空が澄んでいた。南方より吹き出でる風は肌に心地よく、流れる髪を押さえる手も悪い気はしなかった。小路のほとりにはちらほらと草花の芽吹きも見え、世は今まさに生を謳歌していた。 この国に伝わる、古来より在りし輪廻の刻――四季。 中でも私達は数多の生が芽吹くその時節を、“春”と呼び親しんだ。 池の氷は解け、朝明けの往き路の霜の感触も消えた。生き物は深き眠りから覚め、花々は新たな生を芽吹かせる。大路を行き交う人の歩も、どこかそわそわと浮き足立っていた。 かくも春とは、人を陽気にさせるものなのでしょうか。
これから赴くお屋敷は、都の左京に位置していた。真一文字に伸びるその築地塀の側を歩いていると、風に乗って何かがヒラヒラと舞った。 屋敷の中門を抜けると、眩しい閃光に一瞬視界が霞んだ。それが薄らぐのと同時に、庭園の全景が目に飛び込んでくる。寝殿という名の箱庭に作られた、小規模ながら悠然とした自然。整然と並べられた庭石、反橋の架けられた中池、幾重にも生い茂る前栽。 その中に、それは静かに佇んでいた。
「まぁ、さぁ様、さぁ様! これは何という木なのですか?」 そう要って娘はパタパタとその木のもとへ駆けていった。長く垂れた黒髪が、風と共に流れる。 娘の名は木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)。皆はどういった経緯なのか彼女のことを「さくや」がラ行に化け、「さくら」と呼ぶらしい。 本日より当家に召抱えられるようになった身なのだが、到着して早々、何か面白いものを見つけた子供のように庭へと駆けていってしまった。 まったく、およそ悪びれるといった風もなく、その姿はまさしく人における自然の姿だった。 齢にしてまだ十六ばかりの娘。そのような歳で屋敷へと身を置くようになるのだ、どのような形であれ、普通の娘なら気後れの一つでも見せよう。それが初対面ならば尚の事だ。それなのにこの娘と言ったら……。 「その木は我が家に代々伝わる木でな。一本しかおらぬが、見事な大きさであろう」 話しながら木の側まで歩み寄る。 それは真に雄大な木で、ただの一本ながら周りの幾多の前栽達にもまったく劣ることがなかった。むしろ花びらの咲いた今で言えば、この世のどんな草花よりも優雅であるという自負があった。幾多にも及ぶ枝々には数え切れぬほどの白い花びらが咲き乱れ、風が吹く度それらが宙空へと舞い踊る。 「古くからある故名がないのだが、春になるとこれこのように爛漫の姿を見せるのだ」 「まぁ、春に。それはなんとも縁起の良い」 娘は舞い散る花びらの中で、ヒラヒラと舞った。その姿、画、時間が、私の目にはまるで世界をコマ送りにして見ているかのように映った。 「そうか……お前は、春の御神なのか」 「……春は、好きか?」 娘はおよそ一人では手が回らない幹を抱きしめていた。そうして閉じていた目を開きながら、娘は私の目を見据え、 「えぇ……大好きです」 そう微笑んだ。 それが娘――さくらとの出逢いであった。
さくらはいつもその木のもとへ足を運んだ。仕事を怠っているのではないか、という嫌いがあったが、結果的に私もそこへ足を運んでしまっているので一概にそうとも言えなかった。 「さくらはまこと、この木が好きだな」 その木のもとへやってくると、さくらは上気したようにはしゃぎまわる。他の者はしつけが足らぬと申すが、いやなにこれはこれでそれほど毛嫌いするものではない。むしろ微笑ましいではないか。あぁも楽しそうにしているさくらを見ていると、人の世とはかくの如し、そうとも思えてくる。 「ふふ、今日は少しばかり、風が強いようですね」 さくらはヒラヒラと舞い散る花びらを宙空で掻き分ける。あまりにも多いものだから、しなやかな黒髪に花びらがいくつも纏わり付いていた。 「まるで雪のよう……」 「はは、なるほど確かに。しかしこれでは雪と謂うても、豪雪だぞ?」 手を胸の前でお椀のようにして花びらを掬っていたさくらは、心から楽しそうに笑った。 「あっ」 崩れた手からたくさんの花びらが霧散した。頭に積り気味の花びらを払ってあげると、最初はおどおどしながらも、静かに払い終わるのを待った。恥ずかしげに覗いてくる上目遣いの目が、こちらの心まで上気させる。
火勢極まる夏を越し、無常表す秋が過ぎ、終焉を告げる冬が去る。そうして再び生命が芽吹く、春がやってくる。大気は暖かく、風は軽く頬を撫でる。 その夜、さくらは月明かりの下、あの木のもとに佇んでいた。夜はまだ少し冷えるため、薄い羽織をかけていた。 「どうしたのだ、このような時分に」 重ね用の羽織を被り、さくらのもとへと歩み寄る。 どうしてなのか、その夜のさくらは爛漫の花を前にしながら、どこか水面に生まれた泡のように儚く感ぜられた。 「さぁ様……少しでも長く、この花を目に留めておきたかったもので。この花は春の御神。故に夏の訪れはこの花の終わり――いえ、この花の終わりが春の終わり。そう思いましたら、胸が苦しゅうなりまして……」 不思議だった。月明かりで色白く輝いた花びらの舞うそこは――まるで、本当の白銀の世界のようだった。 しんしんと、しんしんと……。 雪を払うこともせず、ただ上ばかりを仰ぐさくらは――この世界にただ一人残されてしまった者のように、愁いを帯びた目をしていた。 「そうか。では……私も少しばかり付き合おうか」 一度寝殿へと戻った私は、とあるものを引っさげて再びさくらのもとへと足を運ぶ。 「どうださくら、この木を眺めながら一杯というのは?」 手にした酒瓶を軽くちらつかせる。 虚ろな目をしていたさくらであったが、それを見るなり別人のように顔がほころんだ。 「ふふ、さぁ様ったら。よろしければ、御供させていただきます」
