時と夢
〔……今日も来ない……かね〕 誰に言うでも無く呟き、出されたばかりの珈琲に口を付ける。
とある都心の商店街から一つずれた路地にある小さな喫茶店。 都心には似合わない木造の小さな店。 看板などは出ておらず引き戸のガラスに OPEN とワインレッドのペンキで書かれたベニヤ板が掛けられている。
店の中も外から見た通り狭く、円形のテーブルが一つとカウンター席が四つ。 ランプに灯された光と 薄暗い蛍光灯のみが店内を照らしている。
雰囲気は喫茶店、というよりはバーなどに近いだろう。
耳を澄ましてやっと聞こえる程度のボリュームで流れるクラシックを聞きながら手元の冷めかけた珈琲をまた一口啜る。
珈琲の味は 良くも悪くも普通。 苦味の強いオリジナルブレンドだろう。 料理もたまに食べるものの決して美味しい と言う訳ではない。 それでも此処に俺が居る訳は カウンターの中で黙々とグラスを拭く 無精髭を生やした大柄なマスターが醸し出す雰囲気が好きだから、それしかないだろう。
マスターの顔に視線を一瞬移した後 燻って嫌な煙を上げている煙草に口をつけ一息吹かす。
カチ カチ カチ
静寂が支配する店内で唯一音を立て続ける古ぼけた振り時計。 吐き出した白い煙がゆっくりと天井へ上がっていく様を見遣りながら指を立て机を叩く
カチ―コン―カチ―コン―カチ―コン―……カラン。
同じリズムを刻み続けていた二つの音が 高い鐘の音にかき消される。
条件反射だろう。 俺と グラスを磨き続けて居たマスターの視線が扉へ向かう。
入って来たのは若い女性――代半ばだろうか――― クリーム色のフレンチコートにオレンジ色のセーター 少し色褪せた藍色のジーンズに 身を包んでいる。
女性の姿を確認し俺は視線を前に戻す。
コツ コツ と足音が近づき入って来た女性は俺の座る席から間を一つ空けた椅子に 腰を下ろした。 フレンチコートを脱ぎ背もたれに掛けた後 カウンターに無造作に置かれているメニューを手に取り んー……と声を漏らした後 アメリカンとショートケーキを注文した。 マスターは声を出すでも無くカウンター奥にある調理場に姿を消す。
少しして戻ってきたマスターからケーキと珈琲を受け取った彼女は 珈琲を少し啜り フレンチコートのポケットから取り出した小さな文庫本に目を落とした。
カチ―コン―カチ―コン
再び二つの音のみが店内を支配する。
どれほど時間が経っただろうか。 俺は三杯目の珈琲を飲み終え 彼女も二杯の珈琲とケーキ。 小さな窓から覗える外は既に暗くなりかけていた。
彼女は ご馳走様 とマスターに声を掛けると一枚のお札と一枚のコインをカウンターに置いた。 この店は全てのメニューがワンコイン 500円と決まっているのだ 意図は判らないが何度か通っている俺ですら マスターの声を聞いたことがない。 と言う点から考えると人との付き合いを消したいのかも…… そこまで考えた時に心の中で少し笑ってしまった―――何でこの店出してんだろ―――
カラン
その鐘の音を聞いてマスターが店じまいの準備を始めたのを見て俺も同じ様に 一枚のお札と一枚のコインをカウンターに置き席を立つ。
カラン
薄暗くなった理由は時間だけではなかったようだ。 ぱらぱらと雨が降っていた。 見上げた空は明るく雨もそこまで強いものではない―――通り雨だろう――― はぁ……と一息ため息を漏らした後にズボンのポケットから一本の手巻き煙草を取り出し火をつける。 一息吹かした後に視線を動かすと先に出た筈の彼女が目に飛び込んだ。 入り口から数歩離れた場所で自分と同じく雨宿りをしていた。
何をするでも無くぼーっと前を見つめる彼女。 自分が 何を考えたのかは判らない。 ただ、気づけば声を発していた
「誰か、待ってたのかい」
