週末、乃亜はバイトが終わると一端家に戻り、鏡台の引き出しを開けた。 亜矢乃が使っているファンデーションを薄く塗って、瞼にアイシャドーを乗せる。 アイラインを濃い目に引き直して、マスカラをたっぷりと二度塗りする。何だか瞬きが重くなった気がするのは気のせいか…… ローズピンクのグロスを唇に引いて、着ている洋服を脱いだ。 赤いチェックのミニスカートを履いて、鋲の着いたギャリソンの太いベルトを腰に巻く。いつの間に買ったのかまったく記憶に無い革のライダースジャケットを羽織り、家を出る。 再び所沢のBoscoに着いた乃亜は、勢いよくドアを開けた。 客の視線がくすぐったいくらいに全身を撫で回す。 髪を揺らして闊歩しながら、店内の様子を見定めると、奥のテーブルにコウの姿が見えた。 「よう、来たんだね。最近見かけないから」 コウはバンドメンバーらしい仲間と一緒だったが、その連中は気を利かせたのかカウンター席へと移って行った。 「何だか、久しぶりな感じだね」 彼はそういいながら、タバコに火をつけた。 コウは完全に、乃亜を亜矢乃だと思っている。 そう…… 乃亜はコウの気持ちを確かめる為に亜矢乃の姿でここへ来たのだ。 自分は本当にただの亜矢乃の代用に過ぎないのか…… 彼に、自分の身体をさらけ出した事は間違いだったのか…… 結局男は身体だけが目当てなのだろうか…… 乃亜は出来るだけ明るく楽しげに笑って見せた。あの写真で見た亜矢乃の笑顔のように。 「最近彼女が出来たんだって?」 「誰に聞いたんだい?そんな事」 「いいじゃん、誰だって」 乃亜は怪しい笑みを作って見せた。ローズピンクの唇は店の照明に照らされて、淡くパールを浮き立たせる。 相変わらずコウは気付いていはいない。完全に亜矢乃と話しているのだ。そして、乃亜との約束通り、彼女とは別の人間として接してくれている。 その姿が、乃亜には少しだけ心苦しかった。 「今日は、麻希は?」 「ああ、明日模試があるらしい」 麻希はああ見えて、進学校に通っているのだ。校風が自由を尊重しているので、勉強さえしっかりやれば身なりは関係ないらしい。 「そう……」 乃亜は少し安心した。もし麻希が来たら、メイクをしていても自分が乃亜だと見破られそうな気がしていたのだ。 「彼女はどんな娘?」 乃亜はマティーニを口にしながら尋ねた。 「どうして、そんな事訊くの?」 「何となく、知りたいじゃない」 コウは、少しだけ目を伏せると 「悲しく、綺麗な目をした娘さ。キミみたいに」 「あたしが?」 「彼女もそうだけど、何か悲しい過去を持っているんじゃないかな。それが瞳のずっと奥に映るような感じ…… かな」 コウはそう言って微笑んだ。 コウは乃亜に対して、どうして高校生なのに一人暮らしなのか、両親はどうしたのか訊いては来なかった。だから乃亜は、本当に自分に興味があるのか無いのか、ただ亜矢乃の事が知りたいのか。まったく検討がつかなかった。 自分を抱いている時にも、亜矢乃の事を考えているんじゃないか…… そんな不安が過っていた。 しかし、コウは思いの外自分を見ていた。瞳の奥から乃亜の悲しい過去を見つけてくれていた。 誰も気づいてはくれない心の悲しみは、いつの間にか彼女の瞳に映し出されて、それを彼はちゃんと見てくれていた。 「あたしが、今夜付き合うっていったら…… どうする?」 コウは手元のビールを飲み干すと、涼しげな笑みを浮かべて 「嬉しいけど、遠慮しておくよ」 乃亜は正直コウの言葉が嬉しかった。 彼の瞳にはやっぱり、少しシャイな精霊が宿っていた。それは、虹彩の奥から優しく乃亜に微笑みかけるのだ。 目の奥が熱くなって、涙が込み上げてきたが、それを見せるわけにはいかない。 「そう…… じゃあ、別の誰かを誘おうかな」 乃亜は彼から視線をそらすと、そう言って立ち上がった。 「止めておけよ」 コウは乃亜の手を掴むと、真剣な顔でそう言った。 「冗談よ。今日はもう帰る。じゃあね」 「ああ」 コウは座ったまま足を組みなおして、右手を軽く上げて出口へ向かう彼女を見送った。 乃亜は彼の優しい確かな視線を背中で感じながら、出口のドアを抜けた。
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