目が覚めると、見知らぬ場所にいた。真っ暗な闇に包まれた、広く大きな空間。コンクリートの無機質な冷たさが、座ったお尻から伝わってきた。周りを囲む闇は深く、そこにあるはずの壁を目視することはできなかった。ただ一つ、スポットライトの灯りが真っ暗な闇を照らしていた。 そのスポットライトの光に群がるように、十数人の人々が輪を描くように地べたに座っていた。 (確か電車の座席に座って眠っていたはずなのに……。) 集まった若い男女は、隣の人と話しに花を咲かせる人や、まだ居眠りをしている人もいた。まるで電車の形を円にでもしたように、みんなが内側を向くようにして座っていた。 (みんな何も疑問に思わないのか……。) この状況に何も疑いを持つこともなく、それが当たり前であるかのように過ごしていた。僕だけが、辺りをキョロキョロと見回していた。 そうやって辺りを窺っていると、輪の周りを歩く一人の女性の姿に気がつく。俯き、暗がりのため顔はよく窺えなかったが、まだ若い女性のようだった。小柄な体は華奢というよりも、痩せほせた印象を受けた。そのか細い腕の中には、黄色いハンカチが大事そうに抱きかかえられていた。 女性はゆっくりと輪に沿って歩いていた。一歩一歩を、噛み締めるように。座っている人々はそんな女性を意に介さないように、そのままの状態を保っていた。 座った輪の外周を一人が歩く構図。その光景に、どこか見覚えがあった。 「――あぁ、ハンカチ落としか」 不意に口をついた言葉は、誰の耳にも届かなかった。 子供の頃、レクリエーションや遊戯会の場でやったことのあるハンカチ落とし。参加者は鬼とそれ以外に分けられ、鬼以外の人は輪になり、内側を向いて座る。そしてその輪の周りを鬼がハンカチを持って回り、さりげなくハンカチを参加者の背後に落としていく。ハンカチを落とされた人は鬼が自分の座っている場所に一周するまでに、ハンカチを拾って追いつけなければ次なる鬼になる。 そんな子供の頃に見た光景が、今大人になったこの場で再現されていた。すると黄色いハンカチを持った、あの俯いた女性が鬼なのだろうか。でもその他の参加者は、とてもゲームに参加しているようには見えなかった。 輪とハンカチを交互に窺う女性。標的を吟味するように、タイミングを見計らうように、視線を配り続ける。 そして次の瞬間、意を決したように女性はハンカチを落とした。
「オギャー!」
それは僕のちょうど向かい、隣の人と談話をする中肉の男性だった。そのため僕の位置からは、その一部始終がはっきりと窺えた。 ハンカチを落とした瞬間、女性は死に物狂いで駆け出した。僕の背後を風が通り過ぎていく。落とされた男性はまだ気付いていないようだった。そして女性は一周し、気付かれることなく男性のもとまで辿り着いた。これで鬼から解放されると、口元が僅かに綻ぶ。 でも、女性が座れることはなかった。 男性はそれこそ文字通り、気付いていなかった。それはもっとはっきりといえば、目に映っていないのと同じだった。ハンカチが落とされたことも、女性が自分の座る場所を望んでいることも。男性にとっては、隣の女性と話していることのほうが大切だったのだ。 ルールを放棄され、来るべき成果が得られなかったことに女性は愕然とする。まるで憑き物でもくっ付けるように床に落ちたハンカチを拾いなおし、再びとぼとぼと歩き出した。 ハンカチ落としってこんなのだったか? 回り出した女性は、次に腕を組んで眠る若い男性のもとへハンカチを落とした。
「オンギャー!」