彼女から外した視線は動かさずに問いかける。 視界に入っていない為、彼女が今どんな反応をしているかは判らない。 数秒の沈黙が過ぎた後に彼女も声を上げた―――恐らく自分への問いか察するのに時間が掛かったのだろう―――
「あー……そうですねー、貴方は?」
帰ってきたのは肯定とも否定とも取れる言葉。 まぁ見ず知らずの他人にぺらぺら事情を喋る奴もいないだろう。
「それは素性を尋ねてるのかい? 何をしていたかを尋ねてるのかい?」
特に意味も無く問うた事だったのだろう。 じゃあ、後者で。 と小さく帰ってきた。
「似たようなもんだなぁ、すっぽかされた所まで」
―――厳密には待ち合わせでは無いのだが―――
「あはは、色々と寂しいですねぇ」 「じゃあ寂しい二人で傷を舐めあうといいさー?」
しまった その言葉を発した直後に後悔が頭を過ぎる。 つい普段の様に冗談を吐いてしまった。初対面には重いだろう。と
一瞬沈黙が訪れるがそれはすぐに笑い声でかき消された。 ほっと安心した自分の内心をトレースしたかの様に雨はぴたりと止んでいた。
彼女は屋根のある場所から足を踏み出し歩き出した。 少し歩いた後に振り向き手を振りながら声を上げた。
「またね、面白いおにーさん」
その声に応えるように手を軽く上げた後、彼女の背中が見えなくなるまで見送ると 自分も足を踏み出した。 〔またね……ね〕
次の日 その次の日 更にその次の日。 彼女はその店に居た。 そして……俺も。
初めは離れた席に社交辞令的挨拶だけだった。 しかし それも時間が過ぎるにつれて
席は隣になり
「んなケーキばっか食ってたら太るぞ」 「そんなに煙草吸ってたら体に悪いですよー」
他愛もない会話が増え。 静寂に支配されていた筈の店に笑い声が響く日も多くなった。
俺は二杯の珈琲 彼女は一杯の珈琲とケーキ。 そんな日が続き 彼女と俺はとても付き合いの長い友人かの様に親しくなった。
しかし俺は彼女の歳も住んでいる場所も、名前すらも知らない。 初めは行きずりに一緒になっているだけで自己紹介の必要も無かったから。 だけど今は……。
時が流れ冬のある日。 俺と彼女は最初出会った時のように店の前で雨宿りをしていた。 深々と降り積もる雪を眺めながら二人はそこに立っていた。
特にお互い意図が合った訳では無いが無言の時間が過ぎていく。 俺より少し前に立つ彼女は寒いのか ゆっくり肩を擦っている。
「寒いのかー?」 「そりゃ寒いですよー……」
顔だけ俺に向けて弱々しそうに笑う彼女を見て、一つの感情が湧き上がる。 でもそれは越えちゃいけない境。 冗談では済まない行動。
理性では判っていた。 でも止めれなかった。
視線を正面に戻した彼女を俺は 抱きしめた。
彼女は一瞬体を強張らせたがすぐに力を抜き、前に回した俺の手に 手を重ねた。
遠くに聞こえる車が雪の上を走る音を聞きながら ただ ただ何も言わずお互いの温もりを噛み締める。
「このままじゃ……だめなのか……」
ぽつりと呟いた 小さな小さな 消え入りそうな声。
「ダメだよ、お互い待ってるんでしょ」
俺の声とは対象的に凛とした、何もかもを断ち切る声。
「それは……」
そう 正論はどう考えても彼女。 俺は言葉を続けれず抱きしめたまま顔を俯ける。 彼女は俺の手を一度撫でた後 抱きしめた手を退け振り向き俺の目を一度見つめた後 駆け出した。
「バイバイ お兄さん!」 「俺は……俺は藤間だ!」
俺の声に応えてか彼女は手を上げた。 またね とは違う別れの言葉。
次の日も その次の日も そのまた次の日も 彼女はそこには居ない。 俺と無愛想なマスターだけが静寂の店内へ。
それからまた時が流れ。 店内には二つの音が響いていた。
カチ―コン―カチ―コン―カチ
カラン
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