いったい…… いったい、何が起きたのだろう。 あの男は死んだのだろうか。あたしが刺したのだろうか。 どうして、ポケットの中に飛び出しナイフなんか…… 乃亜は、肩で大きく息をしながら自分のポケットに手を当てて考えた。 でも、あたしが目を閉じたのは一瞬だった。ほんの一瞬だったはず…… 違うのか? 自分が一瞬だと思っているだけ? 亜矢乃とはいったいどんな女なのだろう…… あの一瞬こめかみを貫くような痛み。 あの一瞬の記憶が無い。 あの一瞬、あたしは亜矢乃になったのだろうか。そして、あの男を刺したのだろうか…… 一人息を切らす乃亜に、同じ車両に乗り合わせた周囲の視線が集中する。 彼女は慌てて平静を装う為に、静かに深く息を吸って、そして静かに吐いた。それでも心臓の鼓動の高鳴りは収まらなかった。 彼女は、周囲の人の視線を避ける為に、身体を返して窓の外を向いた。 窓に映る自分の顔がとても頼りなく、疲労に満ちていた。その顔の奥に潜むもう一人の自分が、一瞬ガラスの奥に見えたような気がした。 亜矢乃はそんなに凶暴なの? いや、違う…… あれは防衛本能だ。純粋に自分を守るために、亜矢乃が行った行為。 それは、あたし自身が望んだ行為かもしれない。 乃亜の脳裏にふと恐ろしい事が過った。 防衛本能……あたしの望み……。 父から逃れたい一心も……あの時…………朝起きた時、父親は既に死んでいた。 腹部には刺し傷があって、玄関の鍵が開いていた事から、警察では物取りの犯行か怨恨かと言っていたが、状況証拠も無く捜査は難航してあまり進んでいないらしい。 あまり考えた事が無かった。あの男がこの世から消え去った事実だけがあれば、それでよかった。 乃亜にとって、父親が何故死んだかなんてどうでもよかったのだ。 父から逃れられたのも、亜矢乃のおかげ? 亜矢乃は父を……まさか…… そんな痕跡は一見して何処にも無かった。凶器だって見つかっていない。 しかし、さっきの男は……あの男をナイフで刺したのはどう考えても自分だった。 他には人影は無く、どんなに都合よく考えてもそれ以外に在り得ない。 乃亜は高鳴る鼓動が何時までも収まらないまま、入間駅に着いた。
乃亜が終電に乗り込んで間もない頃、所沢のショッピングロードにある雑居ビルの周りは密かな慌しさに囲まれていた。それはBoscoの入っているビルだった。 駅と反対側に抜ける車道からは、ゆっくりと数台のパトカーが赤色灯を点けずに静かに入り込んで来ていた。 それでも、少し離れた細い路地の暗がりに男が倒れている事など、誰も気づきはしなかった。 Boscoのテーブルで、コウは再び仲間に囲まれて酒のグラスを片手にタバコを吹かしていた。 「なんだよ、亜矢乃誘ってなかったか」 バンド仲間がコウに近づいて言った。 「返しちまって、もったいねぇ」 カウンターにいたもう一人も、コウのいる席に戻ってきた。 「あいつは、そういう娘じゃないんだよ」 コウは呟くようにそう言って、気だるそうにグラスを傾けた。 もう一方の手に挟んだタバコの煙が、天井から注ぐゆるいライトに照らされて、ゆらゆらと細く立ち昇っていた。
終電が終わった後でも、週末のBoscoはお客の引く気配が無い。 他の店と違って、未成年にも酒を与えるこの店は、高校生、専門学校生など、週末に行く当てのない少年、少女たちの貯まり場的な存在として有名なのだ。 中にはいい気になって、学校の制服で入店する若者もいるが、さすがにそれは許されない。あくまでも、未成年では無い素振りをしなければ、ここに入る事は出来ないのだ。 店主であるリーゼントのバーテンの男は、どうせ飲むんだから、無茶な事をさせないようにこの店で飲ませてやった方がいい。そう思っていた。 それは、自分が学生だった頃を振り返っての事なのだろう。 最低限のモラルも、少年たちはここで教えられる。もし、他の客といざこざを起こせば、二度と店には入れない事もみんなが知っているのだ。 確かに法律に触れる行為には変わりないが、駅のロータリーでたむろしているよりも、ここに来れば仲間にも会えるし、酒とタバコ以上の犯罪に走る事もない。それは確かな事だった。 オールディーズの曲が流れるまったりとした時間の中、入り口の重いドアが勢いよく開いた。 空間を切り裂くような、このひと時を瓦解する音だった。 只ならぬ気配に、店内の若者は一斉に視線を向けた。 背広を着た男が三人、なだれ込むように入って来たかと思うと 「警察です。みんな動かないで。その場にいて下さい」 その声は妙に穏やかで、イベントの係員のような口調だった。 誰もが動揺した顔を隠す事は出来なかった。誰かがトイレに逃げ込もうとした。 「ほらそこ! 動くなと言ったろう」 さっきの穏やかな声とは裏腹な、迫力のある怒鳴り声が店内に響いた。 「とりあえず音楽止めてくれる」 後ろにいた若い私服警官が、カウンターにいるバーテンに向かって言った。茶髪の若い店員は慌てるようにオーディオの電源を落した。 途端に店内には静寂が広がって、何処か冗談のようにも見えた光景は、瞬く間に緊張した空気に包まれた。 「店主はあなただよね」 リーゼントのバーテンに向かって、最初に言葉を発した背広の男は言った。やはり、穏やかな口調で、それが余計にこの空間の緊張を高めていた。 その時、再びドアが開いて、5人の警官が入って来た。背広の上に全く似合わない、背中にPOLICEと入った紺色のジャンパーを着ていた。 「ここで、未成年に飲酒をさせていると言う通報があった」 背広の男は、続けて言った。 成人のお客はそのまま店を出されて、残った未成年者は男女含めて店内に七人いた。 もちろん、その中には真鍋コウの姿もあった。 しくじった…… ここは安全だとみんなが思っていた。 しかし、法を犯している事に安全などないのだ。 ここに出入りする事は何時しか当たり前になって、何処か合法なような錯覚さえしていたのだ。 彼は、来年受ける大学の事など、これからの自分の未来を一瞬で考えていた。 今夜、あのまま亜矢乃と店を出ればよかったのか。そんな事をぼんやりと思いながら、額に流れる冷たい汗をそっと拭った。
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