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作品名:まだ、忘れられなくて 作者:てっちゃん

最終回   まだ、忘れられなくて
 眩しい日差しに少し目を細めた。正午を過ぎた太陽はなおも地上をさんさんと照らし、むせ返る夏の陽気を保ち続けていた。熱を帯びたアスファルトからは陽炎がたち、ゆらゆらと視界を揺らした。空は透き通ったアクアブルーに染まり、大きな白い雲がただ一つ浮かんでいた。風は軒先を吹きぬけ、汗ばんだ体を撫でる。空はどこまでも遠く、風はどこまでも澄んでいた。
 喧騒を取り戻した住宅地の中を、一人歩いた。どこかへ行く用事があるわけでもなく、どこかに行く当てがあるわけでもない。なんとはなくどこかへ行きたくなる、そんな気分だった。
 別に放浪癖があるわけではなかった。でも今日の自分は少し違っていた。家にいても落ち着かなくて、こんなにきれいな空を前にしても浮かなくて。探し物が見つからなかったように、静かな喪失感が俺の中にあった。
「おい、きょうなんじにする?」
 道の先には小学生くらいの子供が三人、電信柱を囲むようにして集まっていた。目をキラキラと輝かせ、柱に貼られているポスターを一心に眺めていた。
「ろくじでいいんじゃね? それまでタクんちであそんでようぜ」
 一人が駆け出すと残りの子供たちもつられるように走り出し、すれ違いどこかへ行ってしまった。電信柱のもとへ行き、三人が覗いていた色鮮やかなポスターを見る。

 ―― 『雛野神社 納涼大会』 ――

「あぁ、これか……」
 ポスターに書かれていた文字を見てようやくわかった――子供たちがはしゃいでいたわけも、フラフラと出歩いていたわけも、満たされなかったわけも。
「今日のお祭りは浴衣着ていっちゃおうかな」
「そいつはそそられるな」
 後ろを通り過ぎるカップルの何気ない会話が、そっと俺の心をわしづかんだ。居心地の悪さを覚え、足早にその場を後にした。
 いつかどこかで聞いた、いつかどこかで交わされた会話。
 胸の中で何度も繰り返される、あの頃の二人。


「今度のお祭りは必ず新しい浴衣着ていくんだから!」
 そう言って彼女――紗理はかけていたタオルケットを引っぺがして訴えかけてきた。
「わかったわかった。それはとっても魅力的な提案だから、まずは落ち着こう、な?」
 興奮して起き上がった彼女をベッドに寝かせ、俺もその傍らに座る。六畳の彼女の部屋はベランダに面していて、大きな窓からは暖かな夏の日差しが差し込んだ。それでも全館空調の家はどの部屋も快適な室温に保たれ、暑さに苦しむ必要はなかった。それも彼女が抱える病のための処置であるから、素直に喜べることではなかった。
 あまり物が多くない彼女の部屋は少し小ざっぱりとしていたが、乱雑に並べられたヌイグルミを見るといかにも女の子の部屋っぽくて微笑ましかった。ベランダとは違う窓辺にはいくつものスノードームが並べられていた。初めはその数に驚いたが、「あまり昔から旅行とかにいけなかったから、お父さんが出張のたびに買ってきてくれたの」と聞いて、軽々しくこの話題を口に出すのを止めた。
「明日、晴れるかな?」
 横になったまま彼女はベランダの向こう、遥か高いところに広がる空へと目をやっていた。明日は近所の雛野神社での祭り。階段には神社へと続く長い提灯が設けられ、境内にはたくさんの屋台が出され、祭りは多くの人で賑わう。
 八月に入ってから、彼女はいつもそのことばかりを楽しみにしていた。あまり外出できない彼女にとっての、夏最大のイベントだからだ。
「大丈夫だろ。天気予報も明日は晴れだって言っていたし。あとは紗理が騒がない限り問題ないだろ?」
 そう言って彼女のおでこを突いてやると、彼女は「もーっ」と拗ねて見せた。
「……でも、行けたらいいね。一緒に」
 そうして彼女は静かに目を閉じた。
 実際今日の段階では彼女の体調は良好で、顔色も優れていた。空もこれだけきれいに澄んでいれば、明日は何の問題もないだろう。
「あぁ、一緒に行こうな」
 彼女の手をそっと握り、寝息が聞こえるまでしばらくそのままでいた。
 明日は二人にとって大切な日になると、そう思っていた。

