ると一気に教卓まで歩み寄り、なんの迷いもなくその上に座り込んだ。教室全体を見渡せる、教師のみ許された特等席。さすがは女子テニス部新部長。その堂々さには威厳というか、スポーツマンらしいワイルドさがあった。その様があまりにしっくりきていたから、合わせるように俺も自分の机に腰かけた。 教室の前と後ろ。距離を挟んで向かい合う、もらえなかった男子と渡せなかった女子。 でも、こんな世の中にもまだそんな些細な奇跡を信じる人間がいるなんて、なんだかロマンチックな話だと、そう思った。ここで誰にあげる気だったのかなんて聞くのは、やっぱり野暮ってものなのだろうな。 「あーあ、結局渡しそびれちゃったなー」 目的が果たせなかったそれを、ボールのように手の中で放る。購入したものか調理したものかは知らないが、随分とぞんざいな扱いだった。 「俺はお前みたいに、まだ渡そうと頑張ってる存在がいるってわかっただけで嬉しいよ」 「なんだか安っぽい同情ね」 ほっとけよ。ただでさえみっともないのに、お前にまでそんなこと言われたら立ち直れないだろ。 そんな俺が哀れに映ったのか、彼女は放り投げていた手を止めると、 「……いる? これ?」 そう提案してきた。 「えっ? いいんですか?」 思いも寄らなかった言葉に思わず丁寧語になる。我ながら本当に小さい。 「よくよく考えれば、自分で作ったチョコを自分で食べるなんて相当惨めじゃない。だったら今回のことの口止め料ってことで、あんたにあげてもいいかなーって」 どうやらチョコは自分で作ったものだったらしい。ならぞんざいに扱ったり、口止め料とか言ったりするなよ。 教卓に座ったまま、彼女はチョコの入った包みを窓際の俺に向けて放り投げる。俺はさながらホームランボールをキャッチしようとする客席のファンのように、身を乗り出してそれを受け取る。もちろんキャッチの衝撃でチョコが割れないように、ソフトに収める。 「な、投げるなよこの罰当たり!」 「誰から罰を受けるのよ」 確かに。 「言っておくけど、義理だからね」 口止め料という名目で半ば廃棄気味に渡されたものは、もはや義理とさえ呼べないのではないだろうか。それでも本日二月十四日にチョコを手にしたという事実に、俺は感動すら物足りないくらいの充足感を得ていた。 「ありがとうな。さっきまでのやり取り抜きで、本当に嬉しいよ」 感謝の言葉を返すと、彼女はせせら笑い、 「期待してるから、三月十四日」 「…………」 当然のように、そう言った。 いやはやなんとも。
そして今、俺は彼女と付き合っていた。もちろん、恋仲という意味で。 あの一件で妙に一緒になることが多くなって、そうこうしている内に三月十四日がやってきて、お返しみたいな感じで告白した。そのときのしてやったりという彼女の顔を、今でもはっきり覚えている。 後になって知ったことだけど、どうやらここまでの一連の流れは彼女の計画通りだったらしい。どこまでが仕組まれていたことなのか、そんなのは知る由もないが。 でも、それでいいと思う。何も知らないまま、この出会いはあの日に起きたささやかな奇跡の賜物だったんだって思い込んでも。 だってその方が、ずっとロマンチックじゃないか。
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