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作品名:其は匂ひの紫 作者:紙森けい

最終回   1
 目の前に広げられた振袖の地色を見て、川村利市(かわむら・りいち)は息を飲んだ。
 喩えるなら、冬陽が沈み、夕闇から夜に変わる一瞬の空の色。紫と表現するにはあまりにも複雑な色合いのそれは、紛れも無く『冬川紫(とうせんむらさき)』と称された、手描き友禅師・乃木冬川(のぎ・とうせん)のものだった。
「どうですやろ? 冬川先生の作やと思われますか?」
 乃木冬川の七回忌に、その振袖は現れた。冬川が生前懇意にしていた京都の呉服商・業平屋が持ち込んだのだ。何でも店の贔屓筋が某オークションで競り落とし、冬川の手によるものかどうかを調べて欲しいと依頼してきたのだと言う。冬川作品を見定める目に自信を持つ業平屋であったが、その彼をもってしても真偽がわからず、冬川最後の弟子である利市に託された。
 師の図案はすべて頭に入っている。菊花の絵柄は冬川の最も得意とするもので、構図も筆致も彼の特徴を表していたが、利市の記憶の中には存在しない。それに葉に虫食いの跡は描いても、花枯れは表現しなかった。特有の上品さで咲き誇る菊の一輪に、先が薄茶に色づけされ、落ちる瞬間の花弁が一枚――あり得ない。
 業平屋も当然、そのことには気づいていた。
「そやけどこの紫は、見れば見るほど冬川紫としか。それに広げた時の印象が」
「ええ…」
 やっとのことで利市は言葉を吐いた。
 冬川は水元(余分な糊や染料を洗い流す)以外の工程を、すべて自分で行う友禅師だった。納得の行く仕事のために、製作するペースを崩さなかった。故に作品数は少なく、市場価値が高い。贋作は毎年のように出てくるが、これほどに出来の良いものを利市は見たことがなかった。
 何よりもその色。冬川紫は唯一人、後継として『冬』の字を名乗ることを許された利市でさえ、出せないでいる色合いだった。冬川が没して六年、その間に弟子の誰も再現することが出来ずにいる幻の色なのだ。今までこの色の贋作は出ていない。 
 その色が目の前にある。
「実はこれ一枚やないんです。あと二枚、別々の古着市でも出とったらしいんですわ。冬川紫が出たら仲間内で評判になりますよって」
「乃木冬川の銘で出品されてたんですか?」
「そないに聞いとります。さすがに同じ時期に三枚も出るんはおかしい言うことになって、破格は破格らしいんですけど」
「出品者は?」
 利市に心当たりがないわけではなかった。乃木冬川には、家を出て行った手描き友禅師の息子がいた。


(一)


 その店は嵯峨嵐山にあった。と言っても観光地として名の知れた辺りではない。住宅地の一角にあり、気をつけていないと通り過ぎてしまいそうなほど、小ぢんまりとした店構えだった。和装古着と小物を扱っているようだが、営業努力をしているのかどうなのかは実に怪しい。季候の良い四月だと言うのに入り口のガラス戸は閉められ、「営業中」の木札が無ければ休みなのかと疑うほどで、客はおろか店員の姿もなかった。
「すみません。ごめんください」
 利市は店に入った。声は空しく響き、不親切な地図と自らの方向音痴気味のせいで、迷いに迷って辿り着いた彼の疲労は増進された。店内には緋毛氈で覆われた縁台があり、利市はとりあえず腰を下ろす。
 オークションや古着市に出品された冬川紫風の振袖と訪問着を辿ると、何軒かの店を経ていたことがわかった。この小さな古着屋『文箱』で六軒目。遡るにつれ下がる売り渡し価格からみて、ここが元だと考えられる。誰かがあの三枚をこの店に持ち込んだのだ。
 利市は店内を見回した。一応はそれらしく商品が並んでいる。吊り下げられた中にも、棚に並んだ中にも、あの紫色を使った着物は見受けられなかった。利市の目は小物や端切れのコーナーに止まる。
「これは…」
 近づいて手に取ったのは御手玉。籐籠に零れるほどに盛られているうちの数個は、見覚えのある色だった。掘り起こして縁台に並べる。一枚の友禅の端切れから作られたと思しきそれの色は、冬川紫に似ていた。
「うちに何か用?」
 背後から子供の声がかかった。振り返るとランドセルを背負った少年が、訝しげな目で利市を見ている。入り口が開いたことに気づかないくらい御手玉に見入っていた利市は、少なからず驚く。
「なんや、お客さん?」
 少年は縁台に並んだ商品を見て、利市が客だと認識したらしい。目の表情が緩んだ。
「それ一個百円です。おんなし色でええん?」
「あ、いや、これは」
 少年の胸には小学校の名札があった。『五年三組 乃木』
――乃木?
 『乃』を使う乃木と言う苗字は珍しい。利市は今一度、少年の顔を見た。心なしか、師の面影が見えなくもない。
「君のお父さんは、文人(ふみと)さんて名前?」
 少年の眉間に皺が入り、表情は最初に利市に向けられたものに戻った。
「そうやけど、おじさん、お父さんの知り合い?」
 利市が肯くと、少年は横をすり抜け、店の奥へと入ってしまった。
 乃木冬川の息子である文人の消息を知りたくて、利市はここまで足を運んだ。持ち込まれた振袖は新しく、最近、作られたものに見えたからだ。あの色が出せる人間がいるとしたら、血を分けた文人の可能性が高い。三枚の着物の出処を辿れば、彼に行き着くのではないかと考えた。
 乃木文人は利市と入れ替わるようにして冬川の工房を出て行った。二十年近くも前の話だ。山科の辺りで工房を開いたと聞いたことがあり問い合わせてみると、十年前にそこを畳んでいた。嵐山に移り住んだことまではわかったが、それ以後の行方は知れないままだった。そう簡単には彼に行き着かないだろうと利市は思っていたのだが、まさかこんなに早く消息を知ることが出来ようとは。
「昼寝する時は、店、閉めとけて言うてるのに」
「ごめんごめん、つい転寝してしもたんや」
 奥からさっきの子供の声と大人の男の声が近づいてくる。乃木文人とはほとんど初対面の利市は、緊張を覚えた。
 店と住居を仕切る長い暖簾が揺れ、男が顔を見せた。年の頃は利市とさほど変わらない。行っても四十手前、ひょろりとした優男で、肩近くまで伸びた髪は寝癖がついてボサボサしていた。写真で見たことがある文人とは、面立ちも違えば年齢も印象も違う。
「えっと、どちらさん? フミさんのお知り合いらしいけど?」
 さすがに人前に出るのにあまりな形(なり)だと思ったらしく、彼は髪を手櫛で後ろに撫で付けて、とりあえずの体裁を整えた。文人とは別人だとわかり、利市は少々拍子抜けした。
「川村と言います。乃木工房から参りました。乃木文人さんはご在宅ですか?」
「乃木工房? ああ、フミさんの親父さんとこの。フミさんなら、もうここにはおらへんよ」
「もういない? したら、今はどちらに居はるんですか?」
 男は天井を指差した。「え?」と利市が問い返すと、
「天国」
と答える。
「地獄やろ?」
 先ほどの少年が子供らしからぬ口調でそれを訂正すると、男は苦笑で返した。


(二)