今回は先ほどと違い、落としたことを悟られぬよう平生を装って歩いた。一周してもとの所まで辿り着いても、やはり男性は気付くことはなかった。目を覚まさない男性の肩を、女性はそっと揺らした。しばらくして重たい瞼を開け、男性が目覚めた。そして見るからに不機嫌そうな目で女性を見た。それだけで、か細い女性は後退りしていた。 「っんだよ、うるせぇな、あっちいけよ!」 怒声と共に、男性は黄色いハンカチを手で払った。吹き飛ばされるハンカチ。理不尽な出来事に、女性は涙を浮かべていた。声を殺し、むせび泣きながら、なおも女性はハンカチを拾い歩き出した。 落としては無視され、ハンカチを拾いなおす。その繰り返し。その光景を目の当たりにして、僕の中に言い知れぬ苛立たしさと困惑が込み上げた。 これはなんだ? ハンカチ落としじゃなかったのか? この場に座る参加者たちは、何故見て見ぬフリ……いや、見ようともしないのか。誰一人として、我が身に鬼の役が振りかかるなんてこと考えていないのか。それではあまりに鬼がかわいそうではないか。 でも……この感情の高まりは、それだけではなかった。 この中に一人でも、あのハンカチのことを考えたことのある者がいるのか。 落とされるたび、悲痛な叫びを訴え続けてきた黄色いハンカチ。跳ね除けられ、その度に厄介者のように拾われて。まるで災いの権化でもあるかのように、一方的に扱われる。 ハンカチは両者にとって迷惑な存在だった。鬼にとっては鬼へと縛り付ける存在、参加者にとっては鬼へと変貌させられる存在。このゲームにおいて、ハンカチは忌むべき存在として嫌われた。 じゃあハンカチが何をしたというのか? 生まれてきたこと、存在することにどれだけの罪があるのか? 周りを取り巻く環境により勝手に忌むべき存在にされただけで、そこには自覚も選択もない。一切の選ぶ権利を奪われているのだ。 それが、どうしようもなく遺憾だった。
「オンギャー!!」
そのとき、真後ろから声が上がった。無邪気に助け請う、あの声が。 すぐに振り返ろうとして、一瞬たじろぐ。自分に覚悟はあるだろうか。他人にとやかく言いながら、実際に自分はやれるのだろうか。
「ふぁーい!!!」
答えの出せない僕の背中にかかる、無垢な生命の産声。それは人の原初である、命の声だった。それで決心がつき、僕は振り返った。 生れ落ちたばかりの、穢れを知らない黄色いハンカチ。その姿は、決して忌むべき存在なんかではなかった。むしろ尊ぶべきその姿は思わず口元が綻んでしまうくらい可愛らしく、愛おしかった。 黄色いハンカチを両手で抱き上げてあげると、一周してきた女性とちょうど鉢合わせた。息を切らし、膝に手をついて息を整える女性。ゆっくりと持ち上げた顔は、ようやく訪れた交代者に歓喜するように、みるみる輝きだしていった。 それがあまりにも身勝手に映り、 「これで終わったと思うなよ」 そう声を張り上げていた。 「責任降ろして身軽になって、自由になったつもりなんだろうけど、そんなことないからな。あんたはこれから一生背負い続けて生きていくんだ。身勝手に生み出して、手放したことを。自らの自由を得るために、あんたは何人もの自由を奪ったんだからな。そのことを一生かけて思い知れ!」 言って立ち上がった。初め堪えながら聞いていた女性は見る見るうちに目を潤ませ、しゃくりあげるように泣き出した。でもそんなものは知らない。彼女は知るべきなんだ。手放していった命の重さを。犠牲の上に成り立つ自由の業深さを。 僕は黄色いハンカチを抱きとめたまま、輪を抜け出した。すると真っ暗だった空間に、一つ、また一つと光の円が浮かび上がっていった。幾重にも連なった円が列をなし、僕らの目の前に光の道が現れた。閉鎖された場所だと思っていた空間は、無限の広がりをみせていった。 一度輪を振り返る。傍観者を気取った輪の人間たちの視線も、後悔を嘆いた女性の声もその背に受けて、僕らは歩み始める。何も知らないハンカチは、腕の中で朗らかに微笑んでいた。 「……ねぇ、君の名前はなんていうの?」
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