「もう、チョームカツク」 電話の相手はナツミだった。彼氏の事で父親と大喧嘩して、家を飛び出してきたらしい。 「行く所なくてさ……」 「いいよ。ウチに来なよ」 乃亜は快く彼女を招いた。 ナツミの彼氏は、三歳年上の専門学校生だ。彼女の父親はそれが気に入らないらしく、事あるごとに彼氏を悪く言うらしい。 今日は彼氏と一緒に遊びに行って、帰りが遅くなった事を咎められたそうだ。 父親にしてみれば、娘が心配でたまらないのだろう。 乃亜は、そんな普通の親を持つナツミの事が、少しだけ羨ましく思い、彼女の愚痴をひたすら聞いてあげるのだった。 普通の父親…… 乃亜の父親も昔はごくありふれた普通そのものだった。周りの他人から見ればそんな見かけの姿は、死ぬまで同じに映ったかもしれない。 しかし、乃亜には父と一緒にプールへ行ったり、買い物をしたりした日々が、まるで自分が生まれる前のような、それほどに遠い昔の出来事に感じるのだった。 どうしてあの男はあんなふうになってしまったのか。どうして自分に性的興奮を感じるようになってしまったのか……以前はそんな事考えても見なかったが、あの男が死んでから乃亜は、時々ふと考えるようになった。 母親が出ていったから、欲求を満たす相手を自分に向けたのだろうか…… いや、普通は風俗に行くだろう。外で女を作るだろう。 いくら欲求が溜まっても、実の娘を性的パートナーにはしない。たとえ、自分好みの容姿に育ったとしても…… どうして…… どうしてあたしだったの。 「でね……乃亜?どうしたの?」 「ううん。何でも無い。それで? なに?」 乃亜は気を取り直して、ナツミの話に聞き入った。 考えてもしょうがない……あの男があたしにした行為は事実で、この身体に刻まれた記憶は永遠に消えはしないのだ。
朝方まで話し込んでいた乃亜とナツミは、昼近くになってようやく起きた。 ナツミが電源を切っていた携帯の留守電を再生すると、十件ものメッセージが父親によって入れられていた。 ナツミは「ムカツク」と言いながら、その日の夜には自宅へ帰って行った。 それでも乃亜にしてみれば、そんな普通の親子関係が微笑ましく感じた。
所沢で買い物をしていた乃亜は、突然女性に声を掛けられた。 「亜矢乃」 最初は自分に声が掛かっているとは思わなかった。だって、乃亜は亜矢乃では無い。 「アヤノ。何シカトしてんのさ」 そう言って、後ろから肩に触れられて、乃亜は怪訝そうに振り返った。 「あの……」 乃亜は顔を見れば人違いと言う事がわかるだろうと確信していた。ところがその女性は乃亜の顔を正面から見たにも関わらず 「何してんの?買い物?」 乃亜は一瞬言葉が出なかった。 マスカラを塗り重ねたガチガチの睫毛の奥に怪しく輝くダークグリーンの瞳に、一瞬吸い込まれそうになる。 紅い髪の毛に負けないほど真っ赤なグロスを引いた唇は、ガムを噛んでいる為か終始動きを止めない。 「あの…… 人違いです。あたしはアヤノじゃないです」 今度は相手の女性の方が怪訝な表情を浮かべた。 「なによ、澄ましちゃって」 「は?」 「ま、いいや。昼間は他人って訳ね」 女性はそう言って艶やかなローズピンクの唇で笑みを作ると、そのまま歩いて下り用のエスカーレーターに消えた。 誰…… 何? 乃亜の思考はひたすら混乱していたが、自分に見覚えが無いのだから人違いに違いないだろうと深くは考えず、その出来事は直ぐに忘れてしまった。
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