 翌日、祭りが始まる時間になっても、俺らは彼女の部屋にいた。日は傾き、窓から差し込む陽光は淡い朱色へと変わっていた。神社へと向かう子供たちのはしゃぐ声を聞きながら、俺達は部屋の中で涼んでいた。
 昨夜俺が帰ってから、彼女はまた体の調子を崩した。彼女自身は何も言い出さなかったらしいが、荒い息を上げ苦しんでいる彼女を母親が見つけた。
「大人しくしていたんだけどね」
 少し赤みを帯びた頬で、彼女はまるでいたずらがばれてしまった子供のような表情で呟いた。昨日俺が何気なく言った言葉を気にしているのだろう。
「仕方ないよ。大人しくしていたって体を崩しちゃうことはあるし。良くなったら祭りに行こう、な?」
 手の甲で彼女の赤い頬に触れると、涼しいはずなのに温かいと感じた。触れていた手に、彼女の細い手が絡められる。
 気がつくと神社のほうから祭囃子の音がそっと聞こえた。少し控えめに届く祭囃子。その音に乗り、人々の喧騒や遅鳴きの蝉の声が聞こえた。
 ベランダの窓から神社のほうを見ると、赤い提灯が階段を上り境内のほうへと続いていた。薄暗がりの中、ぼんやりと映るその姿がまるで別世界へと続く階段のようで、とても幻想的に思えた。
「……お祭り、行きたかったんじゃないの?」
 申し訳なさそうに覗く彼女の瞳に、胸が締め付けられる。
「祭りに行けなくて駄々をこねる歳でもないよ。それに俺は祭りに行きたかったんじゃなくて、紗理とどこかに行きたかったの」
 そう言うと彼女は嬉しそうに微笑んだ。俺の一番好きな表情だった。
「大丈夫。祭りは来年もあるし、楽しいことはこれからもたくさん待っているって」
 でもその大好きな笑顔は、すぐに彼女の顔から消えてしまった。
「ううん……もう、これが最後だったかもしれないの」
 彼女は、虚ろな目で天井を仰いだ。焦点はどことなくさまよい、何にも見えていないようで、何にも見ないようにしているようでもあった。
「私ね、この夏が終わったら遠い海沿いの病院に入院することが決まったの。そこには私と同じような病気を抱えている人が多く暮らしていて、専門の施設も用意してあるらしいの」
 暗記したことを吐き出すように、彼女はそこについての知識を話した。部屋が個室であること。テレビ番組がこことは全然違うこと。生活空間がほぼ病院の敷地内だけになること。
「時々外出が認められることもあるの。そうすると目の前が海だから、病院を下りたらすぐに砂浜に行けるの。私海に行ったのって小さい頃だけだったから、とても楽しみ。でも……お祭りとかには行けなくなっちゃうんだよね」
 彼女は苦笑いして俺を見た。その表情が彼女には不釣合いだと、そう思った。
 楽しいところに行くのであれば、もっと無邪気な笑顔を見せればいい。嫌いなところに行くのであれば、もっとわがままな顔を見せればいい。それなのに彼女は、どうしてこんなにも困った笑顔を見せるのだろうか。それはまるで、何かを諦めた表情だった。それがひどく、彼女に不釣合いだった。
 祭囃子が、ほんの少し遠くに聞こえた。

 ふと壁にかけられた時計を見ると、針は何周分も移動し、十時を少し過ぎた頃だった。祭りの音はすでに消え、帰路につく人の喧騒も過ぎ去り、街は静けさを取り戻していた。
 俺は意を決しベランダへと通じる窓を開ける。
 祭りから明かりは消え、薄暗い闇が神社を包んでいた。
「――祭り、行こうか」
 まだ暑さを残すベランダで、デートの誘いをした。それがどれだけ自分勝手で、わがままなことだと知りながら。
 彼女へ振り返る。まだほんのり火照った顔で、俺を見つめる。そして――、
「……うん」
 精一杯の笑顔で頷いた。

