まだ終電に間に合いそうな時間だった。商店街にはほとんど人影は無く、路上の片隅でギターを弾く青年の姿だけが街路灯に照らされて、なんだか物寂しく映った。 駅のロータリーが見えると、終電に乗るための人影が意外と多いことに気がついた。 飲んで帰る連中が、この時間になだれ込んでいるのだろう。 乃亜は何だか判らない涙が、ポロポロと頬を伝うのを感じていた。 悲しい訳でも無いのに、次から次へと瞳から雫が零れ落ちる。 自分はコウを疑っていた。亜矢乃と同じこの身体が目当てなのではないかとか、二人きりの時に彼の目の前で亜矢乃になるのを待っているのではないかとか。 そんな醜い考えしか浮かばない自分の心が嫌だった。 あの精霊が宿るような綺麗な瞳は、もっと純粋に自分を見ていてくれたのだ。 どうして、自分も純粋に彼を見る事が出来ないのか。初めて出会った時は、純粋にあの瞳に心が揺らいだではないか。 立ち止まって涙を拭いたかったが、今は駅へたどり着くのが先決だと思った。 コウと身体の関係になってから、次第に頭痛はしなくなっていった。今は記憶の欠損も自分では感じられない。 「最近亜矢乃が現れなくなったよ」この前会った時、コウもそう言っていた。今日聞いた彼の言葉からしてもそれは本当なのだろう。 亜矢乃は何処へ行ってしまったのか。 自分の心がコウによって満たされている今、亜矢乃が現れる必要が無いと言う事なのかもしれない。 その時、急に背後から誰かが乃亜の腕を掴んだと思うと、身体ごと細い路地へ引き込まれた。 乃亜は、あまりの驚きと恐怖でとっさに声が出なかった。 小柄な乃亜は、あっという間に暗い路地の中ごろまで引っ張られてしまった。 「なんだよ、コウにばっかり女が寄っていってよ」 さっきBoscoの中で見かけた気がする顔が、暗闇に注ぐ微かな光の中で狂気に満ちた笑みを浮かべていた。 乃亜は暗い路地に倒されて身体を強く押さえ込まれ、身動きが取れなかった。 いきなり口にバンダナを押し込まれて、声が声にならない。 バタバタと身体を動かしてみるが、馬乗りになった男の身体はビクともせず、自分の体力を無駄に消耗するだけだった。 男の大きな手は、片一方だけで彼女の両手を掴む事が出来た。頭の上で両手を掴まれた乃亜は、全く自由が利かなかった。 男は酒臭い息を荒げて、空いたもう一方の手は当然のように乃亜の身体を這い回る。 乃亜はもがきながら、これは現実なのだろうかと言う疑問さえも沸き起こった。何処か現実味の無いこの状況は、彼女の思考を振るわせた。 一時、息をつく為に乃亜の抵抗が止まると、両手を掴んでいる男の手の力が緩んだ。 彼女の身体を触るのに夢中なのだ。相変わらず酒臭い息が、乃亜に降りかかる。 その隙を突いて、乃亜は左手をそこから抜き取る事が出来た。何故か着ていたライダースジャケットのポケットに手を入れた。 自分でも、何故とっさにそうしたのか分からない。 ポケットの中に入れた手が、冷たく硬いモノに触れた。彼女は無意識にそれを握り締めた。 男は慌てて、ポケットに入れた乃亜の手を再び掴もうとする。 携帯電話でも取り出そうとしていると思ったのだろう。 その時、乃亜のこめかみの、右から左に細くて長い針が貫いたような、激しい痛みが一瞬走った。歯科治療で神経を触られた時のような、全身に冷たい電気が走って身体が跳ね上がるような痛みだった。 乃亜自身は、その一瞬の痛みに思わず目を閉じた。そのはずだった。 しかし、その一瞬閉じた目を開けると、乃亜に圧し掛かっていた男は急に立ち上がってよろめきながら後ろへたじろいだ。 乃亜は何が何だか分からなかった。 男の重みが身体から無くなった為、彼女は両手を地面に着けて上体を起こしながら目の前の男を見ていた。 さっきポケットの中で感じた冷たいモノ。 確かに握ったはずなのに彼女の手は空だった。 暗がりの中で微かに見える男の腹部にはナイフが呑み込まれていて、シャツが黒々と染まってゆく。 いったい何が起こったのか…… 男は声も出さずに、その場に崩れるように倒れこんだ。 その光景は、何だか判らないものに追い立てられているようで、乃亜にはこの上なく恐ろしかった。 気がつくと彼女は細い路地を抜けて走り出していた。駅まではあっという間だった。 急いで切符を買おうとするが、手が震えてなかなか硬貨が入らない。 とにかく自販機にお金を入れることに集中した。 自動改札を抜ける時、終電の発車のベルが鳴っていた。 一番近い車両のドアに滑り込む事が出来た乃亜は、肩で息をしながら閉まったドアにそのままもたれかかった。 鼻孔に付着しているのか、衣服に付着したのか、彼女はまだあの男の酒臭い強烈な臭いを振り払う事が出来ないでいた。
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