 乃木文人は三年前に病没していた。通された居間に小さな仏壇があり、運転免許証の写真だと思われる無表情な遺影が飾られていた。享年四十四とのことだが、もっと老けて見える。
 男は鳴沢多喜(なるさわ・たき)と名乗った。文人とは十年来の友人で、今は彼の息子・絢人(あやと)の保護者であり、この店を経営しているらしい。およそ儲かっているとも思えない店だが、暮らし向きは窮しているようには見えなかった。
「それで、フミさんに何か用やったんか?」
 利市は落胆の色を隠せない。糸口が途切れてしまった。もしもあの冬川紫風の着物が文人の手によるものだったなら、彼が亡くなった今となっては、新たに見ることは難しいだろう。
 それでも確かめずにはいられず、利市は三枚の写真をテーブルの上に並べた。
「この着物なんですが、見覚え、ありませんか?」
 多喜は手に取るでもなく、写真を見る。利市は着物の経緯を話した。オークションや古着市で出ていたもので、乃木冬川の銘がついているが偽物であること、その足跡を辿ると、この店に行き着いたこと、そして製作者が文人ではないかと思っていることなどなど。
 多喜は利市の話を、時折、皮肉っぽい笑顔を見せながら聞いていた。その様子から三枚の着物に関して、まんざら知らないでもないように利市には思えた。
「ほんで、これを作ったんがフミさんやったら、どうなんや? 今まであの人を探してたように思えんかったけど?」
「…この色は、誰もが出したくても出せんかった色なんです。もしこれが文人さんの手によるものやったら、どうしたらこの色が出せたんか聞いてみたくて」
 くつくつと多喜は笑い、「どいつもこいつも」と呟いた。
「思い出した。あんた、川村さんって言いやったな? 下の名前、リイチやろ? 確か唯一、冬川の『冬』の字を使こうていい弟子らしいやないか」
「はい」
「絵柄も染色も師匠に引けを取らんって言われてるのに、未だに『冬』を名乗ってへんのやて? それは何で?」
「それは…」
 利市が未だに『利市』のままなのは、本当の意味で後継足り得ないと彼自身が思っているからだった。冬川紫を再現するのは無理かも知れない。しかし自分なりに納得する紫色をさえ、利市は表現出来ずにいた。周りは冬川紫を期待している。それがゆえの『冬』だと、兄弟子達の目が見ている。紫を染められないままでは、『冬』を名乗れない。
「たかが紫やないか」
 すぐには答えられずにいる利市に、多喜が言った。心の中を見透かされた気分だった。
 机上の写真に落ちていた視線を、利市は彼に向ける。
「たかが紫?!」
 自然、声が大きくなった。
「紫やから紫て言うてる。紫以外の何色に見えるっちゅうんや」
「ただの紫やない! 誰も染められへん、冬川紫なんや」
「ほな、これは何や? その冬川紫やないんか? 誰も染められへんかったはずの紫がここにある。その紫を使こうた着物が出たから、あんたはわざわざ探してここまで来たんやろう?」
「それは…!」
「長いこと放ったらかしやったフミさんの居所探して、ここまで来たんは、この色を冬川紫やて認めたから違うんか?」
「そうや、冬川先生の血を引く文人さんやったら、出せてもおかしないと思て」
 二階から軽い足音が下りてくる。大人二人が――利市一人が熱くなっている居間に、肩からカバンをたすき掛けにした絢人が入ってきた。それから並べられた写真を一瞥すると、
「でもそれ作ったん、タキちゃんやで」
指差して言った。
 今しも「友禅師ではない人間に何がわかる」と出かかった利市の言葉は、出口を失い飲み込まれた。
「塾、行くんか? 携帯、持ってき」
「もう入れた。話、長なるんやったら、店札、ひっくり返しとくけど?」
「頼むわ」
 絢人は利市に向かってぺこりと頭を下げ、店の方から表に出て行った。
 彼の出現が、利市の頭を冷やす。と言うよりも思考を停止させてしまった。
 写真に目をやり、多喜を見た。
「ほら、たかが紫やろ? 俺でも染められるんやさかい」
 片肘をついた彼はにやりと笑った。
 「友禅師なのか」と言う利市の問いに、多喜は「前はね」と答えた。件の三枚は二年前に作ったもので、それを最後に友禅からは足を洗ったのだと付け加えた。
 文人の作ではなく、まったく乃木とは関係のない人間が作ったものだったことは、利市をひどく驚かせる。
 利市は小学校の社会見学で、乃木工房を訪れて手描き友禅に興味を持ち、工房が開いている友禅教室に通った。中学を卒業してから正式に乃木冬川に弟子入りし、師が亡くなるまでと合わせて十五年余り、その作品を間近で見て学んだ。もっと長く工房で働いている人間もいるが、その誰よりも師の作風を理解していると、利市は自負している。しかし多喜は、冬川の友禅を見続けてきた利市よりも正確に、冬川の作品を再現してみせたことになる。色はともかく図案も、虫くいの葉か、枯れの花弁かの違いで、素人目にはわからないほどだ。たとえ贋作目的で似せて作ったのだとしても、技量が伴わなければ成しえない仕業だった。
「したら、今は?」
「ここの店主とフリーター」
 あれほどの腕を持ちながら、使わずにいると言うことが、友禅の世界で生きている利市には信じられない。
 「たかが紫」発言で熱くなった利市の心は、毒気を抜かれて平静を取り戻す。かわりに別の熱が満ちてくるのがわかった。三枚の作者が本当に多喜であるなら、再びあの色を見ることが出来る。
「鳴沢さん、お願いがあります」
「嫌や」
 話の内容を最後まで聞かず、多喜は答えた。利市は面食らい、その表情を見て彼は面白げに笑った。
「まだ何も言うてないけど」
「言わんでもわかるわ。フミさんに頼みたかったことを、俺に頼みたいんやろ? お断りや」
「なんで?」
「そんなんに時間かけるほど生活に余裕ないから。食うて行けんくなる」
「それなりのお礼はします。何やったら、うちの工房に入ってくれても構わない。話はつけるから」
 多喜は相変わらずへらへらとした笑みを浮かべてはいるが、少し目の印象が変わったように利市は感じた。どこを見ているのか、微妙に視線も外れている。
「友禅、嫌いやねん。二度とする気ない。悪いな」
 そう言った時、一瞬、彼から笑みが消えた。「おや?」と利市が彼を見つめると、また先ほどの笑みが浮かぶ。
 会話が途切れた時、電話が鳴り、多喜は受話器を取った。
 あきらめきれない――利市は机上にまだある写真を見た。師が亡くなって六年。あの仕事はもう見られなくなった。白い反物が命を吹き込まれ、着物のために鮮やかに変容していく様子は、どんなに焦がれても二度と見ることは出来ないのだ。思い出は年月と共にやがては不鮮明に失せていく。せめてあの色だけは、失いたくない。
「アヤの塾がある日は、定時出勤出来へんの知ってるでしょ? あいつが帰ってきたらすぐ出るから、それまで何とか頑張れんの?」
 多喜の電話の声で、利市の意識は現実に戻った。顔を上げた利市と彼の目が合う。彼の表情が閃いたと言った風なものに変わり、受話器の口を押さえた。
「すぐ帰らなあかん?」
 また毒気を抜かれた…と、利市は思った。


(三)