夜空には金色に輝くお月。今宵のお月はまん丸の満月。朧雲の姿はなく、月明かりはどこまでも地上を照らし出す。 昼間は草花も芽吹く温かさを取り戻したというのに、夜はまだどこかひんやりとした冷たさを帯びている。時より吹く夜風が、火照った頬をさらりと撫でる。 昼夜を問わず花を咲かせる木からは、絶えず花びらが散った。風が吹かなければと思ったが、そんなことは関係ないと言わんばかりに、一枚、また一枚と花びらが散っていった。 それは此度の春の終わり。季節の移り変わりを、花はその死を以って告げる。 「この花の満開の姿を今か今かと待った。そうして見せた爛漫の姿は、この世の極楽浄土ではないかと思わんばかりに雅やかで、美しかった。しかし、この花の寿命は短い。満開を迎えたと同時に散り急ぎ、今もこうして絶えず花びらを散らせている。それはこの花達が、生まれたと同時に死んでいるのではないか、そう思わせる」 杯の水面に、遥か彼方のお月と、ヒラヒラと舞う花びらが映っていた。傍らにちょこんと座るさくらも、やはり静かにその木を眺めていた。気を紛らわせようと持ってきた酒が、今宵だけはどうも心を虚ろにさせる。どうしてか、私までも――この花の終わりが、この世の果てのように感ぜられた。 「……なぁ花よ、――お前の生涯に、意味はあるのか?」 花は答えない。それともそれが答えなのか――花はいつまでも散り続けた。 「さぁ様……私は思うのです」 さくらが弱々しく語りかける。その瞳は花達を見つめたまま――実るものも、散るものも。 「私達は、死ぬために生きているのではないでしょうか。どんなに生を謳歌しようとも、驕れる者も久しく、終わりを迎えます。それは死ぬことが不可避なモノだからではなく、死ぬことが生きることの一部だからです。始まりがなければ、モノは生まれません。同時に、終わりがなければ、モノは生きません。私達は、生きるために終わるのです。故にその死は幽雅に、そして潔く。この花は生まれながらにして春を纏い、同時に幽雅なる死を内包しているのです。その誕生は春の到来を象徴し、散る姿までも次節の到来を意味づけている。僅か十日余りの生涯。その露ほどの一生で、この花は爛漫に咲き誇り、そして散り逝く。幽雅な死に体。この花は満開の姿よりも、散り逝き始めた姿に趣がある、そう、私は思うのです」 降り注ぐ月明かりのせいか、それとも舞い散る花びらのせいか、さくらの横顔はいつにも増して色白く映った。 杯には先ほどまでの虚像はなく、ただ一枚だけ、花びらが浮かんでいた。その花びらごと、酒をぐいっと飲み干す。 「まぁ、さぁ様ったら」 そう微笑んで、さくらは私に寄り添った。その温もりが、衣越しに私の胸を締め付ける。この花が、この月が、この刻までもが、自分達のためにあるのではないか、そう思ってしまうほどに。 そうして後で知ることになる――これが、さくらとの最後の花見になったのだと。
しばらくの後さくらは流行病に罹ってしまい、冬の終わりの頃、あの花の開花を待たずに逝ってしまった。憐れと思った私は周りの非難を浴びながらも、さくらをあの木のもとへ埋めてやった。いつまでも、さくらにあの花を見させてやりたかったから……。
そして次の春、私は夢と現の境地にいた。 庭園にただ一本きりのあの木が、およそ数え切れないほどの薄桃色の花を咲かせていた。 目を何度も擦った。自分を何度も疑った。それは本来の白の色素に、人の内に走る朱を配合したような、色鮮やかな薄桃色。その姿はまるで――、 「お前は、まさか……さくらなのか?」 答えるように、一層激しく花びらが舞った。 「やめろさくら! 何故死に急ぐのだ!」 叫んだ。己がどれだけ奇怪な行動に及んでいるのか知りながら、なお叫んだ。不思議なもので、感情が高ぶり叫ぶと、自ずと涙が湧き出した。 そして私は、ある言葉を思い出した。
『私達は、生きるために終わるのです』
僅か十数年の生涯。その生涯が、この花の姿と重なった。 そして生まれ変わったその姿は、あの日の言葉のままだった。
時節は春。世は今まさに生を謳歌する。薄桃色の花はこの世を埋め尽くさんと咲き誇る。南方より吹き出でる風は地上を優しく撫で、花びらはどこまでも散ってゆく。
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