 夜の住宅街を二人並んで歩く。等間隔に並べられた街頭に照らされ、道はまっすぐに続いていく。間に訪れる闇に踏み入ると、繋いだ手に少し力が込められる。彼女は浅い藍色の浴衣に、黄色の帯を巻いていた。

「せっかくだから、ね」

 ドアの前で待たされて次に見た彼女は――少し年上の女性と見間違うほど、きれいだった。浴衣は女性を美しく見せるのだって、初めて実感した。
 歩いている間、俺らは何も話さなかった。口をついてしまえば、この時間が壊れてしまうと思ったからか。それとも何も口にしなくても、お互いのことを理解しあっているからなのか。そのときの俺には、よくわからなかった。
 でも――踏み出せば踏み出すほど、彼女の一歩が短くなること。街全体が帯びた熱気よりも、彼女の手から伝わる温度のほうが熱いこと。歩いているだけなのに、必死に肩で息をする姿――それだけはわかった。
 歩けば歩くほど、神社が遠くなっていっているのではないか、そんな気さえした。
 それでも俺らは、懸命に神社を目指した。

 まっすぐ続いた住宅路を、右に一度曲がる。そして道なりに少し歩くと、ようやく長い石の階段の下まで辿りつく。
「少し休もうか?」
 彼女の疲労は火を見るよりも明らかだった。急いだって仕方がない、彼女の体が優先だ。
 でも――、
「ううん、大丈夫。いこ、お祭り」
 そう言って繋いだ手に再び力を加えた。
 俺は手を握り返し、
「わかった、きつくなったら無理せず言えな。あと、絶対に手離すなよ」
 一段目に足をかけた。
 薄暗い階段をゆっくりと上っていく。両脇に吊るされた提灯にはすでに明かりはなく、役目を終えたようにだらりと垂れ下がっていた。階段のあちこちには食べ終えた串などが捨て去られ、それらの姿がことの終わりを無慈悲に告げていた。
 それでも階段を上がることはやめない。自分勝手だってわかっている。わがままだってわかっている。上りきったその先にある事実も光景も、みんなわかっている。

 それでも――、
 俺らが欲しかったのは――彼女(俺)と祭りにいった――その過程と結果だった。

 それにどれほどの金銭的価値があるのか、どれほどの学術的価値があるのか、そんなものはわからない。でも何物にも変えがたい価値が、俺らにはあった。
 これまでがどうなるか、これからがどうなるか、それはわからない。でも何物にも変えがたい“今”が、そこにあるのだ。
 だから階段を上り続ける。この気持ちを忘れないために。今を永遠にするために。彼女との約束を、果たすために。
 階段もあと少しとなってきたとき、山の合間から陽が現れるように、境内の姿が徐々に顕になっていく。目を閉じようかとも思ったが、現実から目を背けるようではばかられた。意を決し、最後の石段を上りきる。
 上り終えたところで、俺らは立ち止まった。初めからわかっていたことなのだ。数時間前まで煌びやかに賑わっていた境内は、薄暗い闇と静寂が支配していた。うっすらと月明かりに照らされた境内の全景が、寂寥感を募らせる。
 キュッと繋がった手に力が入るのがわかった。どちらからともなく、石畳の参道を社へ向け歩き出す。参道を両側から挟むように連なった屋台は、骨組みだけを残しその全てが役目を終えていた。微かに鼻腔をつく焦げたソースの香りも、夜風に乗り空へと霧散していった。そのどれもが、辛辣に現実を告げてくる。