「よく続くわね。このままやと百日、大丈夫なんやない?」
 グラスに口をつける度に次を注ごうとする手を、利市はやんわりと断った。もともと酒は嗜む程度で、大して強い方ではない。ほぼ毎晩の飲酒は、さすがに体にきつかった。
 利市がここ『ふぁにー・ふぇいす』に通い始めて四ヶ月が経っていた。『ふぁにー・ふぇいす』は嵐山の歓楽街にあるゲイバーで、多喜の夜の仕事場である。
 鳴沢多喜は早朝にスーパーの品だしのパートをし、絢人を学校に送り出してからの午前中はコンビニでバイト、午後から夕方までは自分の店『文箱』を開けて、夜は『ふぁにー・ふぇいす』で働くと言う生活を送っていた。
 利市が三枚の着物の出処を辿り『文箱』を訪れた最初の日、病欠者が出て人手が足りないので、早めに出勤して欲しいと『ふぁにー・ふぇいす』から連絡が入った。多喜は絢人の塾がある日は遅番と決めていて、一旦は断ろうとしていたが、たまたま居合わせた初対面のはずの利市に、
「アヤの迎え、頼まれてくれへんかな」
と半ば有無を言わせない勢いで頼み、仕事に出て行った。利市が引き受けたのは、少しぐらい恩を売って、話の続きをしようとの腹積もりからだ。言われた通りに塾が終わる時間に絢人を迎えに行き――迎えが利市だったので、彼はひどく驚いていた――、多喜が用意した夕食を一緒に食べ、その他の生活行動を見届けた後、渡された名刺の店に向かった。名刺は何かあった時のためのもので、「来い」とは言われていなかったが、昼間の話の続きをしようと出向いたのである。
 行ってみて、少なからず利市は驚いた。名刺から水商売とは知れたが、そこでバーテンか、もしくは皿洗いなどでもしているのかと思っていたら、本人がホステスとして働いていたからだ。ワンピースにウィッグ、多喜はそれなりの装いだった。
「何や、わざわざ来んでも良かったのに。明日、仕事なんと違うんか?」
「な、成り行きで」
 店構えに怯んだ利市は、挨拶だけして帰ろうと方針を変えたのだが、陽気な他のホステス達に引きずり込まれ、無理矢理席に座らされた。
「それに話も途中やったし」
 利市がそう言うと、多喜は苦笑した。
 結局その日は、他のホステスに邪魔をされて、話の続きなど出来る状況ではかった。利市は日を改めることにして、それから二日後の『文箱』が開店している時間を狙って訪ねたのだが、居留守を使われて会えない。次の休みにも足を運んだが、やはり会うことは出来なかった。朝早くから夜遅くまで働いている多喜にとって、『文箱』の営業時間はイコール休息時間であるらしく、その生活サイクルを知ってしまうと、居留守を咎める気にはなれなかった。
 そこで利市は確実に会える『ふぁにー・ふぇいす』に、客として赴くことにした。指名客である以上、多喜は利市を無碍に扱えないと考えたのだ。仕事が終わった夜なら、休みの日を待たなくてもいい。利市の職場の乃木工房からだと、一時間半もあれば通える。店に来られては多喜は逃げも隠れも出来ず、利市が居る時間中丸々は無理でも、必ず席につかせることには成功した。時間にして数分のことだが、確実だ。利市は三日と空けずに通った。
「タキちゃんに、えらいご執心やねぇ」
 多喜が席にいない間は、別のホステスが利市の相手をする。規模の大きくない店に一ヶ月も通えば、すっかり顔馴染みになった。
「こんなええ男がって、みんな羨ましがっといやすえ。今度、うちもご指名しとくれやす。あんじょうサービスしますさかい」
「ほな、私も。あないに冷とうて薹が立ったタキちゃんなんて、もう見切って、ね?」
 芸者風からちいママ風、一頃流行ったボディコンの女子大生に、巷で話題のミニスカートのメイドと、さながら仮装パーティーのような店内は、いつも賑やかだった。多喜はここでもやる気があるのかないのかわからない様子であったが、そこそこ人気はあるらしく、あちこちのテーブルで声がかかる。知り合いと言うこともあって、利市はいつも後回しにされた。
「ほんま、しつこいな。そろそろ辛どうなってんのと違うんか?」
「大丈夫や。ここでしか話、出来へんからな」 
 実は本題になかなか入れずにいた。他愛もない会話は厭わない多喜であったが、友禅の話になると途端に口が堅くなった。ふざけた笑顔を見せるだけで、のらりくらりと話題を変える。利市にそれをさせないためか、彼一人では絶対に席につかず、他のホステスが必ず同席した。
 そんな二人の奇妙な様子は、いつしか従業員の間でも知れることとなり、好き勝手な物語がネタにされる。ロマンティックなものから、ドロドロとした愛憎劇さながらのものまで、良い酒の肴だ。根負けしたのは多喜だった。だからと言って素直に話を聞くことになったかと言うとそうではない。
「そうやなぁ、ほな百回、休まずここに通ったら話の続きは聞いてやる。ただし、それまであの話はせんこと」
「何で百回?」
「百回指名されたらボーナス出んねん。それに深草の少将みたいでロマンティックやろ?」
 『深草の少将』とは、小野小町の愛を得るために百夜通いを決行した昔話の主人公である。九十九日目の大雪の夜、道行の途中で凍死してしまい、恋は成就しなかったと言う縁起の悪いオチがついていた。
「自分が小町ほど美人や思てんのん?」
 他のホステスが茶化して笑ったが、多喜は気にしない。それまでの日数は毎日じゃないからリセットすると言われた。
 百夜通いなど、方便に違いない。昼間仕事を持つ身が、片道一時間以上の道のりと、決して安くない酒代で百日通い続けるのは、容易なことではなかったからだ。途中で利市が根を上げると踏んでのことだろう。しかし十五才の頃から乃木工房に修業に入った利市は、我慢強さには自信があった。その条件を即答で呑み、週四日の多喜の出勤日に通う日が始まったのだ。
 友禅の話題を出さない限り、多喜は利市をちゃんと客として遇してくれた。案外に話し上手で、人気があるのもうなずける。最初はその女装に違和感もあったが、見慣れると『ふぁにー・ふぇいす』のホステスの中でも、キレイどころに入るだろう。店内の照明が薄暗く、ほんのり赤いライティングの効果もあると言えたが、顔の造作が基本的に整っているのだ。
 絢人が自慢らしく、彼の話になると相好が崩れた。頭もいいし、習っている剣道の筋も良いと親馬鹿丸出しで話す。
 多喜のそんな様子を見ると、利市は本来の目的を忘れ、いつの間にかの客の一人となっていた。
「毎晩、嵐山の辺まで出歩いてるみたいやけど、変な虫がついたんやないやろな?」
 乃木工房の事務方を取仕切る宮前が、将来、工房を背負って立つ利市を慮って言った。飲み歩く場所は出町柳にもたくさんある。一時間以上かけて、それも毎晩飲みに行くとなると、理由は女性絡みとしか考えられないのだろう。利市は独身で、乞えばいくらでも好条件の、工房にとっても有益な縁談が入る。宮前が心配するのも無理からぬことだった。
「そんなんやないんです。どうしても教えてもらいたい人がいて、その接待みたいなもんやから」
「そやったらええけど。あんまり酒、強い方やないんやし、毎晩遅遅(おそおそ)やったら仕事にも差し支えるさかい、ほどほどにしときや」
 酒は自分が気をつければ大丈夫だったが、店内の空気の悪さには辟易した。店は古いビルの地下にあって、空調と排煙設備はあるものの、それも古くなっているのか完全に煙草の煙は排されず、何となく店の中は霞んで見えた。ホステスが使う香水の匂いと、アルコール、煙草の匂いなど、さまざまなものが少しずつ混ざり合って、空気に微妙な匂いをつけている。利市は子供の頃に喘息を患った。成人してからほとんど出なくなったが、疲れが溜まって免疫力が低下すると、軽く咳き込むこともある。
――やばいな…
 百夜通いを始めるにあたって、利市は久々に吸入器を携帯するようになっていた。持っているだけで安心する御守りのつもりだったが、通い始めて五十日を越えた辺りから、店でしばしば咳が出るようになり、ついにある夜、発作が起きた。


(四)


