広く暗い荒野。 俺はゴツゴツとした冷たい岩の上に座って黙々と石を運び続ける奴隷の様な人々を眺めてながら、夢のようなあの晩のことを思い出す。
「さっみぃーっ!」 この間の定期試験ではことごとく単位を落とした。 長年遣えた(たぶんこの表現が一番しっくりくる)彼女にはあっさり振られ、おまけに今日バイトもクビになった。 ……すきま風吹き込み放題の外の方がまだ暖かいようなボロアパートの家賃の滞納は3ヶ月。 ポケットの中の300円が今の俺の全財産。 あまりの寒さに叫びたくもなろうってなもんだ。 「くっそー、店長のヤツ。たかが皿を2、30枚割ったぐらいでクビだとぉ! なんて小さい野郎だ」 コートはもちろん、マフラーや手袋すら持っていない。唯一の防寒着である薄手のカーディガンの恩恵に少しでもあやかろうと、身を縮めながら歩く俺の視界に何か白いものがちらついた。
雪?
「そんなに俺が嫌いか? こんちくしょーっ!」 天に向かって叫ぶ俺の声は、次第に夜の闇に溶けていく。 流石に虚しくなり、もう帰ろうと頭では思っているのに、体が動かない。 俺は手を振り上げたそのままの格好で、ある一点から目が離せなくなっていた。
夜の闇の中、1人の少女が浮いて――いや、ゆっくりと落ちてきていた。 音もなく静かに俺の腕の中に沈んだ少女の小さな背中には、白くて可愛い翼。 そう、俺がさっき見たのは雪ではなかったのだ。
病院? 警察? それともテレビ――?
頭の中で道徳と打算とが、常識と非常識とが激しくせめぎ合う。 その勝負を決めたのは、肌の色が透けて見えるような薄い布きれ1枚羽織っただけの少女のヒンヤリとした肌の感触だった。
気がつくと俺は走っていた。 死んだように眠る少女を腕に抱いたまま。
カンカンカンカン―― アパートの古い階段を駆け上る音が響く。 きっと明日、階下の住人に嫌味を言われるだろう。だけど今はそんなことを気にしてはいられない。 「あぁ、たくっ、こんなことならちゃんと蒲団を干しとくんだった」 敷きっぱなしの蒲団の上に少女を寝かせる。薄く冷たい煎餅蒲団。 眠る少女は小さく身震いする。 俺は慌て脱いだカーディガンも掛けてやり、節約のため普段は点けないストーブに火を点けた。 確か、何処かにハーフケットもあったはずだ。 ごちゃごちゃした押し入れを掻き分け探しだす。 しばらくして程よく部屋が暖まったのを感じ、ホッと一息吐くと急に喉の渇きを覚えた。 ――そうだ! 水が要る。 少女にこのボロアパートの水道水を与えるわけにはいかない。 急いでコンビニに走る。 パンとミルク。 これで俺は一文無しだ。 家に帰ると、少女は起き上がっていた。 薄い蒲団の上にチョコンと座って、大きな目でコンビニ袋を提げた俺を見ている。 普段は灯りを点けてもなお薄暗い俺の部屋が、眩しいほど明るく見えて、俺は玄関から一歩も動けずにいた。 すると少女は立ち上がり、立ち尽くす俺の手に触れながら反則とも言えるぐらいの可愛らしい笑みをくれた。 「×××××」 ミルクを口にしながら、少女は俺に話しかけている。 何を言っているのか判らないけれど、その小鳥の様な綺麗な声は、唯でさえボーっとしている俺の温度を上げていく。 ミルクを飲み干し、再び俺に笑いかける少女。 俺は幸せの絶頂にいた。 それなのに、次の瞬間、俺が話しかけようとしたその瞬間。 少女はパッと身を翻し、締まりの悪い窓を開け放つと、月の明かりさえない闇の中へと翔んでいってしまった。
――――え?
しばしの放心の後、俺を襲ったのは怒りだった。 「礼さえ無しかよっ! バカヤロー!!」 蹴り上げた蒲団から、少女の白い羽が飛び散った。 頬を撫でながら舞い散る暖かな羽は、俺の怒りを吸い取り、変わりにやってきたのはある願い。
「せめてもう一度。一目だけでも……」 ポツリと呟いたその時、灯りが消えた。 とうとう電気が止められたか。同時に灯油も切れるなんて本当ついてない。 だけどそんなことはどうでも良かった。今は何もする気が起きない。今日はもう寝ることにしよう。 そうしたら、夢の中で会えるかもしれない。 それほどまでに、俺にとって少女の印象は強かった。
そして気がつくと此処にいた。
「コラッ! この新入り! 堂々とサボってんじゃねぇ」 ギョロ目の赤鬼に睨まれて、俺は仕方なく仕事に戻る。理由もなくただ黙々と石を運ぶだけの意味の無い作業に。 そう、此処は地獄。自ら命を棄てた者が行き着く処。 緑どころか色も無い剥き出しの大地は裸の足には辛かったが、今はもう痛いとも寒いとも感じない。ただ重いだけだ。
だけど、俺は幸せなんだ。 陽が射すことの無いこの枯れた大地の上、広がる空に、時折仲間たちと駆け回る天使たちが見える事がある。 まるで間にマジックミラーがあるかのように彼らが此方を気にすることは決してない。きっと上に存在する者は下を見る必要がないのだろう。
天使の羽が何か1つだけ願いを叶える力を持っているなんて、あの晩は知らなかった。 けれど、それは俺にとって大した情報(こと)ではない。例え知っていたとしてもきっと俺は同じ願いを口にしただろうから。 あの大きな瞳に、このみすぼらしい姿を映したいなどと願うことすら罪深い清らかな俺の少女。
そして俺は、楽しそうに遊ぶ天使たちの中に少女の笑顔を見つけ、1人悦に入る。
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