 祭りは終わったのだ、と。

 ただの一度も立ち止まることなく、俺らは社のもとまで辿り着いた。自己満足のツケは、どうしようもない現実という形でのしかかった。辛そうに息をしていた彼女は、今は社の階段に腰を下ろして休んでいる。
 社から見たって、終えた祭りの姿が変わるはずもなかった。ただ視線の先に真っ赤な社があるか、真っ暗な闇があるかの違いだけだった。
 ポケットに突っ込んだ手が、悔しさに力む。苦しさを堪えた彼女に、俺は何をしてあげられたというのか。
「沙理、ここで待ってろ! すぐ戻ってくるから。いいな、絶対動くなよ!」
 焦り気味に告げる。弱々しい目で、彼女は小さく頷いた。それを確認すると、俺はがらんどうの参道を一人走った。振り向きざま微かに聞こえたか細い声に、そのときの俺は気付くことができなかった。
 夜闇の木々がめまぐるしく流れる。石畳を擦る甲高い音が風に混じる。石段を二段飛ばしで駆け下りる。人通りのまばらになった通りを抜けて、神社から少しだけ離れたコンビニを目指す。

 用事を済ませコンビニから出てくると、俺の両手には品物でパンパンになったビニール袋が提げられていた。綿菓子やうまい棒、えび煎に梅ジャムなどの駄菓子。レジ販売のジャンボフランクフルトとアメリカンドッグ。市販で売られているプラ瓶のラムネ。水鉄砲や水風船は二つずつ。何のアニメキャラクターかもよくわからないお面を頭に乗せて、神社への道を戻る。
 これから俺と沙理だけの祭りが始まる。どれだけチープで、どれだけ稚拙だってかまわない。馬鹿なことやって、くだらないこと繰り返して、その度に二人で笑って。これが最初で最後かもしれない。誰も邪魔しない、二人だけの祭りだ。
 石段を駆け上りながら、そんな夢物語を想像した。世界中探したって、そんなことが出来た人なんてそういないはずだ。ひょっとしたら俺らはラッキーだったのかもしれない。そう考えると、自然と足が速くなる。高揚して、最後の石段を三段飛ばしで跳ね上がる。

 夢の入り口なんて、そこにはなかった。
 ただ現実だけが、果てしなく続いていた。

 薄闇に包まれた境内。社へと続く石畳の参道。その途中、ピンスポットを浴びるように横たわる浅い藍色の浴衣。月明かりに照らされた、沙理の姿がそこにあった。
「沙理! 沙理!」
 彼女の元に駆け寄った俺は、まるで現実とは違う世界に来てしまったように、何も出来なかった。助けを呼ぶことも、自らの愚かさを悔いることも。ただひたすらに沙理の名を叫び続けた。静寂の夜に、彼女の名前だけがこだました。目からとめどなく涙が雫となって流れ落ちた。肌寒い夜風が悲痛な叫びを夜空にさらった。地面には出番の来なかったものたちが無残に散らばっていた。
 二人だけの世界で、一人泣き続けた。


 あれから三年。
 俺は就職し、社会人になった。裾ののびたスーツを着て、満員電車に身を委ね、四六時中デスクに向かう毎日。十年後の自分のビジョンも見据えられず、目先の暮らしに日々あくせくする。忙しさに飲み込まれるのは気が楽でよかった。いらぬことに悩まされることもなく、ただ目の前にある課題をこなしていくだけだから。そうして気がつけば、カッチリと社会の歯車にはまっているのだ。
 それでも、昼休みのちょっとした時間。タバコの臭いに耐え切れず、昼食を取るために訪れる公園で。青空の下、ベンチで一人になると決まってセンチになる。
 今の自分のように……。
 わけもなく出歩いて、彼女の面影を見て、切なくなって。
 まるでなにかに誘われるように。
 桜の桃色に染まる春も、肌の焦がれる夏も。紅葉に色めく秋も、人肌恋しい冬も。
 未練がましく、君の姿を探しているのだ。
 まだ、君のことが忘れられなくて……。

 遠くでひぐらしの甲高い声が響く。陽は傾き、街は朱色に染まり始める。
 当てなき一人歩きもここに窮まる。自宅への帰路を、とぼりとぼりと踏みしめる。前に伸びる細長い影が、帰りを告げる指標のようだった。
 ふと顔を上げると、行きがけに見た祭りのポスターが。それを横目で眺めながら、握る手に少し力を込める。
 両手には、駄菓子やおもちゃの詰め込まれたビニール袋。
 後頭部に掛けた何かのお面が、朱色の光に照り輝いた。


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