 利市は遠くで声がするのを聞いていた。
「また友禅、するん?」
「さあ、どうしょうかな。アヤはどうしたらええと思う?」
「そんなん、タキちゃんのことやろ」
「冷たいなぁ、相談してるんやで」
「ぼくは、タキちゃんは友禅作ってる時が最高、かっこええと思ってるけど?」
 目を開けると天井が見えた。そのまま視線だけで見回す。二階へ上がる階段と、小さな仏壇、暖簾のかかった店への入り口、摩りガラスの入った格子の引き戸が片方に寄せられ、台所が見えた。こちらに背を向けて立つ二人は大人と子供で、まず子供が味噌汁碗を乗せた盆を持って振り返った。
「あ、起きたみたい」
 絢人だ。利市と目が合って、多喜に声をかけた。
「目、覚めたんか? 今から朝飯やけど、食える?」
 利市は喉の奥が乾いていた。喋ろうとするとヒューヒュー音がする。それで昨夜、喘息の発作を起こしたことを思い出した。『ふぁにー・ふぇいす』で急に息苦しくなり、ポケットを探って吸入器を取り出そうとしたのだが、ひどくなる予感が焦りを呼んで、上手く手が触れなかった。誰かが救急車を呼ぼうとするのを辛うじて制し、バック・ルームで休ませてもらった。見つけた吸入器で少しマシになった後のことを、利市は覚えていない。『文箱』にいるのだとしたら、多喜が連れ帰ったのだろう。
 のろのろと起き上がると、身体中が痛かった。
「面倒かけたみたいやな」
「ほんまや。喘息持ちが、あんな空気の悪い店におったらあかんやろ」
 利市の分の味噌汁と茶碗を絢人に渡しながら、多喜が答えた。慣れた手つきで絢人が人数分のご飯を盛り、テーブルの上に並べた。それから利市が座ると思しき位置を指差す。
「ありがとう」
「もう大丈夫なん?」
「うん。君にも迷惑かけたな」
 心配してくれたのかと礼を言うと、「ほな、後片付け担当な」と絢人は自分の位置に座った。台所から多喜が「今日は土曜日やぞ」と絢人を嗜める。どうやら学校が休みの日の食事の後片付けは、絢人の担当らしかった。
「働かざるもの、食うべからずやないの?」
「この人は日頃、働いてるからええねん。それに病み上がりやし、少しは大目に見たり」
 多喜も自分の位置に座った。昔ながらの典型的な朝の食卓。食欲がなかった利市だが、味噌汁で嗅覚が刺激され箸を取る気になった。
 多喜は土曜日を絢人に合わせて、『文箱』以外の仕事を休みにしていた。『文箱』を休みにしないのは「本業だから」とのことだが、今ひとつ真実味に欠ける。午後二時から絢人が剣道の稽古に出るので、その暇つぶしに店を開けると言う方が正しく思えた。利市の心の声は「暇つぶしやん」と絢人が代弁した。利市が噴出し、それが二人にも伝染して、和やかな笑い声が食卓に響いた。
 利市の職場・乃木工房は土曜日でも開いている。土日は手描き友禅の教室を開いていて、工房に所属する染師は週交代で講師を務めることになっていた。その日は運悪く利市が担当だったが、久しぶりに起こした喘息の発作が日頃の疲れも引き出し、とても出る気にはなれない。朝食を終えて絢人がその後片付けを始め、多喜が掃除や洗濯に取り掛かると、休む旨を工房に連絡した。帰り支度を始める利市の様子を見て、
「もう少し休んで行ったら?」
と多喜が言った。意外な言葉に利市が「え?」と聞き返す。
「まだちょっと顔色悪いし。帰りの電車でおかしなったら困るやろ? 洗濯済んだら車で送る」
「これ以上、迷惑はかけられへん」
「別に迷惑やなんて思てへんよ。まあ、どっちでもええけど」
 これはもしかしたらチャンスかも知れない。覚醒する直前に聞いた会話が現実のものだったとしたら、多喜の気持ちが少し、利市の話を聞く方に傾いているのではないか。実際、利市への当たりも柔らかくなっている。帰るまでの間に話が出来るかと期待して、彼の言葉に甘えることにした。しかし多喜は何だかんだと用事を作り、腰を落ち着かせることはなかった。土曜日はいつもそうなのか、それとも態とか――あの会話は利市の願望が見せた夢だったのか。
「もう『ふぁにー・ふぇいす』には来るな」
 帰りの車に乗り込んだ時、多喜が言った。
「行くさ」
「また昨日みたいに苦しなるぞ」
「心配してくれるんか?」
「昨日みたいなことになったら、迷惑なだけや」
「悪かったと思てる。子供の時に比べたら、ほとんど出んようになってたんで油断した。今度からちゃんと予防していくから」
 乗り込んだものの、エンジンはかからない。ハンドルに手を置いたまま、多喜はしばらく黙っていた。
 利市は急がなかった。自分から話を繋ぐこともせず、多喜の言葉を待った。
「金と時間使こうて、しんどい思いしてまで、何であの色に拘るんか、ようわからん」
 多喜に表情はなく、利市を見ようともしない。どこを見ているのか、何を思い出しているのか、利市に話しかけているのか、誰に問いかけているのか。
「色は他にもようさんある。その一色が出せんから言うて、着物が作れんわけやなし」
「自分に出せない色やからこそ、焦がれるんやと思う」
 利市の答えに多喜が振り向いた。何かを言いたげに薄く唇が開いたが、すぐに引き結ばれた。それから目線を落として浅く息を吐く。唇の端が少し上がった。
「職人やなぁ、おまえも…」
 多喜は独り言のように呟くと、エンジンをかけて車を出した。そしてそれきり、黙りこくってしまった。
 時々、利市は運転する多喜の横顔を窺い見た。視線を感じているだろうに、彼の顔の筋肉は動くことはなく、無言で話しかけられることを拒んでいる。結局、利市のマンションに着くまで、言葉を交わすことはなかった。
「送ってくれて、ありがとう」
 マンション前に車は止まった。礼を言ってドアに手をかけた利市を、多喜が呼び止める。
「もう『ふぁにー・ふぇいす』に来んでいい」
 ドアから手を離し、利市は多喜を振り返った。さっきと同じく「行くさ」と、彼をまっすぐ見て答える。百夜通いはまだ半分も残っていた。言い換えれば後半分だ。ここで引いては何もかも振り出しに戻ってしまう。
 利市のそんな視線を多喜は無視して、ダッシュボードを開け、ボールペンと紙切れを取り出した。それに何やらを綴ると、利市に差し出す。見ると『塩崎染工』と言う名と住所と電話番号が記されていた。
「知り合いの水元や。場所を貸してくれる」
「何のために?」
「振袖一枚、拵える。そやからもう、百夜通いはせんでいい。行ってもおらんから」
「え?!」
 多分、利市は間の抜けた、信じられないと言った表情をしているのだろう、彼の顔に笑みが浮かんだ。それから、さっきの紙切れを利市の手から取り、一行書き加えた。メール・アドレスだった。
「パソコン、持ってるやろ? 絵柄は何がいいかメールしろ。せっかくやから、おまえの好きなモチーフにしたる。出来れば花がありがたいんやけど。花なら、たいてい描けると思うし」
「そしたら?!」
 全てが飲み込めて、利市は目を大きく見開いた。
「引き染め(地色を染める作業)になったら、連絡する。最低でも四、五ヶ月の仕事やからな、生活の保障はしてもらわなあかんけど?」
 決定的な多喜の言葉を聞いて、利市は自分の頬を抓った。痛い――これは願望が見せた幻影でも、幻聴でもない。多喜は承諾したのだ。あの色を染めて見せることを。利市は念のために、もう片方の頬も抓る。同じ痛みをちゃんと感じた。
 利市のその様子を見た多喜は、声をたてて笑った。


(五)


