飛昇天黒布(ひしょうてんこくふ)
本能寺はすでに、水色桔梗の旗に十重二十重に囲まれて、紅蓮の炎を上げていた。 「おのれ光秀裏切り者め!」 じだんだを踏む信長であった。 森蘭丸(もりらんまる)は、怒り狂う信長を執り成す。 「殿、今は生き延びる事こそ何より大切でござる。はよう、こちらへ。こうなると、真鍋妙技斎殿(まなべみょうぎさい)よりの密書だけが頼りじゃ」 明智勢が攻め寄せて来る、ほんの少し前に、森蘭丸宛てに妙技斎からの密書が届いていた。 (万事休すの折りは、裏庭に出て空を見よ。一筋の希望有り。すみやかに火を放ちて、空の彼方へ逃げおおすべし) はたして裏庭へ逃げ込むと、そこには一筋の縄梯子が、漆黒の夜空より、ぶらりぶらりと垂れ下がっているではないか。 「殿! はようはよう。何の為に火をつけたとお思いか!」 信長は気を取り直し、縄梯子をするすると昇って行く。 流石に、この時代の人間の足腰は、達者なものである。 森蘭丸を従えて、後も見ずに登って行くのだ。 燃え盛る本能寺の上空には、モンゴルフィエ兄弟による公開実験から、二百年も前だというのに、真っ黒な熱気球が炎に照り返されて、ポッカリと浮かんでいた。 これぞ伊賀忍法最後の秘術。 「飛昇天黒布(ひしょうてんこくふ)」の術であった。 命名者は勿論、設計者である江守友和だ。
その巨大な、変形モンゴルフィエ型の熱気球には、鉄線の大きな籠が据えられ、中では炭が燃え盛り、自力で飛行できる本格的な、まさに飛行船とも呼べる代物であった。 指揮を採るのは、信長の織田軍団による伊賀焼打ちにより、失踪したとも、非業の最期を遂げたとも言われる、もはや伝説の忍者となった百地三太夫(ももち・さんだゆう)が孫、百地百々太夫(ももち・ももだゆう)である。 飛行船は炎の生み出す上昇気流に乗り、本能寺を離れ、更に上空へ舞い上がる。 黒ずくめの伊賀忍者達は、ある者は、六機取り付けてある大きな竹製のぷろぺらをくるくると回し、ある者は、ばらんす重りを動かし、ある者は、炭籠の燃えの加減を調節し、中でも格別身の軽い忍者は、熱気に膨らみ切った黒布に、あたかもヤモリの如くペタリとへばりつき、布の弱った部分を捜しては、するすると移動して、繕うのである。 休み無く働き続ける伊賀忍者達の巧みな操船で、飛行船は安定した飛行を続けている。 この阿吽の呼吸の集団技こそ、秘術「飛昇天黒布」の真骨頂なのであった。 信長は感嘆する。 「これはあっぱれじゃ。九鬼の鉄甲船(てっこうせん)なんぞより、余程凄いわい」 暗闇の中から、ぬっと百々太夫が現れた。 「織田殿、ようこそ参られた。拙者こそ貴殿に一族郎党を撫斬りにされし伊賀の頭領、百地三太夫が跡を申し受けし、百々太夫にござる。──まずは蘭丸、それ! 積年の恨みじゃ! 思い知れい!」 さっと身構える蘭丸であったが、忍者共の素早い動きには敵わない。 「おのれ無礼者!」 たちまち蘭丸は、バンジージャンプよろしく足を縛られ、漆黒の船外へほうり出されてしまった。 「あ〜れ〜恐ろしや〜」 哀れ、中ぶらりんとなった森蘭丸である。 「かくなる上は是非も無し」 などと言いながらも、好奇心の強い信長は、地上のかすかな火の光りに目を凝らす。 「本能寺の火はもう見えぬ。山火事は無いものかの?」 この男、持ち前の好奇心の前では、恐怖など微塵も感じないようだ。 「殿〜大事無きや〜」 必死の形相で縄を手繰りながら、蘭丸がよじ登ってきた。 ちょん髷が解け、河童のようなざんばら髪になっている。 手を貸して、引っ張り上げながら信長が言った。 「のう蘭丸。比叡山の焼き打ちをの。このように空の高みより眺めてみたかったのう。ひっきっきっきっき」 流石は異常性格者の信長である。 夜風に吹かれながら、人間離れした笑い声を発する。 百々太夫は首をすくめた。
「織田殿、おひとついかがかな?」 「どれ、末期の水ならぬ、末期の菓子とは風流な。頂戴いたす」 信長は、思わず顔をほころばす。 「ちょこれい糖と申す。天下の信長殿とて、この菓子は初めての筈」 「うーむ、これは、まさに天にも昇る美味とはこの事じゃ。本来が、明智が刃(やいば)にて入滅しおる定めのわしに、このような空中船に乗せてもろうたばかりか、天下逸品なるこの美味じゃ。もはや思い残す事も無し。百々太夫殿には礼を申さねばの」 〜人間五十年〜 などと、謡い出す信長なのである。 苦い顔をした百々太夫が言う。 「いやさ信長殿。忍者の復讐を甘う考えてはなりませぬぞ。愛しき者を奪われし我ら骨髄よりの恨み。伊賀へ戻りましたら、たんと馳走してしんぜよう。いやいや、あまり怖い思いをさせて、飛び降りられてはかなわぬ。約束しよう。おぬしはなかなか殺さぬ。いたぶりもせぬよ。まずは、おぬしの愛しき者を、一人ずつ亡きものにしてゆき、おおいに、お嘆きを味わっていただく所存」 信長は、顔を歪めて笑って言った。 「ふっくっくっくっく。それは愉しみな事でござる。この信長に、愛しき者などあらば、わし自身、誰よりも驚く事でござろうよ」
漆黒の虚空の中にあり、 狂気に満ちた目をらんらんと輝かし、 風になびく乱れ髪も不気味な、 虚無的で不敵な面構え。 この、魔王信長に、 人並みな感情など、 あろう筈もない。
「まったくもって、貴殿は呆れ果てたる御仁じゃ。まあ、それこそが、信長というべきか」 再び、首をすくめる百々太夫であった。
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