不思議な男だった。公園のベンチで絵を描いていると、決まって隣に座りに来る。中肉中背、眼鏡をかけている以外これといった特徴もない。 「スケッチか。知っているか? 年間にどれだけの人間が絵で食べようと志し、どれだけが挫折していくか」 取り立てて知り合いというわけでもない。ただいつも隣に座ってくるだけだ。それなのに、決まって男は僕にそう話しかける。 この春に勤めていたデザイン会社を辞め、アルバイトをしながらどうにか絵で生きてはいけないかと努力していた。生来の不器用な性格のため、収益を優先する一般的な会社の考え方が肌に合わなかった。曲りなりにも絵の学校で学んだ人間として、作品でもニーズでもない部分が優先されてしまうことに堪えられなかった。だから目に見えて収入が減るのも受け入れ、今の生活を選んだ。その決断に賛成も反対もあった。でも決まって「振り返ってみて、こうしてよかったと言えるようにこれからをもっていく」と言い、頭を下げた。 それからは、時間を見つけてはスケッチブックを片手にこの公園へ足を運んだ。目の前に広がる様々なものを絵にしていくために。そうやって通うようになってしばらくして、男が現れだしたのだ。 「ところで、自分の絵に自信はあるのか?」 赤の他人のはずの男は、心の奥底に沈めておいてあるものを土足で踏み荒らしていく。失礼にも程がある。でもそれらについて、僕は何も言い返さない。正確には言い返せない。男の質問が答え辛いわけじゃない。ただそれらの質問に、口に出して言える答えを持ち合わせていなかった。悔しいくらい、自分の中には誤魔化せるボキャブラリーも誇れるキャリアもなかった。 だから、あるときから見栄を張るように、その男を描き始めた。毎日訪れる男を、少しずつスケッチブックに描き出していく。より深く、よりリアルに描くために、注意深く男を観察する。そうしていると、男の口から出る言葉が少し遠くに聞こえた。 数日かけて、ようやく完成する。完成した作品を見て驚いた。 そこに描かれていたのは、紛れもなく「僕」だった。これまでにもこれからにも自信を持てない、不安な目をした僕。それはどこかで目を背けていた、弱い、そしてよりリアルな自分だった。
それから男が僕の前に姿を現すことはなかった。奇しくも、男は僕の持つスケッチブックの中に収まった。でも今ならわかる。男はいつもすぐ側にいる。不安はいつだって、僕らのすぐ傍らに横たわっている。目を逸らしたって、それらが消え去ることなんてありえない。 だから、そいつらを片っ端から描き出していく。普遍的にあるものなら、そうあるべく忠実に描いていく。不安すら、自信に変えていくために。もう、目を逸らさない。 スケッチブックの男が、少し微笑んだように見えた。
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