 図案を決め、描き、染めて、仕立てる――一枚の友禅染めの着物を仕上げるのに、概ね二十以上の工程を要した。手描き友禅はそれら全てを手作業で行う伝統的な手法で、それぞれに専門の職人がいて、工程ごとに外注することが一般的なのだが、友禅作家本人が全工程を行うことも珍しくない。晩年こそ水元(完成した生地に残る不要物を洗い流す)を職人に任せた乃木冬川だが、それまでは全て自分の手で作業した。どの工程でも微妙な匙加減で出る色が変わる。それを自在に扱えてこそ手描き友禅師…との持論で、その考えは愛弟子である川村利市にも受け継がれていた。
 そして鳴沢多喜もまた、全てを一人でこなす友禅師だ。初対面の時、乃木文人の友人だと利市に名乗ったが、もともとは文人に師事した弟子だったらしい。つまり冬川の孫弟子と言えよう。
 多喜は引き染めの段階になったら連絡すると言ったが、利市は待ちきれなかった。あの『紫』が姿を表すのは地色を染めてからで、それまでの作業は利市が行うことと特別変わらない。しかし友禅師としての多喜を見てみたかった。利市が絵柄の希望をメールして以来ふた月が過ぎたが、多喜からは何の音沙汰もない。『文箱』に電話をしても昼間は留守で、夜はタイミングが悪く――入浴中であったり、絢人の塾の日だったり――、連絡がつかなかった。それでとうとう承諾を取らずに、利市は嵐山にある塩崎染工を訪ねた。
 塩崎染工は蒸し(染料を生地に定着させ色止めする)と水元専門の染工である。山科の工房をたたんだ文人が、敷地の一角を作業場として借りていたところだった。彼の道具の一式が残されたままで、多喜はそこを使って今回の作業を行っている。
 応対に出た社長の塩崎が、内線で多喜に利市の訪問を告げた。通してもよいとのことだったので、彼は利市を水洗い場の裏手にある多喜の作業場に案内してくれた。
「やっぱりあの『紫』、乃木さんとこの目に留まりやったんやなぁ。何にしても、多喜ちゃんがまた戻って良かった。見捨てんと良う面倒みて、さんざ苦労して。せっかく一人前になれたのに、辞めてしまうんはもったいない思てたんですわ」
 途中、塩崎が言った。多喜はあの紫を、ここで染めたらしい。友禅に携わる者なら冬川紫を知らない者はいないに等しく、最初に仕上がった訪問着を見て、塩崎はかなり驚いたと利市に語った。
「皮肉なもんですなぁ。冬川先生の息子さんがどないにしても染められんかったのに、あの『紫』を憎んどった多喜ちゃんが染めてしまうんやから」
「憎んでた?」
「文人先生が、身、持ち崩したんは、あの色のせいみたいなもんやさかい」
 塩崎は言葉を濁した。文人が病没したことは聞いたが、乃木を出てからどのような生活を送っていたのかは知らない。利市が聞かなかったこともあったが、多喜もあえて話さなかった。ただ文人の死を教えてもらった時、多喜の傍にいた絢人の冷ややかな反応が思い出された。
「多喜ちゃん?」
 塩崎染工の作業場裏に小さなプレハブ小屋が建っていた。塩崎が声をかけると入り口が開いて、多喜が顔を見せた。
「辛抱の足りんやっちゃ」
 彼は利市を見て、ニヤリと笑う。
「すまんな、子供で」
と利市は苦笑した。
 塩崎は作業場に戻り、利市は中に入った。
 六畳ほどのプレハブは文人亡き後、塩崎染工の物置の一つとして使われていたようで、社名の入ったダンボールが幾つも隅に積み上げられていた。もともとは物置だったのかも知れない。本来の役割に戻ったところを、再び多喜が友禅染めの工房として使うことになり、取り急ぎ空間を作って体裁を整えた様子が、ダンボールの積み具合で察せられた。
 多喜の作業は、図案から仮絵羽への下絵(着物の形に仮縫いした白絹に青花液で下描きする)、糸目(下絵の線に沿って防染のため細く糊を置く)までを終え、挿し友禅(絵柄に色を挿す)に入っていた。
「もう少しでキリのええとこになるから、続けさせてもらうけど?」
 多喜はそう言うと、頭の手ぬぐいを巻きなおした。
 利市は勧められた座布団に座り、彼の挿す様子を見る。
 絵柄は白木蓮。金糸・銀糸の波や、枝に止まる鳥や、下を行過ぎる御所車などの華やかな絵は一切ない。ただ白い花と、それを咲かせる枝ぶり、花弁につく雨粒があるだけ。多喜は利市の希望を聞いたが、逆に利市は彼にまかせた。彼らしい絵柄をと言い添えて。多喜が選んで図案化したのは雨上がりの白木蓮だった。華やかさが売りの友禅の振袖にしては、地味に過ぎるかと利市は思っていたが、目の前で描かれる絵柄を見て息を呑んだ。
 乳白色の花弁の先端から内に向かって、出来るだけ薄い灰桜の色味を暈す。今まさに滑り落ちようとする雨粒が、真珠のように美しい。その花と雨粒を魅せるために、枝は極力、色を抑えられた。しかし存在感がないわけではなく、それが無ければ絵柄は成立しないほど複雑な色目で挿されている。
 地味だなどと思ったことが、友禅師として恥ずかしい。決して豪奢でないが、人の目を惹くきつける仕上がりになることは、その部分からでも想像出来た。
 利市は多喜の手元から目を離し、彼を見た。普段はへらへらと笑い、ふざけた印象が先に立つ多喜だが、絹に向かう横顔はその俗っぽさが微塵も感じられない。無表情に黙々と色を挿す。
 触れてはいけない、壊してはいけない『時間』がそこに在った。



「ただ見てるだけて、退屈やろ? そやから引き染めになったら連絡する言うたのに」
 ひと段落ついて、多喜は筆を置いた。部屋の隅に追いやっている電気ポットの湯で、インスタント・コーヒーを淹れてくれた。紙コップなのはご愛嬌だ。
「いや、面白いよ。他所の作業見るんは、勉強になる」
「師匠はフミさんやから、やってることは同しはずや」
「文人さんとは山科の工房で?」
「うん。一目ぼれ」
 利市は文人が残した着物を思い出していた。冬川の死後、作業場をそのままの状態で遺すことになり、用意のために色々と整理をしていた時、振袖が一枚、出てきた。風情は師のものではなく、落款の名を見た宮前事務長が文人のものだと教えてくれた。古典柄で伝統を守りつつも、独創的な色使いや絵柄の構成で追随を許さなかった師とは違い、文人の作は、技術的には申し分なく、絵柄も優しい彩色で嫌味がないものの、『常識』を脱し得ない大人しい作品だった。凡庸とまでは言わないが、一目ぼれさせるほど目を惹くものとも思えない。
 それとも自分の工房を持った山科時代に、作風が変わったのだろうか?
「一目ぼれした作品って、どんな?」
「違う違う。本人に一目ぼれしてん」
「え?」
「俺、女に興味ないから」
 多喜が文人の山科の工房を訪れたのは、工芸大の学生の頃だったと言う。学生と言ってもパチンコとマージャンで無為に日々を過ごし、三回生を二回繰り返してからと言うもの、ほとんど授業に出なかったらしい。工房を訪れたのだって、通りかかった時に打ち水をしていた文人がタイプだったからで、この時初めて工芸大学生の肩書きが役に立ったと多喜は笑った。
 利市はすぐには意味が把握出来ず、多喜はそんな反応を面白がっているような、悪戯っぽい表情で見ていた。
「心配せんでも、おまえは趣味やない」
「なっ…!」
 利市が目を見開くと、多喜は一層、笑った。
「冗談が通じへんな」
「やっぱり冗談なんか」
 多喜は笑みの余韻を唇の端に残し、コーヒーを飲み干した。
「でも、あの優しい色が好きやったんはほんま。個性は足らんかも知れんけど、見るもんを暖かい気持ちにさせてくれた。それだけで充分やと思うのに、職人ってやつは…」
 最後の方は声が萎み、何を言ったのか利市には聞き取れなかった。


(六)


