12月31日――大晦日。365日、一年を締めくくる最後の夜は遅れてやってきた聖夜のように、静かに澄んだ闇が世界を包んでいた。雑居ビルの明かりは消え、通りの商店はシャッターが下ろされていた。扉という扉には『謹賀新年』の文字が立て掛けられ、世界は訪れる新たな年を迎える準備を整えていた。 そんな移りゆく時の姿を、ベンチに座って一人眺めていた。小さな通りに面した忘れられたバス停。『行く年→来る年』という標識の表記が、このバス停が交通手段として何の意味も持たないことを物語っていた。 待ち人はなかなか訪れない。 ひゅるりと夜風が吹いて、巻いたマフラーに顔を埋める。ニットの手袋をはめた両手は、それでも足りずPコートのポケットへ突っ込む。大晦日の夜は、辛辣な寒さと共にあった。 しばらくすると、人気のない小さな通りに一台のバスが到着する。黄色いボディに緑のラインが走るレトロなボンネットバス。丸い大きな目玉を光らせ、ゆっくりとバス停の前へと停車する。 ポケットに手をつっこんだまま立ち上がる。バスの扉が開くと、車内からこぼれる光に照らされた。その光の中から、一人の乗客が下車してくる。クリーム色のPコートに焦げ茶の手袋。首に巻いたマフラーを下げると、馴染みの顔が現れる。 「やあ」 軽く手を挙げて挨拶をする。 馴染みで当然だ。だってそれは、“ボク”なのだから。そっくりさんとかそういうのじゃなくて、バスから降りてきたのは紛れもなくぼくだった。 「久しぶり」「初めまして」 同時に放ったパンチでダブルノックアウト。挨拶ですれ違うなんて、そうそうあるものじゃない。 「……なんていうか、どっちも正解じゃないな」 「それをいうなら、どっちも間違えじゃない、だよ。どっちを否定したって、結局自分を否定することになるんだから」 違いない、と僕は笑った。不毛に思えた挨拶も、この場合はいいのじゃないかって、そう思えた。 「お疲れ様。今年は世の中が世の中だったから大変だったでしょ」 「いやぁそうでもなかったよ。確かに悪いこと続きだったけど、最後の最後でおいしい思いができたから。プラマイゼロ、生きてみればなんてことはなかったよ」 そういってボクは、軽く肩をすくめてみせた。 僕にとって彼は過去のボク。今年という一年365日を一日とて欠かすことなく生き抜いてくれた、ありがたい存在。僕は彼であって、彼は僕でもあるけれど、彼がいてくれるから、今の僕がぼくであれる。 そして今日は、そんな彼との引継ぎの日。 「いい言葉だ。その一言で、未来の僕らには希望が満ち溢れている気がするよ」 「ボクから言わせれば、君も“未来のぼく”なんだけどね」 違いない、と僕はまた笑った。 腕時計に目をやる。年越しまであと10分。あまり長話をしている余裕はなかった。 「時間がない。さくっと受け取っちゃおうか」 今の僕が、今であるためのもの。 「了解……はい、これ」 そういって、ボクはポケットから光の玉を取り出す。淡い光を放つ玉は、そこだけ優しさに包まれたように温かかった。 その玉を、両手で大事に受け取る。 「大切にしてね。吹けば消えるような代物だから」 「もちろん。君が繋いでくれたものなんだから」 渡し終えると、ボクはさっきまで僕がいたベンチに座る。 「年明けまであともう少しだけど、最後に何か言っておくことはある?」 そう尋ねると、ボクはまた肩をすくめ、おどけたように、 「せいぜい頑張れよ」 そういった。何が待っているのやら。まったく気楽な奴だ、そう思って自分であることに気がつく。 「それじゃ、ボクは眠ることにするよ」 「うん。おやすみ。よいお年を」 「年を終える奴に言う台詞じゃないな。よい年を送らなきゃいけないのは君だよ」 違いない、と僕らは笑った。 そうしてボクは眠りに就いた。それは文字通り死んだように、寝息すら聞こえない静かな眠りだった。 ボクからもらった光と共に、彼が乗ってきたバスに乗車する。一番後ろの席に座ると、バスはゆっくりと走り出した。 これからどんなことが起こるのか。ボクとの最後の会話が頭の中で反芻したけれど、すぐにどこかへいってしまった。未来なんて決まっちゃいない。一秒先のことだって、誰もわかる人なんていない。 代わりに、たぶん大丈夫だろう、だなんてそんな根拠のない考えが頭に浮かんだ。さすが僕とも思ったけど、そう思わせてくれるのはきっとこの光の玉のおかげなのだと思う。これで繋がれている限り、きっと僕らはこれからを生きてゆける。どんなことが起きても、それが過去として、事実として、今の僕に紡がれてゆくのだから。 時刻は0時。日付は一周して1月1日。僕を乗せたバスは、新たな夜明けへ向けて走ってゆく。
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