 絵柄を挿し終えると、蒸しの作業に入る。染料を生地に定着させるため、百℃前後に温度が設定された蒸し器の中で、数十分蒸し上げるのだ。絵柄にせよ地色にせよ、蒸し加減で発色が変わる。色の出来映えが友禅師の思い描いた通りになるかは、蒸しにかかっていた。経験と熟練の勘が物を言う。蒸しは塩崎染工の専門で、今回の多喜の作品には全面協力をしているのだが、専門分野であっても、あくまでもアシスタントとしてで、温度も時間も多喜が細密に管理し、蒸し器に付きっきりであった。
 挿し友禅で彼の実力を目の当たりにした利市は、あの日、帰ってすぐに休暇願いを出した。『紫』を見るだけなら、引き染めの作業からで充分であったが、色を「見るだけ」では収まらなくなっていた。色は、一枚が仕上がる工程の中から生まれている。一枚の振袖が仕上がる全ての工程が、あの色を生み出すために存在している――そう思えてならない。
「無期限て、いったい何をしとるんや? 沢口様の訪問着、待ってくれるように頼んでまで」
 多喜が振袖を作ることを承諾してから、利市は新しい仕事を抑えていた。その上に休暇願いでは、宮前事務長も簡単には承服しかねるだろう。利市の有名はすでに乃木工房の看板となりつつあった。才能もさることながら若さと見映えも手伝って、メディアからの問い合わせも少なくない。よほど説得力のある理由でなければ、「うん」と言わないのは当然だった。
 しかし利市は沈黙を守った。多喜が今回の仕事を受ける時に、冬川紫の名は出すなと条件を出していたからだ。「俺が染めるんは、ただの紫やから」と言って。
 なだめてもすかしても理由を言わない利市に宮前事務長が折れて、とりあえずひと月、休むことは許可された。兄弟子の中には、冬川の後継者だと言う驕りを口にする者もいたが、利市は反論することもなくそれを甘受した。
 挿し友禅の蒸しの作業が終わり、引き染めで地色を染める際に挿した絵柄が染まってしまわないよう、その部分に糊を置いて被せ準備する伏せ糊の段階に進んだ。この頃、冬休みに入った絢人が塩崎染工に来るようになった。塾と剣道の稽古と、友達と遊ぶ約束をしている時以外は、基本的に一日、塩崎染工にいた。
「やっぱしタキちゃんは、友禅作ってる時が最高、かっこええ」
 多喜の休憩を見計らって、絢人が作業場にしている離れのプレハブに顔を見せる。
「おおきに。アヤの顔見ると、疲れが吹っ飛ぶわ。一日、こない狭いとこに缶詰にされてると潤いがないしな。早よ仕上げて、もとの生活に戻らんと干からびる」
「でも楽しそうやで?」
 他意はない絢人の素直な言葉に、多喜は「そないに見えるか?」と苦笑して聞き返した。
「うん。そんなタキちゃん、ずっと見てたいくらいや。川村さんもそうなん?」
 急に話を振られて、利市は面食らう。
「したかて、仕事休んで、ずっとここに来てるんやろ?」
「これも仕事なんや。多喜さんが友禅作ってるとこ見せてもろて、勉強してるんやから」
「でもタキちゃんばっかし見よるよ?」
 これもまた他意はないのだろうが、言われた利市はびっくりした。多喜の手元を見ているつもりだった。途端に頬が熱くなるのを感じた。
「もしかして、このかっこ良さに惚れた?」
「な、何言うてる!」
 多喜が冗談めかして突っ込んだ。利市は過剰に反応し、頬の熱は色となって表面化した。それをまた絢人が指摘し、普段は張り詰めた空気のその部屋に笑いが満ちる。
 利市に見せる多喜の表情は、始めの頃に比べるとずいぶんと変わった。友禅の製作で静かな緊張を帯びる横顔と、絢人に見せるくったくない笑み、時折ぼんやりと空に目をやったかと思うと、息抜き代わりに利市をからかう茶目っ気を見せた。冷めた印象は生地に向かう日々で、生きたものに変わる。彼もまた職人なのだと、利市は思った。
 引き染めの色はいつものプレハブではなく、北側に建つ別のプレハブ小屋で合わせられた。色を合わせるのは難しい。光の加減に因って見える色が違ってくるからだ。蛍光灯などの人工の光ではなく、窓から入る自然光――それも北側からの直射でない柔らかな光が望ましい。塩崎染工を借りていた文人はそれをよく心得ていて、北側の遮るもののない場所に、色合わせのための空間を確保した。冬川紫を得るために。
 多喜はしばらく何も入っていない桶を見つめた。手にした最初の柄杓はなかなか動かない。白んで見える頬に表情はなく、堅く結んだ唇に何かしらの感情が垣間見える。
 どれくらいの時間が経ったのか、水で溶いた染料をそれぞれの柄杓で掬い、多喜は色を合わせ始めた。少しずつ、少しずつ。一杯掬っては確認する。
 出来上がった色は四色。系統としては白に桃、藍、紫と言ったところか。時間をかけて合わせた色は、見た目、単純な色合いに見えた。多喜が色を合わす間中、利市は紙と脳裏に細かく書きとめた。
「真面目なことやな?」
 合わせ終えた多喜がメモを覗き込む。
「悪いか」
「悪うないよ。フミさんに似てるな、そんなとこも」
 引き染めは生地を張った状態で行う。塩崎染工の母屋から水洗い作業場へ向かう長い渡り廊下が、引き染めの作業に使われた。
 薄い色目から順に染めて行く。弛みなくピンと張られた白い生地に、多喜は刷毛に含ませた染料を躊躇いなく塗りつけた。右から左に力を均等に入れながら、まずは白系の染料を。それから淡い石竹(桜草の色)の色を重ねた。白は真珠の光沢を石竹の内側で発色させた。桶の中の単純な色目は、段々と複雑な顔を生地の上で見せる。
 利市は鼓動が早くなるのを感じた。時間をかけて、それでいて決して溜まりで色斑が出来ないように、多喜は色を重ねて行く。色が濃くなるにつれ、利市の鼓動は更に早くなった。予感がする、あの色が、確かに現れる予感が。
 引き染めを終えた生地は、しかしまだあの『紫』ではなかった。濃い群青、青黛色とでも言うのか、とにかく青黒く、満月から遠い北の空の色に似ている。
「時間は?」
 蒸しにかける時間を塩崎が多喜に尋ねた。多喜は染め上げた生地を手に取り、「一時間」と答える。通常よりも長めだ。
 一時間は長く、利市は多喜と並んで蒸し器を見つめていた。今度、出てくる時には、色はどのように変化しているのだろうか。あの『紫』を目にすることが出来るだろうか?
 隣に立つ多喜は、心なしか疲れて見えた。無理もない。一日中、工房に詰めっきりなのだから。彼の集中力は並ではなかった。切りがいいところまでは、どれだけでも生地に向かっている。飲み食いもせず、時にはすぐに立ち上がれないくらい根を詰めた。
 ぐらりと多喜の身体が、利市とは反対の方に傾いだ。慌てて腕を掴んで引き寄せる。
「ああ、すまん。居眠りこいたわ」
「座ろか? 椅子、借りて来るから」
「いらん。地べたに座る」
 多喜はその場に座った。利市も隣に座る。それから多喜の頭に手をかけて、自分の肩に押し付けた。
「何やねん?」
「まだ時間かかるやろ? 少し寝ろよ。枕かわりに肩、貸してやる」
「ふうん、気、きくようになったんやな?」
「ええから」
「ほな、遠慮のう」
 そう言うと多喜は目を閉じた。すぐに肩にかかる重みが増し、彼が眠りに落ちたのがわかった。その重みは温かい。利市は多喜の頭にかけた手を肩に回した。



 利市は肩を揺すられて目を開けた。隣に座っていたはずの多喜の顔が向かいにある。利市もあのまま眠ってしまったようだ。そして多喜が起きたことにまったく気がつかなかった。
「上がったぞ」
 多喜は利市の肩を二、三度軽くたたいて立ち上がった。利市は慌てて後に続く。眠気は吹き飛んだ。
 塩崎が蒸し器をあけ、中から生地を取り出した。
「あ」
 青黒かった生地が、変化している。夜になる直前の空の色、群青とも紫とも言えない複雑な『紫』。求めて已まなかった乃木冬川の色だ。乾燥させ、改めて水洗いにかけるのだが、そうなると一層、鮮やかに発色するだろう。それを思うと、利市は興奮を抑えられなかった。
 感動で声が出ない。まだ完成とは言えない代物でも、息が詰まるほどに美しい。
「すごい…」
 言葉が零れる。色むらを確認する多喜は、利市とは正反対に淡々としていた。
「こっからは仕上げだけや。色に関する技術的なことは何もないし、振袖が仕立てあがったら連絡するから、おまえはもう帰れ」
 蒸し上がった生地をハンガーに吊るしながら、多喜が未だに呆けている利市に言った。その物言いはなぜか冷めている。利市が最後まで付き合うと言っても聞く耳を持たない様子で、
「いつまで仕事休んだら、気、すむんや。友禅師やろ? 友禅師が染めんでどうする」
と続けた。「でも」と出かけた言葉を利市は飲み込む。振り返った多喜が、人差し指で利市の唇を押さえたからだ。
「俺はおまえの言うことを聞いた。今度はおまえが聞く番や。もし辛抱出来んで、うちに来たら、この振袖は燃すから」
「な…っ」
「おやっさん、タクシー呼んだって。俺、少し休ましてもらうし」
 頭の手ぬぐいを外して、多喜は蒸しの作業場から出て行った。
 利市はその後姿を呆然と見送る。取り付く島もなかった。
「タクシーは呼ぶけど、まだ日も高いし、お茶でもどうです?」
 塩崎が声をかけるまで、利市は多喜が出て行ったドアから目が離せなかった。


(七)


「多分ねぇ、多喜ちゃん、心配なんと違うかなぁ。川村さんと文人先生と、どことのう似てますさかい」
「文人さんと?」
 塩崎はコーヒーを淹れてくれた。さっきまでうたた寝していたのを見ていたからだろう。勧められた砂糖を断り、利市はカップに口をつける。いつもより苦く感じた。
「蒸し上がった生地見た時のあんたの目、文人先生と同しやった。あの『紫』に取り憑かれてる。そう感じたんと違うかな。いつか川村さんもあの色に焦がれて焦がれて、先生みたいになってしまうんやないかって」
「先生みたいって、文人さん、何かあったんですか?」
 塩崎は浅く息を吐く。言ってしまったからには、話すしかないと思っているようだった。それでも多喜が語らないことを話すのには抵抗があるのか、しばらく間が開く。
「最期はまあ、どっちかわからん状態でなぁ」
 山科の工房をたたんで嵐山に越してきた時には、すでに文人は精神的に不安定な状態だったと言う。何日も何日も塩崎のところのプレハブ工房に篭り、同じ色を染め続けた。どれも紫ばかり。作品としては決して悪いものではなく、製品にすればそこそこの値段がつくだろうに、蒸し器から出して色を確認すると、問答無用で鋏で切り裂いた。
 まったく工房に来なくなる時期があって、そう言う時は酒びたりの日々。悪い酒で、酔っては他の客に絡んで暴れ、出入り禁止の店がどんどん増えて行った。とうとう家で飲むしかなくなり、今度は嗜める多喜に暴力をふるうようになった。一度、多喜の防御で文人が脳震盪を起こしたことがあり、以来、多喜は極力抵抗しなくなった。散々に殴り、蹴りして、酔いが醒めて我に返ると、文人は多喜に泣いて許しを乞うた。
 それの繰り返し。文人の過去の実績を知る問屋から、時折仕事も来ていたが、全うしたことがなかった。途中で投げ出して、また『紫』に戻って行く。当然、生活は苦しく、多喜が『ふぁにー・ふぇいす』に勤め始めたのは、この頃からだと塩崎は語った。
「文人先生と冬川先生とでは、性質もセンスも違う。冬川先生は文人先生に自分の跡を継がせるんやなく、そのええところを精進して、文人先生なりの友禅を作り上げて欲しかったと思うんやけど、文人先生はどうしても、あの冬川紫をあきらめきれんかったみたいで。先生の元気な頃の作を見させてもろたことあるけど、やさしい色使いで、ええ作品でしたよ」
 絢人は五才の時に二人のもとにやって来たのだが、文人の本当の子供かどうかはわからないとのことだった。絢人を連れてきた女性はどこかのスナックの店員で、関係を持ったのは事実のようだが、いつ頃か文人ははっきり覚えていなかった。嵐山に来てからの間柄だとすると年齢が合わない。女性は半ば押し付けるようにして、絢人を置いて行った。以来、どこで何をしているのかは知れないのだと言う。勿論、多喜は絢人の出生について話すはずもなく、あくまで自分の推察だと塩崎は言いおいた。とにかく絢人は文人の実子として、今も育てられている。
 文人の状態は悪くなるばかりで、泥酔して昏倒し病院に入院することもしばしばであった。薬に頼らないと不眠を訴えるようになり、指示以上に服用するので、その隠し場所に多喜は苦慮した。そんな状態だから、とうてい仕事が出来るはずもなく、文人は友禅から離れて行く。反対に、文人に師事しているとは言え、それほど熱心でなかった多喜が友禅に目覚めていった。着物を染める仕事はなかなか得られなかったが、和風小物を作るようになり、塩崎の伝で雑貨店への卸も細々ながら始めた矢先、文人が亡くなった。薬の誤飲だった。手には手描き友禅の振袖の写真が握られていて、彼の父の作品、色は冬川紫だった。
「あの『紫』は魔性の色なんかも知れへんなぁ。冬川先生のほんまもんを見たことありますけど、そらすごい迫力やった。吸い込まれる言うんか。見たもんを虜にする力がある。わしなんか蒸しと水元やからそこまで執着せんけど、手描き友禅やってるもんやったら、一度は染めてみたいと思う色やろかと。川村さんもそうなん違いますか? そやから多喜ちゃんが染めた着物を辿って、ここまで来やったんやろうし」
「多喜さんは?」
「多喜ちゃん? どないなんかなぁ。初七日済ましたその日に、突然、来やって、長いこと文人先生の工房に篭ってたわ。遺品の整理かなんかしよるんか思たら、冬川紫を染めるから協力してくれ言うて。そっからの多喜ちゃんは、そら凄まじかった。とても憧れて挑戦するようには見えんかったし」


『友禅、嫌いなんや』


 最初に会った日の多喜の言葉だ。そして引き染めの日、まだ何も入っていない桶を黙って見つめていた彼の表情が忘れられない。
「あの『紫』のために親しい人を失いたくないんやと思う。わしはもう多喜ちゃんに、あないな辛い思いはさせとうない。ちゃんと仕事して、冬川先生に負けんくらいの名匠になったってください」
 塩崎は頭頂部がすっかり禿げた頭を下げた。利市は何も返せなかった。
 話は終わり、塩崎はタクシー会社に電話をした。タクシーが来るまでの間、多喜に会って帰りたいと利市は思ったが、車はすぐに来てしまい、それは叶わなかった。


(八)


 多喜から連絡が来たのは、三ヶ月以上経った四月の初旬のことだった。振袖の仕立てに時間がかかったらしい。こればかりは多喜には出来ないため、外注に出していたからだ。
 この三ヶ月、利市は出来上がる冬川紫のことよりも、多喜のことを考えていた。塩崎が語った辛い彼らの過去が、頭から消せない。利市には、あの色に対する執着と、『冬』の字を受け継ぐにあたっての拘りしか念頭になかった。そんな自分勝手な想いで、あれほど染めることを拒んでいた彼に、冬川紫を染めさせてしまった。そのことが、ずっと利市を苛んでいる。どんな顔をして、多喜に会えばいいのか。
 そんなことを考えながら、『文箱』への行き慣れた道を歩く。重い足取りであるのに、ちゃんといつもの所要時間で着いてしまうことが恨めしかった。
「いらっしゃい」
 出迎えた多喜は利市を二階に案内した。二階に通されるのは初めてだった。二部屋あって一つは絢人の部屋で、平日の昼間なので学校に行って居ない。もう一室は二階にしては珍しく床の間がある和室だったが、広く使うために床の間の部分に箪笥類が押し込まれていた。
 部屋の中央に据えられた衣文掛けに、大振袖が掛けられている。陽に茶色く焼けた畳の古びた和室には不似合いな大振袖は、白木蓮の絵柄、地の色は――紫。今まで乃木冬川その人しか染められなかった幻の色だ。
 利市の喉仏が上下した。利市が求め、文人が焦がれ続けたその色が、鮮やかな大振袖として現れた。
 利市は多喜を振り返る。入り口の引き戸に背を凭せて立つ彼は笑った。その笑みを見ると利市は切なくなった。この素晴らしい一枚を、どんな思いで染めたのだろうかと。
「どない?」
「今まで見たどんな着物よりも、きれいや」
 多喜は振袖の方に歩み寄り、
「冬川紫の、その美しさに感動する。そやから、その美しさを絶対に許さへん」
長い袖を手に取った。
「これは結局、冬川紫やない。あの色は乃木冬川が作る紫やから、そう呼べるんや。冬川かて、毎回同し色を染められたわけやないやろう。知っての通り、いつも同し条件で染めることは不可能やからな。『今日の色』は『明日の色』やない。そやから、乃木冬川以外の人間が染める紫は、どうしたって紛いもん。冬川が亡うなった今、もう誰にも染めることは出来へん」
「…でもこの色は」
「この色を冬川紫やと言うんは勝手やけど、そないに思うんはあの色を知ってる人間だけや。知らんやつなら、ただの紫か紺色にしか見えへん。知ってるもんだけが、あの色にこだわる。特別なもんやと、どんどん錯覚するから、どんなに染めても納得出来へん。だから取り憑かれたように深みにはまる」
 憧れ焦がれて求め続けた人間は、誰一人として出せなかった紫色。しかし多喜にとってはそうではなかった。最初の三枚の原動力は、文人を失い、その原因となったものに対する怒りであり、この一枚は、見たいと願う利市の情熱に絆されての末だった。
「目、瞑れ」
 多喜は向き直り、利市の視界を手で塞いだ。
「冬川紫は乃木冬川だけの色や。フミさんにはフミさんの色があったはずやのに、見向きもせんと亡うなってしもた。おまえにも、おまえにしか出せん色がある。いつまでもこないな紛いもんの『紫』を追わんと、川村利市らしいもん、探せよ。乃木冬川かて、自分のコピーは要らんと思てるはずや。目の前にあるこの振袖の色を、俺の色やと思て見てみ。染めの作業を思い出して。きっと色味が変わる」
 多喜の色。利市は目を瞑りながら、塩崎染工での日々を思い出した。一心に生地に向かう多喜の姿を。花の絵柄は彼が選んだ。師が描いたことのない白木蓮の花だ。地色の色合わせをする際の多喜の表情。引き染めの一番色は白で、これもまた冬川とは違う。
 地色を蒸しにかけている間、利市の肩にかかった多喜の重みが蘇る。この色を染めたのは多喜なのだと、無言で訴える。
 利市は目を開けた。それを合図に、多喜の手が外れる。開けた視界に振袖が入ってきた。
 印象が変わる。似て非なる紫に。
「変わった?」
「変わった」
「そうか」
 利市の隣に多喜が立ち、並んで大振袖を見る。微かに腕が触れ合って、袖越しに体温を感じた。その温もりはじんわりと広がる。
 一年前、利市は迷いの中にあった。師の七回忌を迎え、数年後に没後十年の大々的な作品展を催す話が持ち上がり、周囲は利市に『冬』の字を名乗るようにと無言で促す。また冬川紫を期待した。紫を染められない自分に、紫が代名詞の冬川の一字を名乗れる資格はあるのか…。そんな折に現れたのが、あの振袖だった。
 オークションに出た冬川紫風の着物三枚から、『文箱』に辿り着いた。そこで乃木文人の消息を知り、『紫』を染めたのが鳴沢多喜だと知る。
 そして多喜が利市のために染めた振袖は、冬川紫と言う名の多喜の『紫』だった。
 師は冬川紫のみならず、紫を染められない一番年若い自分になぜ、『冬』の字を与えたのだろうかと、ずっと考えていた。その疑問に、多喜が代わりに答えを出してみせた。
「自分の『紫』を染めて、『冬』の字を名乗るよ」
 片腕に多喜の存在を感じながら、利市は言った。
「そうか」
と、多喜は静かに答えた。



「友禅はもう、せえへんのか?」
「生活出来へんからな。これからアヤに金かかるし」
 着物の需要は年々少なくなる一方だった。手描き友禅ともなると高価で、更にその傾向が顕著だ。乃木工房ですら拵え一本では成り立たず、工房での友禅教室はもちろん、カルチャー・スクールでの体験教室や、和風雑貨、インテリア等に手を広げている。
 独立して自分の工房を持つのは難しい。利市は多喜を乃木工房に誘ったが、やんわりと断られた。
 振袖をたたみ終え、たとう紙(着物を包む紙)で包むと、多喜は利市に差し出す。
「そんな、もらわれへんよ」
 利市は慌てて押し戻した。
「誰がタダでやる言うた? ちゃんと諸経費はもらう。それに半年の生活費も補填してもらう約束やけど?」
 多喜はあきれ顔で言った。「あ」と利市は彼の言う約束を思い出す。考えてみればこの振袖を作る間、多喜はスーパーの早朝パート以外の仕事を休んでいた。午前中のコンビニのアルバイトは辞めねばならず、『ふぁにー・ふぇいす』は長期休暇扱いになっているようだが、当然、その間の給料はない。
――半年の生活費って、どれくらいなんやろう
 考えると冷たい汗が背中の中心を流れる。そんな利市の心の中を見透かして多喜が笑った。
「冗談や。諸経費と、おまえが着物一枚、拵える時の値段でええよ。分割オッケイやから」
 一階に下りると、ちょうど絢人が学校から戻ったところだった。例によって営業札を出したまま店を不在にしていたので、多喜の顔を見るなり小言が飛ぶ。しばらく会わないうちに絢人は変声期に入ったらしく、心持、声が掠れていた。「ごめんごめん」と多喜は謝るが、一向に真剣みがない。絢人はすかさず突っ込もうとしたが、利市の姿を見てやめた。
「川村さんを車で送ってくけど、アヤも一緒に行く?」
「留守番してる」
「ほな、車回すから、表に出とって」
 多喜はそう言うと車の鍵を持って、裏口から出て行った。
 利市は絢人に今までのことで礼を言い、言われた通り店から外に出ようとすると、絢人が呼び止めた。
「川村さん、時々遊びに来てな。そんで、タキちゃんにまた、着物、作らせて」
「絢人くん?」
「ぼく、タキちゃんが友禅挿してるの見るの、好きやねん。かっこええと思わへん?」
「うん、思う」
 挿し友禅の時の多喜の横顔を、利市は思い出していた。「かっこいい」と言う俗な言葉は似合わない、清廉な美しさがあった。あの姿をこれからも見たいと思う利市であったが、彼がどのような気持ちで友禅に対峙するかを考えると、無理強いは出来ない。
「でももう、したないって言うてるけど」
 絢人は首を振る。
「本当はしたいと思う。だって、楽しそうやったもん。それに着物、出来上がって来て広げた時、嬉しそうに何時間も見てたし」
 車が止まる音がした。利市の視線をそちらに向ける。それからまた絢人に戻すと、彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。子供にはわからない事情が大人にはある。そう単純には何事も運ばない。
「来たみたいや。ほな、行くな」
 利市は店のは入り口に二、三歩進む。後ろから絢人の声が聞こえた。
「タキちゃん、一生懸命な人、好きやねん。そやから、次も川村さんが言えばするよ」
 利市が振り返るのと、クラクションが鳴ったのは同時だった。「え?」と聞きなおそうとする利市に向けて、再度、促すようにクラクションが鳴る。
「約束な、川村さん」
 用は済んだとばかりに手を振ると、絢人は居間の奥へ引っ込んだ。利市は揺れる暖簾に向かって手を振り返す。彼の言葉を反芻しながら表に出た。運転席から多喜が、店札をひっくり返してくれと利市に頼んだ。


『タキちゃん、一生懸命な人、好きやねん』


 利市は多喜を見つめた。「何や?」と彼がサイド・ミラーを覗いて言く。顔に何か付いているのかとでも思ったのだろう。
「なんでもない」
 引き戸を閉め、札を裏返した。それから店構えを見る。
 利市はまたここを訪れることになるだろうと、予感した。






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